読書遍歴(23ー2)第二次世界大戦から冷戦まで
イギリスをダンケルクの海に追い落とし、フランスを打ち破ったドイツはヨーロッパ大陸の覇者となった。テイラー教授はそのヒトラーの覇権をナポレオンの大陸制覇にまさるものと評している。ナポレオンはアウステルリッツに至る三つの会戦を制したが、彼をダンケルクの海に追い落とし、フランスを打ち破ったドイツはヨーロッパ大陸の覇者となった。テイラー教授はそのヒトラーの覇権をナポレオンの大陸制覇にまさるものと評していの帝国はプロシアとオーストリアに2つの独立国を残していた。ヒトラーは、より完璧な覇権を兵員、武器共に僅かなコストで1年足らずで達成したのだった。
フランスはその後にドイツが「バトル・オブ・ブリテン」とソ連へ侵攻するのに必要とするに十分な石油を貯蔵していた。フランスに課した占領費は1,800万人の兵を雇用できるだけのものがあったであろう。ベルギーとフランスの占領地域はドイツの軍政下におかれた。オランダとノルウエーは帝国委員会の監視下の自由を与えられた。非占領下のフランス(ヴィシー政権)は内政上の自由を保持したがその自由も次第に縮小し最後には失われた。
第三帝国の繁栄
総じてファシストの時代と呼ばれる時期にあって、中立国の中ではスエーデンとスイスは民主的な制度を維持したが経済的にはドイツと結びついていた。ドイツが必要としたスエーデンの鉄鉱石、スイスの精密機械は中立国であるためにイギリスの空爆を受けることがなくドイツにとっても好都合だった。全くというのではないが、政策の自由を保持できたのはヨーロッパの西端のファシスト国家であるスペインとポルトガルであった。それに東端のトルコを加えてもよいだろう。
形式上どれだけの自由を保持していたとしてもドイツの支配の手が及んでいないヨーロッパの国はなかった。その手段は時には秘密警察やSSであり、時には軍隊、また時にはドイツ帝国の権威を背後にした企業であった。ヨーロッパの国々はドイツの軍事体制に奉仕する経済共同体にほかならなかった。この「新秩序」の下でドイツ国民の生活水準は戦争の影響をほとんど受けることがなかった。高速自動車道路の建設は続けられ、ヒトラーの構想による「ニュー・ベルリン」の建設も着手された。
このような状況下でドイツ国民は、戦争は終ったと考えたかもしれない。しかしヒトラーの考えは違っていた。ヒトラーは、大陸の盟邦フランスが敗北すればイギリスは講和を求めてくるだろうと予想していた。しかし、イギリスはまだドイツと戦闘状態にあった。しかもドイツがイギリスと戦争を継続して勝ったところで得るものはない。ヒトラーの見るところでは大英帝国の領土は日本とアメリカで分割されるだろうし、英国の海軍はアメリカに逃れてアメリカの軍事力を無敵のものにするに違いなかった。
孤立する大英帝国
ヒトラーはイギリスとの講和を望んだ。それによってイギリスが、アメリカの前進基地となることを防ぎ、緩衝地帯となると考えていた。彼の方針は戦略的に大きな戦闘に乗り出すのではなく、常に機を見ては小規模な戦闘で勝利を収め、敵の忍耐を追い詰めることであった。チェコスロヴァキアではそれが奏功し、ポーランドでもそれを試みた。フランスとの条約交渉を進めながら、ヒトラーはヨードル将軍に「イギリスは戦争に負けたのに、まだそのことが分かっていない。もう少し時間を与える必要があるだろう」と語っている。
ヒトラーはしばらく沈黙を守った後、7月19日に帝国議会で演説をした。それは「理性とコモンセンス」に訴えた後に、さもなくば「終りのない苦しみと悲惨が待っているだろう」という高飛車なものだった。イギリスの閣内には、フランスの崩壊が必至と思われ始めた頃、ムッソリーニに調停を頼んで和平交渉を進める考えが高まり、和平の条件も検討された。しかし、邪悪なヒトラーと和平に合意したところで不名誉な結果にしかならないという恐れを確認し、英国民は新しい指導者チャーチルの下で戦争を継続することになった。
イギリスは沖合いに孤立した要塞の島であるだけでなく地中海の一大勢力であり、ヒトラーが常に恐れていたアメリカの基地になる可能性があった。地中海にあるイギリスの基地や航路に対して軍事行動を取るとなればスペインとフランスの全土を支配下におき、北アフリカにもドイツ軍を駐留させなければならなくなる。そのような大規模な戦争になると、これまで大成功を収めてきた戦争とは勝手の違った戦争になるだろう。機敏な短期決戦を好むヒトラーは大規模な作戦の見通しは立てられなかった。英独の戦闘の継続は、このようにして北アフリカ、イタリア半島へと戦域を拡大させる要素をはらんでいた。
