ベルリン攻防戦
ヤルタ会談へ向かう途上、英米軍の今後の戦略について激論が交わされ、それが余りに激しかった為にその内容は厳密な外部秘とされた。アイゼンハワーは広範な戦線を維持して進むことを主張し、モンゴメリーは強力な前衛隊でバルト海沿岸を席捲、あるいはベルリンを目指すことを主張した。チャーチルがアイゼンハワーにベルリン突入を要請したのはこの時である。
アルデンヌ作戦に敗れた後ヒトラーはベルリンに戻り、その生涯最後の105日を地下壕で過ごしたがその間もベルリンでは激しい攻防戦が続いていた。西側の記録には幾つかの視点がある。テイラー教授は、西側同盟軍は「さして重要な戦闘に直面しなかった」という。焦点となるライン川の渡河作戦の成功は優勢な空軍力の爆撃によるところが多かった。ドイツの約20個師団は東部の戦線に移動し、残るドイツ軍の主力はルール地方で包囲され、4月18日に30万人の兵が降伏した。その後は「エルベの誓い」として劇的に報じられるエルベ河畔のトルガウでの4月25日の東西両軍の邂逅まで凱旋行進のようなものであったという。
東側でソ連は4月中旬を期したベルリン攻撃の準備に十分な時間をかけた。彼らは西側に先を越されることを心配したかもしれない。いずれにせよ、スターリンが「”小さな同盟軍”が赤軍より先にベルリンに入るつもりでいる」と述べたことはよく知られている。彼は東からジューコフ、南からコニエフにベルリン攻略を競わせた。ドイツ軍がその最後を賭けたこの戦闘は熾烈きわまりなかった。ドイツ陸軍の残るすべてが防戦に当たり、ソ連軍は兵2百万、砲4万1千、戦車6千3百、航空機5千をもって猛攻を加えた。攻撃の第一弾は4月16日に放たれた。地下壕に籠ったヒトラーの最後の抵抗と死についてはすでに述べた。ドイツ軍の抵抗は動物公園(Tiergarten)の防空壕が最後であったといわれる。
テイラー教授の示す通り、ベルリンのドイツ軍はソ連軍への抵抗に集中し、ソ連軍に屈服した。大塚金之助教授はこれを「ベルリンは東から落ちた」と表現する。『ジューコフ元帥回顧録 革命・大戦・平和』は、「ベルリンへ」、「ベルリン作戦」の2章計61頁を割いてその経緯を詳述している。これはベルリン攻防戦についての細部にわたる貴重な証言であるが、ここでは戦後、近年のベルリンを訪れた者にも解りやすい地名やランドマークによって示される大塚教授の『ある社会科学者の遍歴』によってそれを見ることにする。
教授は、ベルリン陥落については多くの著書があるが、ベルリン陥落後に入った報道陣の事後報告だから生々しい息遣いがないとして1966年にドイツを訪問した際に保存されている「自由ドイツ新聞」を読んでこれをまとめている。
4月24日—ソ連戦車部隊は、北、東、および南からベルリンを包囲しつつある。東南のソ連軍は今の西ベルリン市内に突入し、その最先端はいまの高架線のランクウィッツ停車場に達し、東行列車の起点シレジア停車場も占領した。町角から町角へ、建物から建物へと、戦闘のつづく有様が手に取るように想像される。
4月25日—北と南のソ連部隊はポツダム(ベルリン南西の小都市)の北方で合流し、ベルリンは完全に封じ込められた。今ソ連戦死者の大きな墓地のあるトレプトウもソ連軍に占領された。(ベルリンを訪問する者は東ベルリンの中央部を巨大墓地が占めているのに驚かされる。)この日は「エルベの邂逅」の日であり、これによって全ドイツ内のナチ軍隊は北と南に分断された。
4月26日—今アメリカ式の自由大学のあるダーレムが西から占領された。
4月27日—ソ連軍の包囲は圧縮される。激戦が連想される。西ベルリンの空港があるテンペルホーフが占領される。(あまりに街中に近くあるので驚ろかされる小さな国際空港である。)
4月28日—ソ連部隊はベルリンの住宅地域を進んで行く。シャ―ロッテンブルグ区やフリーデナウ区が占領された。
