読書遍歴(23の1)第二次大戦から冷戦まで
「第二次世界大戦」(WWⅡ)の全体像を把握したいという意図から、時系列に沿った年表に近い文章に着手した。これも私の「読書遍歴」の一環である。読書の分野は多岐にわたるがその一つにWWⅡをテーマにしたものがありそれを中心とした読書を概観する必要を感じていた。
以下には、ポーランドの分割からフランスの敗戦までをたどったが、戦乱に巻き込まれたほとんどすべての欧州の国々を登場させることができた。ここまでに一方の大国、フランスは敗北したが真の大戦はこれからである。日本がフランスの敗北に乗じて仏印への進出を果たそうという段階でアメリカとはまだ前途の見えない交渉を続けていた。
従軍記者としてヨーロッパの戦争の推移を知悉したイリヤ・エレンブルグに『パリ陥落』(新潮文庫1961年3分冊)という長編小説がある。ここにたどったWWⅡの歴史はちょうどこの小説と時期を同じくしている。私は「奇妙な戦争」(Phony War)という言葉をこの著書で知った。エレンブルクには20数か国で翻訳出版されたこの本のほかにも、ナチスの崩壊から冷戦に至る長編『嵐』、冷戦下の人々の苦悩を描く『第九の波』があり、第二次世界大戦を扱った三部作を構成している。私は『パリ陥落』を64年に読んでいたが他の2作は未読のままである。
日本の対米、対英、対中国の戦争の歴史、それらの歴史の中に生きた人々の戦記、回顧録、あるいは小説なども長い年月の間に数多く読んだ。それを個別にたどることは手に余るし、その読書をいくら積み上げても第二次世界大戦の全体像は見えてこない。今回の作業で少しでもその穴を埋めたいと思うのである。
ヨーロッパとアジア 二つの戦域
日本がアジア、太平洋を舞台として太平洋戦争を戦う以前からドイツはヨーロッパ、大西洋を舞台として英仏を敵とする戦争を戦っていた(1939年9月3日、宣戦布告)。フランスはレジスタンス勢力が残りはしたが早々とドイツの軍門に下り、イギリスは、アメリカの武器援助を受けながらひとりドイツに対峙していた。日本は中国への侵略をめぐってアメリカと対立し、アメリカの経済的制裁を招いていた。
ドイツの同盟国であった日本は、フランスの降伏後も英独の戦闘を傍観していたが、資源を求めてフランスの植民地であった北、次いでは南インドシナへ進出した。この間にドイツはソ連へ侵攻しモスクワを包囲するに至ったが日本はそれを確かめた後で米英蘭の三国に宣戦を布告した。
このように、ドイツが英仏と戦端を開いてから日本が開戦するまでには2年2カ月の時日が経過していた。日本は真珠湾を奇襲攻撃し、これに応じてアメリカは、日本と戦闘状態に入り、ドイツの対米宣戦を受けてドイツと日本を相手とする戦争に突入した。米英は対独戦において共同の司令部、参謀本部を設けて作戦を展開したが、日独間の協力は皆無と言ってよかった。このように第二次世界大戦(WWⅡ)はヨーロッパとアジアの二つの戦場で戦われた。イギリスはアジアに向ける戦力の余裕の乏しさから、アメリカに対して欧州での戦争を優先することを要請し続けたがアメリカは日本への攻撃の手を緩めることはなかった。確かなことはアメリカの戦争遂行能力の高さであり、アメリカは二つの戦域においてその力を存分に示したということができる。
戦争の過去と現在
イギリスとの戦闘が膠着状態に入ったところでドイツは突如として、それまで武器、弾薬、燃料の供給を受けていたソ連への侵攻を開始して戦線を東西の二戦線に拡大した(41
年6月22日)。日本の真珠湾奇襲攻撃によって日米は戦闘状態に入ったが、ここに於いてドイツはこれまでも潜在的な敵であったアメリカに宣戦し、英米ソの3大強国を相手とする戦争に突入したのであった。
