000049 2025.8.17
読書遍歴(23ー4)第二次世界大戦から冷戦まで
アルデンヌの戦い(バルジ大作戦)
D-Day 以後なお激戦は続いたが海では44年11月にドイツ海軍最後の戦艦ティルピッツが沈められ海上に残るのは巡洋艦3隻、駆逐艦15隻のみとなった。新型潜水艦は依然脅威であったが生産が滞り、燃料不足にも悩まされていた。陸上の英米軍にとっては、すべてが順調に見えた。ところが「好事魔多し」、事ここに及んで、あわやダンケルクの二の舞という危機に見舞われたのである。
44年12月16日、モンゴメリー将軍は「敵は今やすべての戦線で防衛態勢に追い込まれている。もはや敵がこれという攻勢をとることはないであろう」と部下の軍隊に語った。それはとんでもない見当違いであった。その同じ日の朝、ドイツ軍は連合軍の全部隊を大混乱に陥れかねない攻勢をかけたのである。
ヒトラーはすでに死人の様相をしていた。彼の左半身は麻痺しており、大量の麻薬の力で身体を引きずるようにして歩いた。残っているのは不屈の意思だけであった。配下の将軍たちは、もはや攻撃の力は残っていないと告げたがヒトラーは耳を貸さなかった。「防衛戦は、決定を先に延ばすだけで状況を変えることはできない。…もしここでドイツが強烈な打撃を与えれば、この取って付けの連合体は音をたてて崩れるだろう。われわれは自分の運命を自分たちで切り開くのだ。」
ヒトラーは決戦場を4年前に西軍をわずか半日で蹂躙したアルデンヌ高原に求めた。リデル・ハートの著書はこのヒトラーの大反攻に一章(全20頁)を割いている。独軍の進路は4年前とまったく同じである。不意を突かれたとはいえ、アメリカ軍は4年前の(同盟軍の)失敗から何も学んでいなかった。独軍の方でもヒトラーの超極秘計画を直前まで知らされず地勢に通じている者は少なかった。
その日アメリカ軍は平坦な進撃路に集中しており、丘陵をたどるドイツ軍の10の戦車隊を含む28連隊に対する備えはわずか4連隊でしかなかった。モンゴメリー大将はクリスマスで帰国する予定を変更した。アイゼンハワーはゴルフに出かけていて不在だった。霧が一週間にわたって空軍の出撃を不可能にして戦車隊に対する有効な攻撃を妨げた。ドイツ軍は戦線を突破して前進を続けた。しかし作戦は最初から問題を抱えていた。
5月の晴れた日の練度の高い軍隊と霧と雪の中の急ごしらえの軍隊では勝手が違った。フランス兵と違ってアメリカ兵は戦線が引きちぎられても抵抗を続けた。ドイツ軍は細長い回廊に追い込まれ、バスト―ニュ(Bastogne)を迂回しなければならなかった。ガソリンを運ぶ後続の車列は置き去りにされた。米軍は貯蔵タンクに火を放って後退したのでそこでも補給ができなかった。先頭の部隊はムーズ川にあと6マイルの地点まで迫った。その数百マイル後方ではあったが連合軍の本部は大慌てで疎開の準備に取りかかったほどだった。
12月24日、空が晴れて空軍がドイツの戦車隊に大打撃を与え、バストーニュの包囲網は解かれた。ヒトラーの厳命の下で激しい戦闘がさらに二週間続いた。ドイツ軍はほとんどすべての戦車を失った。アメリカ軍の損失はそれよりも大きかった。しかしアメリカ軍は失ったものを補充することができたがドイツ軍はそれができなかった。アルデンヌ作戦はヒトラーの脳波(brainwave)が生んだ最後のギャンブルであった。すぐれた発想ではあったが成功の可能性は最初から乏しかった。
ヒトラーは何を目指したのであったか。ヒトラーの側近の地位にあったマントイフェル将軍は「総統命令の目的は、ディートリヒと私の指揮の下に第六、第五の2つの戦車大隊(panzer armies)を投入して西部戦域 ( West)に於いて決定的な勝利を収めることである。第六軍は北西を目指しリエージュとユイの間でムーズ川を越えアントワープを目指す。これが主目的であり、この軍が主力である。私の軍はより迂曲した道筋を取ってナミュールとディナンの間でムーズ川を渡り側面をカバーしてブラッセルへ向かう。この攻撃作戦全体の目的は英軍をその補給基地から切断して大陸から撤退させることである。」