4月29日—ソ連軍はいよいよベルリンの繁華街を進撃する。東ベルリンの中心街アレクサンダー広場、西ベルリンの中心街クーアフュルステンダム(煤まみれの戦災記念碑として残されたウイルヘルム皇帝記念教会が突出していた)やポツダム街やベルリンの真ん中にある公園ティアガルテンに進出した。
4月30日―ソ連軍は国会議事堂の上にソ連旗を掲げた。ソ連部隊は北から市の内部に突入。
5月1日—東、南、南東から市の中心へソ連軍が突入。ベルリンの西方および北方では、ソ連軍は西へ40キロのブランデンブルグとその北200キロのロシュトックを結ぶ線まで進出。同日夕方、一つのドイツ放送は、総統大本営の発表として同日昼頃アドルフ・ヒトラーは死んだと放送した。
5月2日—地中海方面の連合軍本部は北イタリア全ドイツ軍の無条件降伏を知らせた。降伏はさらにオーストリアに広がった。
5月4日—モンゴメリー元帥の本部は、オランダ、デンマーク、ドイツ北西部などの全ドイツ部隊の降伏を発表した。(同日のリューネブルグおよび5月7日のランスでの降伏は先に述べた。)
大塚教授は、日ごろは田無特高警察の監視を受けていたが「春たけなわの4月7日、ぼくは、思いがけなく東京の中心の警視庁からはるばる出張してきた一人の特高の訪問を受けた。」その特高は玄関にどっかと腰をおろして「ベルリンは落ちるでしょうか?」と聞いた。もちろん落ちると答えることはできない。「ベルリンは落ちません」と答えると特高はあらぬ方向に話題を持って行った後でまた同じ質問を繰り返した。1時間ばかりの間に同じ質問を3回繰り返してから彼はようやく腰を上げた。このように支配階級の情報網は思想犯人のそれよりも早く危急に陥ったドイツの情勢を把握していた。「ベルリンは東京にもあった」と教授はいう。
ジューコフ元帥回顧録から
大塚教授は当時の「自由新聞」の記事を読んでベルリンの「町角から町角へ、建物から建物へと、戦闘のつづく有様が手に取るように想像される」(4月24日)と書いておられる。ジューコフ元帥の回顧録にはその想像を裏付ける具体的な描写がある。ベルリンはソ連軍によって攻略され、「東から落ちた」。このために西側のソースからはヒトラーの最後の状況を含めてベルリン陥落の状況を知ることはできない。
「4月20日、作戦開始5日目、クズネツオフ大将指揮下の長距離砲がベルリンに向かって火を噴いた。こうして、ナチ・ドイツの首都に対する歴史的な攻撃が開始された。」
「戦局がベルリンの中心部に移っていくにつれて敵の反撃は刻一刻と激烈化して行った。(…)最初から市街に配置されていた彼らは、市街戦の有利な点は、ことごとく利用することができた。高層ビル、頑丈なコンクリート壁、とくに防空壕、地下道で連絡できるトーチカ、こうしたものが重要な役割を演じた。これらの施設を利用して、敵は一つの区画から他の区画へと移動し、時には、わが軍の背後に出没することさえあった。」
「わが軍は、戦車、自走砲などの支援の下に攻撃を続けたのだが、その前方には、敵の砲弾で堰が作られ、街路に沿って進むことは、全く不可能だった。そこで、先ず隣の建物の壁に爆発物をたたきつけて穴をあけ、そこをくぐって市役所にせめこむことが決められた。わが軍の工兵が、爆弾をしかけては、一つ一つのビルの壁をぶち抜いていった。爆破の煙が消えないうちに、攻撃部隊がそのすき間にとびこみ、白兵戦を演じながら、隣接建物の占拠に成功した。」
「国会議事堂の建物をめぐっても、流血の戦闘が繰り広げられている。この建物は、ベルリン防衛組織の中、第9中央部隊に属し、強固な防衛施設になっていた。兵員は、SSのえりすぐりのものからなり、その数は約6,000人で、戦車、迫撃砲をはじめとする各種火器をもっていた。」
「5月1日夕刻には、敵は全部で1,500人になってしまい、戦闘不可能とみて降伏してきた。(国会議事堂守備隊の降伏と思われる。)」