ソ連に対する宣戦の布告は、ベルリンへ向けて遮二無二の進撃を続けたソ連軍の力量を知った後ではにわかに信じ難いが、ソ連軍の潜在的な力量の過小評価はヒトラーとその率いる幕僚だけでなく、米英にも広く共通する認識だったのである。
日本の運命を左右した太平洋戦争と重なる時期の欧州戦線の動向についてわれわれの知るところは意外に少ない。日本史に太平洋戦争の記述は多いがそれをWWⅡという世界史の枠内で捉えてみせることも少ない。西洋史の傾きが強い世界史の記述にWWⅡはあってもそれは一つの章を占めるほどですらない。
現下の世界では核兵器の脅威をちらつかせながらロシアがウクライナを攻撃し、ホロコーストの被害者であったイスラエルがハマスのテロリズムを口実にしてガザに追い詰めたパレスチナ人の殺戮に走っている。このような時にすでに80年を超える昔の大戦を机上で振り返ることにどのような意味があるだろうか。世論は事実の認識から生まれる。WWⅡにはどのような事実があり、それはどのような認識を生むであろうか。
最初に言ってしまえば、ヨーロッパの戦争には驚くほど数多くの誤解、判断の過ちがあり、それは連合軍司令部内においても、ことごとに対立やあつれきを生んでいた。意志堅固で後へ引かないと言われたチャーチル英首相も武器援助を仰がねばならないルーズベルト大統領に対しては常に一歩譲るように心がけていた。このような状況の下では不必要な地域への戦線の展開や不必要な戦闘が行われた。それは実際の戦闘ばかりでなく希少な武器、弾薬、糧食の補給にも影響した。このような事情は今日のロシアとウクライナの戦闘においても変わるところがない。
文献について
第二次世界大戦の歴史の全体像を最初に描いたのはリデル・ハートの『第二次世界大戦の歴史』(1970年)である。その後、大戦の及ぼした膨大な世界史的影響を反映して無数の歴史が描かれた。それ以前にはチャーチルの『第二次大戦回顧録』全6巻(‘The Second World War’ 1948~54)があるが膨大に過ぎるだけでなく歴史書としては偏りが大きいであろう。ここでは700頁に及ぶリデル・ハートよりもはるかにコンパクトなA.J.P.テイラーの“The Second World War -An Illustrated History”(1975年)によって史実を追うことにした。ほかにも1991年に邦訳が出ているP.カルヴォコレッシー他2名による『トータル・ウォー』(河出書房新社)を適宜参照した。
ヨーロッパと大西洋を舞台としたWWⅡの推移は、歴史書ばかりでなくノルマンディー上陸作戦のような幾つもの劇的な戦場を舞台にした映画やドキュメンタリーによっても知られている。その印象が余りにも強いためにその全体像の把握が逆に難しくなっている醸しれない。ここでは個々の戦闘の推移をできるだけ相互に関連づけながら追ってみることにする。
奇妙な戦争(Phony war)
ドイツがオーストリアの併合に続いてポーランドへ侵攻した(1939年9月1日)のを見て、同盟関係にあった英仏はそれぞれ別個にポーランドと結んでいた協定に従ってドイツに宣戦を布告した。ポーランドはドイツ軍と戦い大きな打撃を与えたが敗北し、パリに亡命政府を樹立した。ポーランド軍の残党は南東部の辺地に逃れ英仏連合の援軍を期待したが現れたのはソヴィエト軍であった。地上戦はそこで終りを告げた(9月17日)。ポーランドの領土は独ソの2国によって分断された。1939年6月23日に締結された独ソ不可侵条約には秘密議定書がついていて中・東欧を両国の勢力圏に2分しポーランドを両国で分割することになっていた。(この秘密議定書の存在は1946年になって明らかにされたがソ連はそれを1989年まで否定し続けた。)