ヒトラーはこの第2のダンケルクを演出すればイギリス、場合によってはアメリカも戦争から脱落し、ドイツは東部戦線のソ連との戦いを長期戦に持ち込めると考えたのであった。
これがWWⅡの最後の大会戦、「バルジ大作戦」であった。「バルジ(Bulge)」とは膨らみ、突出部であり、戦闘隊形の一部が突出して進撃することである。ドイツ陸軍が身上とする戦車を中心に据えた「電撃戦(Blitzkrieg)」ではしばしば左右両翼が露出して攻撃を受けやすいがスピードを優先して先を争う作戦ではしばしば現れる陣形である。アルデンヌの戦いではそのバルジがヒトラーの最後の執念を体化するように肥大化したのであった。
アルデンヌの攻防戦からは一つの副産物が生れた。ドイツ軍は陽動作戦として1945年の元日にストラスブールを攻めたのであるがアルデンヌに援軍を必要としたアイゼンハワーはストラスブールの放棄を命令した。これに憤激したド・ゴールは命令を拒否し、フランス軍指揮官に戦闘の継続を命じてストラスブールを死守させた。その場はそれで治まったがWWⅡの最後の年になってここに同盟国の間の亀裂が姿を見せた。
ヤルタ会議(45年2月24~11日)
英米連合軍のフランス上陸作戦の成功は第二戦線を築きソ連軍への圧力を幾分かでも軽減した。ところが今度はアルデンヌとストラスブールで激戦の最中にある英米側から翌45年の1月にソ連に対して第二戦線を開く要望が出された。そのためにアイゼンハワーはモスクワに特使を送り、チャーチルは次のような電報を送った。「西部の戦闘は激烈である。問題は急を要する。」スターリンは予定していた攻勢を前倒しにする旨の返電を発した。チャーチルは後にも「ロシアが、多大の生命のリスクを冒してまで攻撃を早めてくれた」ことを称賛している。
要請に応じたスターリンは1月20日に予定していた攻撃を12日に開始した。ジューコフの中央軍は1月17日にワルシャワを占領し、南部ではコニエフがドイツ第二の工業地域であるシレジアに侵入した。これでソ連軍はベルリンまであとわずか40マイルの地点に達した。ジューコフは軍隊を集結した上で2月15~16日に電撃作戦でベルリンを占領する計画をたてた。スターリンはヤルタからの電話でそれを止めた。ソ連軍は常に2~300マイルごとに進撃を止めた。補給隊を大きく引き離してしまったのである。
中央の部隊の進撃が止まっても南部の進撃は継続された。ソ連軍は2月11日にブダペストを落したが独軍の抵抗はまだ強固であった。3月半ばの攻勢でソ連軍をオーストリアの国境線から押し戻したが、それが最後の攻撃になった。ソ連軍はスロヴァキアを攻略し4月13日にはウイーンを占領した。そして3日後にはベルリンを攻撃し、全中央ヨーロッパとオーストリアの一部を支配下に収めた。
連合国の3人の巨頭の最後の会談となるヤルタ会談(45年2月24~11日)ではすべてが丸く収まった。チャーチルの気には召さないことだが、ルーズベルトはスターリンと親密の度を深めた。スターリンは、ルーズベルトの国際連合設立の計画に同意し、ドイツの占領にフランスを参加させるというチャーチルの提案にも賛成した。英米は、(西側の国境線を別として)、ポーランドに関するソ連の提案を承認した。またルーズベルトは、ソ連がドイツから賠償金を徴収することに同意した。