5月1日のクレブス参謀総長の降伏申し入れは先にも記したが、ジューコフの著書では午前3時50分のことで、彼は無条件降伏の権限は与えられておらず、デーニッツを首班とする新政府だけが決定できる問題とのことであった。しかしその後10時までとした制限時間までに新政府から返事はなく、ソ連軍は10時40分に残存部隊に対する猛烈な砲撃を開始した。18時に無条件降伏の要求は拒否された旨の通知があり、これを受けたジューコフは18時30分、あらためてドイツ総統官邸がある市中央部に対する総攻撃を開始した。
日が暮れて間もなく約20台の戦車が包囲網を突破して猛スピードで西北方郊外へ向かったという報告が入り、ソ連軍は全力を尽くしてこれを壊滅させた。この戦車団はヒトラー、ゲッベルス、ボーマンなどを運んでいたのではないかという疑念があったが、遺体の中には見当たらず、炎上した戦車の遺体は判別が不可能だった。
5月2日朝6時20分、2,3日前にヒトラーから個人的にベルリン防衛軍司令官に任命されたというウェイルドリング将軍が降伏してきた。無条件降伏に抵抗し続けたのは日本の場合と同様であるが、ドイツの場合どのような条件を望んでいたのかは不明である。
ジューコフはその日、宣伝次官フリーチェ博士がゲッベルスから聞かされたヒトラーの様子を次のように伝えている。ヒトラーは特にソ連の砲兵隊がベルリン砲撃を開始した4月20日以降ほとんど放心状態で、時にはヒステリーの発作を起こし、時々勝利は近いというわけの分からないことを口走る有様だった。ソ連軍がオーデルに侵入し始めた頃に何者かがベルヒテスガーデンと南部チロルに派遣され荷物を運んだ。そこへヒトラーの大本営が移る予定だった。ソ連軍がベルリンに接近した最後の瞬間にはシュレスウイッヒ・ホルシュタインへの疎開が話し合われた。飛行機が総督官邸地区に用意されていたが、それらはまもなくソ連空軍機により撃破された。
5月7日、ランス(Reims)でドイツ軍は西側同盟国に対して無条件降伏文書に署名した。しかしスターリンは、これは降伏の予備文書と考えるべきで、正式な降伏はすべての反ヒトラー連合諸国の最高司令部に対して、それもベルリンで行われるべきであることに連合諸国の同意をとりつけた。
5月8日、ベルリン市東部のカールスホルストのドイツ軍事技術学校の食堂に使われていた2階建ての建物の中に式場が設けられた。ソ連代表に任命されたジューコフ元帥が調印式を主宰し、ヒトラーの右腕と言われたカイテル元帥が無条件降伏文書に署名した。英米仏の連合軍代表もそこで降伏文書を受け取った。会議場にはアメリカやイギリスの新聞記者が押し寄せて渦を巻き、ジューコフに質問の矢を浴びせかけた。彼らはまたジューコフに連合軍の代表者として金色の文字が縫い取られた友情の旗を贈った。会議の後に宴会が開かれたが、祝宴は歌と踊りで朝まで続いた。ジューコフも「我慢できなくなり、若い頃を思い出して“ルースカヤ”を踊った。」
ベルリンの攻防戦についてジューコフは次のように書き加えている。
「今日、西側では1945年の最終作戦であるベルリン占領にあたり、ソ連軍が直面した困難を過小に評価しようとしている人がある。私はベルリン作戦の参加者として、この作戦は第二次世界大戦のうちで最も困難であった戦闘の一つと言わねばならない。敵の軍集団は合計約100万人、ベルリン方面軍として防衛し、頑強に彼らは戦った。特にゼーロフ高地や市の郊外、また市内で良く戦った。ソ連軍はこの終結作戦で大きな損害を受け、約30万の戦死傷者をだした。」
「ゼーロフ高地」は回想録の第18章「ベルリンへ」に詳細な記述がある。ここまではこれを飛ばして、第19章「ベルリン作戦」へと進んでベルリン市街戦を見たのであった。本稿で1945年4月16日に開始されたベルリン攻撃のジューコフの記録を「4月20日、作戦開始5日目、クズネツオフ大将指揮下の長距離砲がベルリンに向かって火を噴いた」から始めているのはその結果で、その前の4日間にはベルリン攻撃に備えた軍備の手配とゼーロフ高地のドイツ軍との激しい戦闘があった。(大塚教授のベルリン戦の調査記録は4月24日に始まっている。)