フランスは独仏国境にマジノ・ラインを固めたがポーランドの敗北後、撤退した。イギリスにとってはポーランドの防衛は条約順守という名誉にかかわる問題であった。対独宥和策を取っていたチェンバレン内閣は予期しなかったドイツの侵攻後、議会の圧力を受けて最後通牒を発し、回答が得られないままに宣戦を布告した。フランス同様、イギリス軍によるポーランドへの軍事支援は無きに等しかった。イギリス空軍はヴィルムスハーフェンのドイツ艦隊を爆撃したがこれという損害を与えることなく、むしろ損害を被っただけで爆撃は2度と繰り返さなかった。
ポーランド戦争はドイツの完勝に終った。英仏の両国はただ手を拱いてこれを見ていたにすぎない。ヒトラーは10月6日に議会で演説し、ドイツは平和を望みフランスに要求するものはなく、イギリスとは友好関係を望むと述べた。彼はさらに、ポーランドとユダヤ人の今後についての会議を開くことを提唱した。しかし、それまでの交渉の経緯からヒットラーに深い不信の念を抱いていた英仏はそれを拒絶した。
英仏両国は第一次世界大戦の例に倣った戦時体制を固め緊張は高まったが戦闘には深入りしなかった。軍備に追われるドイツは、経済は疲弊して国民の戦意も低く、時の利は英仏軍にあり、防衛線を固めておけば事足りると考えていた。しかし、英国はドイツの軍事費を実際の2倍以上に過大評価していた。実際は、ヒトラーは長期戦を意図せず当面の武器があれば事足りると考えていた。
英仏の経済封鎖は効果を欠いていた。イタリー経由のルートを封鎖することは難しかった。戦前に備蓄できなかった原料はソ連から搬入された。その他の地域からの資材はシベリア鉄道を利用した。経済困難に追い込まれたのは、ドイツではなくむしろイギリスであった。初期のUボートや機雷が効果的に商船隊を襲い、明くる年の1月には早くも食糧の配給制度を導入しなければならなかった。
フランスはフランス本土での戦いを避けるためにトルコ、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラヴィアを捲きこんでバルカン半島に第二戦線を開くことを提案した。しかし、主力となるフランス軍をシリアからサロニカへ移動するには3か月を要する上に、バルカン諸国にとっては望ましい戦略ではなかった。他方、イギリスの関心はむしろスエズ運河の防衛とドイツの鉄鉱石需要の主要供給減であるスエーデンからドイツへの鉄鉱石の輸送を阻止することにあった。
フィンランド戦争
ところがここにおいて、英仏連合とドイツの対戦の局外にあったソ連が予想外の行動に出て、もう一つの戦線が出現した。ポーランドの分割後、ソ連は、独ソ不可侵条約があるにも拘わらずドイツへの不信を拭えず、ドイツ軍によるバルト海沿岸からの上陸作戦に不安を抱いていた。バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)はソ連の強要によって相互援助条約を結んで駐屯軍を受け入れた。ソ連はまたレニングラードの防衛を固めるために、フィンランドに対して領土の交換を含むいっそう過酷な要求をしたが拒否された。それを受けてソヴィエト軍は1939年11月30日、フィンランドへの侵攻を開始した。冬季戦のフィンランドの手強い抗戦は西側の賞賛を集め、ソ連は国際連盟から追放された。
英仏の最高戦争会議は12月19日、フィンランド支援を決定したがそれをどの様にして実行するかの問題が残った。ノルウエーとスエーデンは中立を主張して英仏連合への協力を断った。英仏同盟軍は中立を無視してノルウエー上陸作戦にむけて軍船の動員を進めたが出発間際の1940年3月12日にフィンランドがソ連の条件を受け入れて戦争が終結したことを知った。英仏連合ここでも再び面子を失った。(フランスの首相はここでダラディエからポール・レイノーへ代わった。)