イギリスの拠り所はヨーロッパの外にあった。英連邦諸国はすでに戦争に参加していた。カナダの産業は後にアメリカが供与したよりも有利な条件で軍需品を提供していたし、北フランスへの進攻にも参加した。南アの軍隊はアビシニアとエジプトで戦い、ニュージランドの軍隊はクレタ島の戦役で多大の損害を被った。オーストラリアの軍隊は北アフリカでトブルクを守り抜いた。
ルーズベルトは40年11月の3選以来、積極性を増し、イギリスの支払い能力を無視するほどの予想外の規模の経済援助を約束した。国内では、イギリスへの物的援助が増えれば増えるほどアメリカが戦闘に巻き込まれる可能性は低くなると主張した。アメリカは事実上、ドイツと戦闘状態にあったが、そこから先へ進めなかったのはヒトラーがアメリカの挑発に乗らない覚悟を固めていたからである。
ドイツ海軍のUボートの奮戦が、アメリカの開戦前にピークに達したのはようやく41年の夏になってからであるが、その成功は目覚ましいものであった。Uボートはフランスの大西洋岸の港を利用して洋上遠くへ乗り出すことができた。逆にイギリスは中立を堅持するアイルランドの三つの軍港を利用できないという不利をこうむった。41年4月の1カ月だけで70万トンの商船が沈められ食糧の配給が減配になるという最悪の事態に陥った。
ヒトラーの戦争
ヒトラーはアメリカの参戦を警戒する一方では真剣にソ連の共産主義の征服を企てていた。彼は反共主義者として政治の道に入った。ユダヤ人は共産主義の総元である。彼はドイツを共産主義から救ったが次は世界を救わねばならない。少なからざる人がそう考えたが彼はそれを実践に移した。とりわけ1940年6月(ダンケルクの戦いとパリ入城)以来、ソ連攻撃が最大の目標となった。1937年のパージによって軍中枢部の人材が大量に処分されたソ連陸軍は組し易いはずだった。フランスを失って隻腕となったイギリスはソ連を必要とするに違いなかった。イギリス自体は問題とするに足りなかった。予想されるアメリカの参戦以前にソ連を片付けておく必要があった。これが突如としてのソ連への侵攻となり(41年6月22日)、それに続く死闘となった。
ソ連侵略はヒトラーが独自に発想した唯一の戦争であった。それまでの戦争はすでに起こっている事態に便乗したチェコスロヴァキア、あるいは(ヒトラーも一役買った)ポーランドであった。ノルウエー、フランスへの侵攻は英仏の戦争行為に対する反応であったし、ユーゴスラヴィアとギリシャはイギリスの地中海作戦に対処したものであった。
ソ連侵略はその意味で先例のないものだった。それは反ボルシェヴィズムであると同時に予防戦争であった。ヒトラーは、イギリスはソ連を頼りにしていると思い込んでおり、ソ連が敗北すればイギリスは講和を申し込んでくると予想していた。他方、スターリンはドイツの攻撃はイギリスが降伏した後と考えており、その時期を長引かせるためにドイツに対して低姿勢であらゆる便宜を提供し、ドイツが征服した国々の承認を取り消しさえした。
ドイツ陸軍の侵攻を知ったスターリンは、すべてが失われたと感じた。キエフが占領された時は「レーニンが払った努力のすべてが永遠に破壊された」とのべている。
挙国一致内閣の成立後、緊迫した事態を告げられたチャーチルは息子のランドルフ・チャーチルに「頼みの綱(resource)が一つだけある。アメリカを引き入れなければならない」と答えた。チャーチルはそれを成し遂げたのであるが彼自身の努力というよりは日本の行動であった。
ヒトラーはイギリスを停戦交渉に引き出すためにはソ連を屈服させるのが近道と考えた。これに対してスターリンは反ボルシェヴィズムのヒトラーを警戒しつつもドイツがソ連を攻撃するのはドイツのイギリスとの戦争が終わった後のことと考えていた。西側の説明ではスターリンの警戒心にはあまり触れずにソ連は無防備の状態で一気に攻め込まれたように説明されることが多い。しかし、それではソ連のバルト3国への進駐やフィンランド戦争の説明が十分に付かない。日本との間でもフィンランド戦争の数か月前、1939年5月に「ノモンハン事件」(ハルハ川の会戦)を戦っている。
スターリンの戦争