ジューコフは対独勝利の後にアイゼンハワーその他の西側将官と対独戦を振り返って意見を交換しているがそこから幾つもの興味深いコメントが生れている。
「連合軍はライン川を渡河してからはドイツ軍との間に大きな戦闘はしなかった。ドイツのファシスト部隊は急いで退却し、特別な抵抗もしないで米英軍の捕虜になった。これらのことは最終作戦時の連合軍部隊の極めて僅少な損害によって証明された。」
「連合軍がアルデンヌの戦闘後、ライン川に進出してからドイツ軍は破壊され、1945年の春季作戦はもはや必要ではなくなった――という誤った結論を導き出す人たちがいる。アイゼンハワー元大統領でさえ、1965年のシカゴでの記者会見で『ドイツはアルデンヌ戦闘以後完全に敗れた…。1月16日までに万事は終った。賢明な人ならこれをもって終りとしている…。春季作戦は止めるべきであった。戦争は60日ないし90日早く終ったであろう』と述べた。」
ドイツは降伏してヨーロッパにおけるWWⅡは終ったがこのように戦勝国の間にも、戦争の経緯はもちろん廃墟の中のヨーロッパ、とりわけドイツの統治、再建をどう行うかという大きな問題について意見の統一を行う必要があった。
ジューコフの回顧録は「結語」3頁を残して、第21章「ポツダム会談」で終っている。日本ではこの会議から生まれた「ポツダム宣言」が知られているがここにポツダム宣言への言及はない。
ここまでヨーロッパにおけるWWⅡの推移をたどって来た中で常に見え隠れしていた大きなテーマは、ヒトラーとの戦いの為に協力してきた米英を中心とする西側同盟国とソ連との間の政治的対立である。本稿の総タイトルを「第二次世界大戦から冷戦まで」としているのはヨーロッパにおけるWWⅡはその後に来る「東西冷戦」を秘めていたからに他ならない。見方を変えて言えば、ナチス・ドイツとの戦いを通じてソ連は西側の大国と並ぶ軍事大国となり、政治的影響力も身につけていた。
ジューコフはソ連がそのために支払わねばならなかった犠牲を次のように述べている。「激しい破壊戦争は約3年間、直接ソ連の領土内で行われた。2千万人以上のソ連人たちが戦闘と、都市、村落の廃墟の中で死に、ファシストたちに射殺され、ヒトラーの『殺人工場』で悶死させられた。ソ連の地表から7万の都市、村落が拭い取られた。国は国富の約30パーセントを失った。(…)反ヒトラー連合国のうち、どの国、どの人民といえどもソ連のような手痛い犠牲を払わなかった。アメリカ本土へは一発の爆弾も落とされなかった。イギリスは戦争の期間中に264,443人を失った。」
ジューコフはまた「ベルリンへ」の章の冒頭で、ソ連が「ワルシャワ蜂起」を見捨てたという西側ジャーナリズムの報道の誤りを指摘している。
ポツダム会談
米英仏の三国は6月初めにアイゼンハワー、モンゴメリー、それにフランスのラトル・ド・タニッシュの三司令官をベルリンに派遣し、占領期間中はドイツ統治に関する最高権限は米英仏ソの四国に属するという宣言を提案してきた。スターリンはそこで設立が予想される連合四国による管理理事会のソ連首席代表にジューコフを任命した。
スターリンは英米のドイツ占領の方針がソ連とは対照的であることについての警戒心を隠さなかった。イギリスは武装解除すべきドイツ人将兵を戦闘態勢のままにおき、ドイツ軍の即刻武装解除に関する連合軍首脳間の取り決めに明らかに違反していた。(「ソ連向けに必要となるかもしれないからドイツ軍の武器には手を付けずに保全しておくように」と
チャーチルがモンゴメリー大将に命じていたことはテイラー教授も指摘していた。)またアメリカはヤルタ会談の取り決めに違反してチューリンゲン州の占領地区から軍隊を引き上げる気配を見せなかった。
ゲーリング、リッペントロップ、カイテル元帥、ジョドル大将その他のナチス政権の大物たちはアメリカ占領軍内に留置されていた。ジューコフは四国の管理委員会の最初の段階でソ連の情報将校たちにこれらの戦犯の審問にあたらせたが審問はほんの2,3人にしぶしぶ許されただけであった。「そして(西側占領軍は)裁判回避にあらゆる努力を払い、人類に対する犯罪のすべてをヒトラー1人にかぶせ、他の人々については何とか犯罪をごまかしてしまおうと務めた。」