ノルウエーの地勢
ノルウエー海に面し、フィンランド遠征の上陸予定地の一つであったノルウエーの不凍港ナルヴィック(Narvik)はスエーデン北部に産出する鉄鉱石のドイツへの積出港であった。イギリスはフィンランド戦争の終結後、再びドイツへの鉄鉱石の輸出阻止計画に立ち戻り4月8日にナルヴィック港に機雷を敷設した。長い海岸線を持つノルウエーが中立を維持するのは難しかった。英仏の動きを察知したドイツは4月9日にヒットラーの指揮によってノルウエーに侵攻し、ノルウエーは抗戦して敗れた。ノルウエーの王室はイギリスへ逃れた。戦力らしきものを持たないデンマークは直ちに降伏した。英独双方がナルヴィックをめぐって戦い、英国は5月28日にナルヴィックを占領したが、フランスではるかに重要な事態が起こっており、ナルヴィックは6月8日に放棄された。
オランダとベルギーの攻略
「奇妙な戦争」を続けながらヒトラーは幕僚たちとフランス攻略の作戦を練り続けていた。ベルギーが主要な戦場になることは誰の目にも明らかであった。フランスは独仏国境沿いのマジノ・ラインを防衛線と考えていてそこからの攻撃は念頭になかった。ドイツはそれを確信してマジノ・ラインの軍の配置を手薄にして主力をベルギーとの国境線に集中させることができた。
ベルギーは1936年にそれまでのフランスとの同盟を廃して中立を宣言していた。ベルギーのフランスとの国境線は独仏の国境線より長く財政の負担に耐え難いのでフランスは手を付けずベルギーの中立だけを安全の保障としていた。イギリスは戦争の勃発と同時に遠征軍(BEF)10個師団をフランスへ送り、ベルギーとの国境線に配置してフランス軍参謀総長(ギャメラン将軍)の指揮に預けた。
ヒトラーは5月10日一斉にオランダ、ベルギーへの攻撃を開始した。策にはまったフランスは機動隊の精鋭を送り込んだが独軍のスピードと集中力に抗し得なかった。
オランダ女王は政府と100万トンを超える船舶とともにイギリスへ避難した。5月14日にロッテルダムが占領され戦闘は翌15日に終った。オランダとの国境線上にあるベルギーの大要塞エベン・エマエルはグライダーで輸送された363人の兵による奇襲攻撃によって占領された。ベルギー軍は5月12日にムーズ川の防衛線から撤退し、2日後に救援に駆けつけた英仏軍は逆にセダンに回ったグーデリアン将軍の機動部隊に包囲される危機に直面した。
このようにしてドイツのポーランド侵攻を契機とした英仏連合とドイツの戦争は、ソ連の進出を喚起しつつヨーロッパ全土を戦争に巻き込んでいった。
フランスの敗北
ベルギー、さらにフランスへのドイツ軍の電撃的攻勢はドイツに緒戦の勝利をもたらした。1940年5月13日午後3時、ドイツ兵はムーズ川を越えた。それはフランスがドイツに敗北して大国の座から転落した瞬間であった。ノルウエー戦略の失敗はチャーチル海軍大臣が負うべきものであったが相次ぐ失態にイギリス国民の怒りはチェンバレン首相に向けられ、チャーチルが首相に就任した。5月10日午後である。その日午前のドイツのオランダ、ベルギーへの侵攻によって「奇妙な戦争」が終り、真の戦争が始まった。
チャーチルは13日に下院で次のように演説した。「私は血と、苦役と、涙と、汗以外の何ものも差し出せない。…政策はと問われれば、海、陸、空で死力と神の与え給う力の限り戦うことだと答えるだろう。…目的はと問われれば、ただ一語、勝利—犠牲や恐怖をものともせず、たとえ前途が如何に長く苦しい道であろうとも。」