ヤルタ会談の最大の収穫は極東に関するものであった。日本との過酷な戦争がなお続くことを予期していたアメリカは、ヨーロッパの戦争の終結後3カ月以内に極東の戦争に参加するというスターリンの確約に小躍りせんばかりであった。アメリカはまたスターリンが蒋介石政府を承認し、中国の共産主義者を支援する意図はないと保証する言葉を聞いた時も同様であった。スターリンはアメリカが理解したとは別の理由からであったがこの約束を守った。
ルーズベルトばかりでなく、チャーチルもそれまでの不信感を忘れていた。2月19日の戦時内閣の閣議で「スターリン首相は全幅の信頼を寄せることのできる偉大な人物である」と賞賛した。ヤルタ会談の団結はドイツに対する勝利の後も存続するものと思われた。
ヤルタ会談の成果は後になって酷評されることになる。西側の全権たちはスターリンに乗せられたのだという。事実はそうではなく彼ら自身が自らの欺瞞の罠に陥ったのである。彼らは、ソ連は彼らのためにドイツを破った後、自分の1939年、悪くとも1941年の国境線の中に引き揚げると予想したのである。もとよりそんなことは有り得ない。ソ連は勝利者として、東ヨーロッパのドイツの支配が崩壊した後の真空状態に乗り込んだのであった。ソ連だけが敗北した衛星国と休戦協定を結んだのである。
米英も西側で同じことをしていた。彼らだけがイタリアと休戦協定を結んだし、イタリアやフランスで共産主義者が政権に就くのを妨げた。エジプトの王宮を戦車で囲んで政権の交代を強制したキラァン卿の手法はルーマニア政府の交代を達成したヴィシンスキーの手口と変わるところがない。
ヤルタ会談が西側にとって失敗とされるようになるのはもっとほかのところに理由があった。1945年2月には西側同盟国はドイツとの血まみれの闘争がまだしばらくは続くと見ていた。英国の参謀本部は、戦争は11月までは続くと予想して、結束を最優先したのであった。「空爆ハリス」(bomber Harris)として後に批判にさらされるアーサー・ハリス空軍大将は依然わが道を突き進んだ。今に語り継がれる戦争末期のドレースデンの破壊は熾烈を極める無差別爆撃の一環であった。
勝利を思いのほかに早く手にした英米両国はソ連を対等の国家として遇したことを後悔するようになった。連合国の協調が保てなかったのはヤルタ協定のせいではなかった。英米がそれを反故にしたからである。連合国の協調と見えたものは、この後に展開される東西冷戦の幕開けとなったのである。
日本に関して、ドイツ降伏後にソ連が参戦するという密約が尾を引いた。この問題に関しては米ソの応酬をギャリー・バース、プリンストン大教授の著書(“Judgement at Tokyo、2023年)”は次のように書いている。ソ連は日本の降伏後も日本への進撃を続けた。満州、北朝鮮を征服した後も、スターリンは密約を越えて「ロシアの世論はロシア軍が日本本土の一角を占領しなければ収まらない」として北の北海道を占領しようとした。もしそうなっていたら、ドイツや朝鮮がそうなったように、日本はアメリカとソヴィエトの2つのゾーンに分断されていただろう。ルーズベルトの死(4月12日)によって大統領に就任した反共主義者トルーマンは、北海道を含むすべての日本本土の日本人はマッカーサーにのみ降伏するのであるとしてスターリンの要求を相手にしなかった。(もしトルーマンでなくルーズベルトであったらどうであったろうか。)
しかし、トルーマンはソ連参戦の条件であった樺太南部および南千島(北方領土)を含む全千島列島をロシアに渡した。スターリンは、ソ連軍は満州で40万人の日本人を捕虜とし、そのうち4万人を反乱の理由で死傷させたことを認めた。捕虜の3分の2が民間人であることからしてソ連の日本人捕虜の扱いの過酷さがここに現れている。旧満州のほかに樺太、千島列島などを加えた約57万5千人とされる日本人がシベリアや中央アジアに連行されて過酷な労働に従事させられた。ウズベキスタンでは戦争をした敵ではないので捕虜という言葉は使われなかった。首都タシュケントが誇りとする国立劇場は日本人が建設したものである。現地人の記憶では抑留中の日本人はよく洗濯をしていたということである。