このジューコフ元帥の指摘は興味深い。戦後しばらくの間、ドイツの戦争犯罪はヒトラーと少数の一味によるもので、ドイツ国民の大多数に罪はないとする説が流布された。それはドイツ国民にとっては罪を逃れることのできる都合の良い説であった。しかしこの説は信じがたい。ドイツ国民の熱狂的なヒトラー礼賛は当時の記録映画からだけでも十分に伝わってくる。レニ・リーフェンシュタール監督の数多い記録映画、『民族の祭典(1936年ベルリン・オリンピック)』や『意志の勝利』などに見られる群衆の熱狂は今でも見る人の心を圧倒する。
アイゼンハワーの本部はフランクフルト・アム・マインのI.G.ファルベンの建物の中にあった。フランクフルト市街は完膚なきにまで破壊されたが、爆撃の最初の目標であっても不思議ではないこの建物は全く無傷で残っていた。ジューコフは、西ドイツではかなり多くの工場が米英の独占資本と関係を持っていたために爆撃を免れていたという。
ソ連は、米英仏ソの四国首脳会談の開催場所をポツダムに決定した。ベルリンには会議を開けるような建物は残っていなかったのである。会談はポツダムのツィツィリエンホーフで7月17日から8月2日まで開かれた。(米英と中国を含む三カ国に、後にソ連を加えたポツダム宣言”Potsdam Declaration”が発せられたのは7月26日である。)
後年、訪れて見たツィツィリエンホーフは宮殿というよりは別荘であった。会議室は思ったより狭く、会談当時の中央の円形テーブルが色あせた朱色のテーブル・クロスで覆われていた。壁面には黒褐色の木造パネルが張られ、ハーフライトの質実な感じの部屋でそれが却って歴史の重要な一齣を再現している印象を深めていた。昼夜兼行で会場の設営に当たったジューコフは、宮殿の一番広い部屋に置かれた独特な「丸机」はベルリンでは見つけられず、モスクワの工場で作られたものをポツダムまで運んできたものだという。
ポツダムはエルベ川に流れ込むハーフェル川の下流、ベルリンの南西27キロに位置するベルリンとは別個の都市である。ポツダム会談を行った米英ソ三国の首脳がそこをベルリンと錯覚していることはベルリンを総体的に捉えることの難しさを証明することになる。ベルリンのはずれにはヴァン湖(ヴァンゼー)という大きな湖があるがその先にも幾つもの湖があり、ポツダムを水郷と表現した人もいる。(ただし、これらの湖は厳密にはハーフェル川の一部で湖ではない。)つまりベルリンは森ばかりでなく湖も多く、旅行者は繁華な市街地に目を奪われがちだが自然も豊かである。
ポツダム協定(Potsdam Agreement)はカサブランカ会議、テヘラン会議、ヤルタ会談と続いた、戦後のドイツ及びヨーロッパの統治政策についての一連の協議の結果であり、すべての国民はその意思によって自らの政府を選ぶ権利を持つことの承認を含む「解放ヨーロッパに関する宣言」であった。
その後9月に、このポツダム協定で合意されたことの詳細を決めるために行われた3カ国の外相によるロンドン会談は合意に至らないまま散会したが、12月のモスクワ会談で暫定的な合意に達した。東西の双方とも再統一したドイツが相手側の影響下に入ることをおそれていた。ドイツの占領当局はそれぞれの占領地区を別個の統治管区として扱い始めており、ポツダム協定は死文化していった。
モスクワ会談の後、東西関係は改善したものの長続きはしなかった。1946年には米ソ関係は明らかに緊張の度合いを強めて行った。冷戦の起源は1917年のボルシェヴィキ革命にあることは疑いないが1946年をもって「冷戦の始まり」としてよいだろう。「東西冷戦」はヨーロッパにおける第二次世界大戦の最中に醸成され、顕在化して行ったということができる。(16/07/25)