このスピーチが国民の意欲をかきたてたと言われるのは事実に反する。保守党はチェンバレンを拍手で送り、チャーチルを拍手で迎えたのは労働党議員だけであった。チェンバレンはおそらく依然として妥協による平和を望んでいたと思われる。国民の団結をもたらしたのは、後に述べる「ダンケルクの撤退」とイギリスの制空権をめぐる「バトル・オブ・ブリテン」(Battle of Britain)であった。その時イギリスは、大陸から切り離され、孤立した一島国でしかなかった。
ムーズ川を渡ったドイツ軍の勢いは止まるところがなかった。指揮を取ったグーデリアン将軍の身上はその進撃のスピードにあり、1日40マイル(64㎞)というペースを一週間近くも続けた。彼はパリには目をくれずに海を目ざした。彼の戦車隊は5月20日にはアミアンからアブヴィルに達し、その夕刻にはドーバー海峡を望むノイエルの海岸にいた。仏軍とともに北方のベルギーに包囲された形の英海軍遠征軍(BEF)を指揮するゴート将軍は兵を救うための大胆な行動を取った。彼は連合軍の上司であるガメラン将軍の指示したソンム県への撤退作戦を危ぶんで拒否したばかりか、翌日の英本部からの正式な命令にも従わなかった。彼の指揮下の9師団のうち7師団がドイツ軍と交戦中で引くに引けなかった。
ゴート将軍はその後、律儀にドイツ軍の包囲の突破を図った。彼は2戦車隊、僅か16台の戦車でアラスのドイツ軍を攻撃しフランス軍もこれに続いた。英仏軍はいずれも後退を余儀なくされたがドイツは数日間この危機的な状況下の英仏軍を追撃しなかった。このヒトラーも関与した判断は物議をかもし、後年にも疑問とされたが、つまるところドイツは自軍の大成功を理解できなかった上に、フランスの戦闘能力を過大評価して側面からの攻撃に備えて戦車を温存したものだった。
5月27日のベルギー軍の降伏を知ってゴートは自軍を救済する意思を固めた。ベルギー政府はフランスへ、次いでイギリスへ亡命した。レオポルド国王はベルギーに留まって捕虜となった。ゴートの率いるBEFが、ダンケルク周辺に防衛線をめぐらすことができたのは勇敢に抵抗を続けるベルギー軍のお陰だった。
ダンケルクの撤退
ダンケルクに追い込まれたBEFは袋のネズミ同然だった。当初、近辺の浜辺も利用する計画であった撤退はその余裕がなくダンケルク港に集中して行われた。チャーチルは下院で悲報を覚悟するようにと警告をした。生還を予想されるのはわずか10,000人にすぎなかった。ドイツ空軍の爆撃とともに撤退が開始されたのは5月27日、完了したのは6月4日であった。予想に反して20万人のイギリス兵と14万人のフランス兵を生還させることができた。撤退はドイツ空軍の爆撃下で行われ、巡洋艦6隻、戦闘機177機が失われた。BEFはすべての戦車、大砲、輸送車両を失い、多くの兵士は銃を失った。
被害は甚大であったが撤退は予想をはるかに上回る成功であった。英空軍(RAF)は低い雨雲に遮られた敵の爆撃機に甚大な損害を与えた。沖に停泊する巡洋艦へ兵員を輸送するのには漁船から川船、遊覧船まであらゆる種類の860艘の船が動員された。帰還兵は隊伍を整えて行進した。ダンケルクからの撤退は英国ではあたかも勝利の凱旋ででもあるかのような歓迎を受けた。
A.J.Pテイラーは歴史を振り返って敗北を目前にして撤退するのは英国軍の特技だという。対照的にフランス軍は後退して砦を固める。ダンケルクでも同じことが起った。フランス軍は撤退を望まず決断も遅かった。英軍の撤退が成功裏に行われたのは後に残った15万人のフランス兵の善戦に負うものであった。彼らの多くは捕虜になった。ダンケルクはイギリスにとっては「成功」であったがフランスにとっては惨めな敗北であった。