ヒトラーの死、ドイツの降伏
ジューコフがドイツ軍並の電撃作戦で2月15~16日にベルリンを占領する計画をスターリンが止めたのはジューコフ軍の先頭が伸び切って両翼がドイツ軍にさらされていたからであった。確かに、成功はしなかったものの電撃戦で鳴らしたドイツのグデーリアン将軍は10日~14日に反攻を仕掛けた。もしジューコフが予定通り動いていたならばどうなったであろうか。
後にスターリンのこの指令はダンケルクの手前でドイツ軍の前進を止めたヒトラーの命令同様の失態として批判が起った。1964年に、ジューコフと並ぶ戦歴を持つ名将軍チュイコフは、それがなければベルリンは10日以内に占領され戦争は終っていただろうと述べている。この判断の是非は歴史家の手の及ぶところではない。スターリンの警戒心は必要以上であったかもしれない。しかしスターリンが政治的判断から「ベルリン一番乗り」を避けたとする理由はまったくない。彼は左翼の軍を進めて11日にブダペストを占領しているのだから。
大同盟という輝かしい表向きの背後には確かに相互不信があり東西いずれの側も相手方の大戦果を望んでいなかった。いずれの側も相手方がドイツと和議を結ぶ、あるいはドイツを味方につけるのではないかと恐れてもいた。ソ連側についてその懸念は考え難い。戦時閣僚を務めた新聞王ビーバーブルック卿が1943年に言ったように、ロシア人の死者がそれを許さなかっただろう。他方では、チャーチルはすでに共産主義者の脅威を説いていた。少し後のことだが、彼はモンゴメリー大将にソ連向けに必要となるかもしれないからドイツ軍の武器には手を付けずに保全しておくように命じている。すでに見たように、3人の指導者がヤルタで最後の会談に臨んだときは彼らの協調には一点の陰りもなかった。
ジューコフがベルリンを目前にして停止した頃、西側同盟軍を指揮するアイゼンハワーの本部はドイツ中央部にあり、モンゴメリーのイギリス・カナダ軍は北部に向っていた。チャーチルはアイゼンハワーに対してベルリンを目指してソ連より先にベルリンに入るよう強く進言したが、アイゼンハワーはそれを拒んだ。ベルリンはローマと同様すでに首都としての機能を失っていた。加えて、ベルリンはソ連圏とされており今さらその約束を撤回できなかった。ベルリンを目指してソ連がすでに30万人の死者を出してるのをアメリカがまた繰り返すべきだろうか。
アイゼンハワーにはより喫緊の目標があった。当時ドイツは最後の決戦場とすべき要塞をバヴァリアに建設したと広く信じられていた。それはあるジャーナリストの生んだ幻想に過ぎなかったがその幻想がアイゼンハワーの最後の数週間の作戦を決定したという。
病に倒れていたルーズベルトが4月12日に急死した。ヒトラーにとってそれは奇跡であった。周知のようにトルーマンは外交を知らないだけでなくロシア人と協力する意思はまるで持っていなかった。4月12日に西側から講和を求める気配はなく、歓喜は失望に変わった。4月20日、ヒトラーは誕生日を祝った。それは第三帝国の終焉を告げる晩餐会であった。ヒトラーは側近のカイテルとジョデルを前線の指揮に出し、ゲーリングも、おそらく講和交渉に使うためであったろう、解放した。宣伝相のゲッベルスとその家族だけがヒトラーと共に地下壕に残った。
ソ連軍の攻撃に対してヒトラーは地下壕から指揮を取った。4月29日、小銃砲の音が地下壕に届くに及んで最後を悟った。彼は長年の伴侶であったエヴァ・ブラウンと結婚して遺言書を書き、海軍元帥デーニッツを自らの後任に指名した。(敗戦を導いた将軍たちへの面当てと思われる。)長文の遺言の最後の文章は以下のようになっていた。