フランス政府はトゥールへ、次いでボルドーへと退いた。6月14日、ドイツ軍はパリに入ってシャンゼリゼを行進した。英国の2個師団がノルマンディーに送られたが勝敗のけじめがついたことを悟って10,000人のポーランド人を連れて引き返した。イギリス兵が再びフランスの地を踏むまでにはその後4年近い時日が経ってからのことでる。
フランス海軍の最後
フランスは敗北した。テイラー教授は「この後はエピローグ以上のものではない」という。しかし、フランスは戦わずして白旗を掲げたのでないことを、より詳細な記述のある『トータル・ウォー』によって見ることにする。
「フランス軍は戦った。肉体的、心理的に衝撃をうけたのにもめげずに最後の最後まで頑強に抵抗を続けた。」だがもはや自分自身に頼れなくなっていた。連合国に目を向けるほかはなかった。他方BEFのフランス軍支援には限界があった。空では陸よりも奮闘した。フランスの航空基地が壊滅したあと英空軍は遠方の英国基地に退くようになった。5月20日ごろには残る機数も少なくなり、レイノー首相の大規模な空爆の要請を受けても応じられなかった。貴重なハリケーン戦闘機は1日25機が失われ工場からの補給は4機に過ぎず日を追うにつれて戦況の逆転は不可能であることが明らかになった。
チャーチルは戦時中に5度フランスを激励に訪れている。フランスの反撃を予期していたイギリスにとって、フランスが戦列を離れることは大きな痛手であった。最初の5月16日の訪問ではすでにガムラン参謀総長から絶望的な見通しを聞かされている。1週間後の2度目にはガムランは退きヴェーガンに交代していた。3度目はダンケルクで交戦中の5月末日だった。6月11日には英国軍は一兵も大陸に残っていなかった。最後の会談は13日にトゥールで行われたが、いまや不可避となった降伏に、フランスがどんな条件を付けるべきかが現実の問題になっていた。
チャーチルは、フランスの対ドイツ停戦交渉に同意する条件として、フランス艦隊を英国の港へ出航させることを要求した。また(在フランスの)ポーランド、チェコスロヴァキア両国部隊をアフリカへ移動させることを望んだ。16日に開かれた閣議は難航してレイノーは辞職し、85歳の副首相ペタン元帥が首相に就任した。ペタンは翌17日に組閣を終え、直ちにスペインを通じて休戦を求めた。6月22日、第一次大戦ゆかりのコンピエーニュで休戦条約が結ばれた。
戦争の集結が近いと見たイタリアのムッソリーニ首相は6月10日に宣戦を布告しフランスに攻め入った。フランスの3倍の兵力を持ちながら国境の町マントンへわずか数百ヤード攻め込んだところで戦争は終わった。
フランス陸軍は世界で最強の陸軍の一つであり、フランスの敗北はドイツ陸軍がその上を行く最高水準にあることを示した。ポーランドの敗北はヨーロッパの力の均衡をヒトラー側に傾けたが、フランスの敗北は全ヨーロッパ大陸に不安の深淵をのぞかせた。ドイツとの休戦後に起こったフランス艦隊の接収をめぐる混乱と悲劇はその後を見通した戦略ばかりでなく、フランスとドイツ(交戦国)およびイギリス(同盟国)との間の意思疎通の混乱にも基因していた。
フランスの敗戦は地中海の海軍の均衡を脅かす結果を生んだ。イタリアは世界でも最大の潜水艦隊を持っており、地中海戦域に対処できる10カ所の航空隊基地を持っていた。この上フランス艦隊が独伊の枢軸側につけば英国海軍は地中海から一掃されるだろう。英国政府はフランス艦隊を恒久的にドイツの支配の外に置くか、破壊してしまわなければならないと決意していた。
英国の港に寄港していた数隻の軍艦は武装解除されたが大部分はフランス領海のアフリカ海岸に停泊していた。西地中海では砲撃によって主要艦船が座礁、あるいは航行不能にされてフランス軍将兵約1,300人が戦死した。カリブ海ではフランスの艦船が損害を受け終戦まで戦闘能力を失った。(01/06/2025)