「なかんずく私は国家の指導者とその部下たちに人種法(laws of the race)の徹底的遵守と世界人類の余すところなき毒殺者である国際的なユダヤ人種への仮借なき反対を命ずる。」
4月30日。ヒトラーは僅かに残った側近たちに別れを告げてエヴァ・ブラウンと2人で部屋に引き籠った。エバは毒を仰ぎ、ヒトラーはピストル自殺をした。彼らの死体は庭に運ばれ、ガソリンが点火された。守衛兵たちが最後の敬礼をして壕に戻った。テイラー教授は以上のように述べた後、「ヒトラーの遺灰がどうなったかが知られることは決してないだろう。ロシア人は遺体を回収して隠滅したというが本人のものであるかどうかは確かでない。おそらく遺体は永遠に失われたであろう」という。
ヒトラーの死の前後の様子は混乱の中でもあり、幾つかの記録は細部に於いて食い違っている。しかし、死骸の行方については、冷戦終結後1992年に旧ソ連のKGB(と後継のFSB)に保管されていた以下のような記録が事実にもっとも近いといえるだろう。「ヒトラー夫妻の遺骸は赤軍によって発見、回収され、秘密裏に埋葬された。その後1970年に堀り返され完全に焼却された後エルベ川に散骨された。それにはまた、ヒトラーは軍医中佐ヴェルナー・ハーゼに確実な自殺方法を聞き、それに従って青酸カリをかみ砕き、すぐ右のこめかみをピストルで撃ったことが記録されている。
ベルリン攻防戦は熾烈を極めたが、その記録は乏しい。大塚金之助教授は、その著書『ある社会学者の遍歴』(1969年)に、全10章のうちの第2章「ベルリン解放、1945年」をこれにあてている。ベルリンは教授曾遊の地であり、ベルリンの地形を入れながらの簡明な説明は貴重である。
西側の報告書は当事者も多く従って視線も多様で分かりにくいが、スターリンの一貫した指揮下にあった東部戦線のジューコフ将軍の先述した著書からは「ベルリンへ」、「ベルリン作戦」の2章60頁にわたって詳細かつ明晰な叙述が得られる。それによって周到な準備に始まるベルリン攻防戦を見ることにするがその前にドイツの降伏がどのように行われたかを見ておくことにする。
第三帝国はヒトラーの死と共にほろびた。グデーリアンの後任のクレブス参謀総長はヒトラーの死の翌日、新政府を代表としてチュイコフに会い停戦の交渉を申し出た。チュイコフはジューコフに連絡し、スターリンは全戦線で無条件降伏する以外の交渉を拒否する旨を伝えた。クレブスはベルリンに戻って拳銃自殺した。翌5月2日ベルリン守備隊の司令官が降伏した。このようにドイツの降伏は、日本のいわゆる「聖断」のような一括性はなく各地の部隊が個々に降伏するという形になった。
5月4日、北部ドイツ軍は古都リューネブルクの原野でモンゴメリー将軍に降伏した。5月7日には、ドイツ第三帝国の陸・海・空三軍の代表がランスのアイゼンハワー派遣軍総司令部に集まり、米英仏ソの高級将校立ち合いで西欧およびソ連の司令官に無条件降伏をした。翌日深夜近く4カ国の戦勝国高級将校の立ち合いの下で降伏文書が重ねてベルリンのジューコフが代表するソ連軍司令部でも調印された。このため西側戦勝国ではV-E Day(ヨーロッパ戦勝記念日)はニュースが伝わった5月8日、批准後とスターリンが決めたソ連では5月9日である。
イタリアのドイツ軍は、4月29日に降伏し、5月2日に無条件降伏が成立した。これに先立って西側ではイタリアのファシスト政権を打倒していたがイタリアの統治委員会へのソ連の加入を拒否した。ソ連はルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、そしてポーランドにも、このアングロ―アメリカン・モデルを採用したのである。