テイラー教授の著書はスターリンが英仏側からの相次ぐ警告をソ連が信用しなかったことを述べている。正にその通りでスターリンが反ソ、反共的言辞の目立つチャーチルの親書を信じなかったとしても不思議ではない。情報は錯綜しており、1940年には世界の各紙が、英仏がドイツの石油供給源となっている北カフカーズの各都市を爆撃するという噂を報じてもいた。
テイラー教授がおそらくWWⅡを通じて最大の名将と称えるソ連の英雄ジューコフ元帥の『回想禄(革命・大戦・平和)』(邦訳1970年1月、朝日新聞社)は「私はスターリンが真実の通報を受けていたかどうか、彼に開戦の日が実際に通知されていたかどうか、正確なことはいえない」としながらその時期のスターリンの逡巡する言動を伝えている。その中には彼が直接聞いた次のような言葉もある。『ある人がヒトラー政府の意図について極めて重要な情報をわれわれに伝えている。しかしわれわれには若干の疑問がある…』これは戦後になって私が知ったリチャード・ゾルゲのことをいったのかも知れない。」
1941年3月20日に参謀本部ゴリコフ情報部長は後に明らかになる「バルバロッサ計画」そのものを入手していた。しかしこの情報から彼が引きだした結論は、これはイギリスかドイツ軍諜報部から出された偽情報であり、「(独軍の)対ソ行動開始の最も可能な時期は、対英攻撃の勝利ないしドイツにとり名誉ある対英講和の後とみなす」というものであった。
フランスでの二方面作戦では侵攻する二つの軍隊の間隔が次第に狭まって行ったが、ソ連では、ゴリコフの入手した「バルバロッサ計画」通りの三方面軍は進むにつれて相互の間隔が開いていった。「広大な空間」という難敵はドイツ軍参謀本部の念頭になかった。戦車はキャタピラーを装置していたが補給車輛にはそれがない。フランスと違ってここでは道路は整備されておらず、すぐに泥濘と化した。
ドイツが宣戦を布告したのは攻撃開始後でありすべての戦線が奇襲攻撃を受けた。ドイツ軍の進撃は迅速で出撃の初日にドイツ空軍はいきなり航空機1,500機を地上で破壊したという。しかしロシア兵は敗北を認めることなく死を賭した抵抗を続けた。ドイツ軍の戦車に戦線を突破された兵士たちは再び舞い戻って戦った。6月末には豪雨のためドイツの機動部隊は動けなかった。7月末にはすべての戦線でドイツ軍が勝利し、ソ連軍は後退した。
ドイツ軍の中央軍団はスモレンスクに進出し他の2つの軍団はレニングラードとキエフに到達した。モスクワからの明確な指令は戦い抜けという以外のものはなく、退却を余儀なくされた指揮官は、時には隊員ともども、射殺された。
スターリンが気を取り直して姿を見せたのは攻撃を受けた10日後のことであった。彼は7月3日に初めて国民に語りかけたがその強いグルジアなまりに人々は驚きをかくせなかった。数週間後スターリンは最高司令官に就任し、その後は勝利する最後まで戦争を指導した。
ドイツ軍は、勝利はしたものの目的を達成することはできなかった。ソ連攻略の目的はただの勝利ではなく征服であった。ソヴィエト軍は崩壊するどころか退きながらも一層強固になっていた。モスクワを背にした正面にはノモンハンの英雄、ジューコフ将軍が予備軍兵力を編成して陣取っていた。ここまでの強行軍でドイツの攻撃能力は尽きかけていた。敵軍の規模は予想をはるかに上回っていた。戦車の増派を求められたヒトラーはもう余力はないと答えざるを得なかった。このままモスクワに突撃するのは無謀であった。このようにして、8月23日までほとんど1か月近く、作戦会議のために費やした時間が致命的な損失となった。
東部戦線の成立
ソ連軍が辛うじて持ちこたえたことによってドイツはイギリスとソ連の2国を敵として戦うことになった。これは誰にとっても予想外の展開であった。ドイツは自分が避けたいと考えていた事態を自ら招くという結果を生んだ。スターリンは、いつかドイツとイギリスが和解してソ連を攻撃することを恐れていた。(それはドイツがポーランドに侵入した時に自らが取った行動に他ならなかった。)
6月22日、チャーチルは素早く反応してBBC放送で次のように述べた。「ヒトラーとナチズムの痕跡を一掃することがわれわれの決心である。…しかるが故に、われわれはロシアとロシア国民に可能な限りの援助を与える。」その時、チャーチルの脳中には、ましてや他の閣僚の脳中には、英国と米国のドイツとの戦いに勝利をもたらす同盟国がここに現れたなどという思いはまるでなかった。
アメリカの反応は違っていた。当時上院議員であったハりー・トルーマンは、ドイツとロシアが演じる果し合いには西側の諸国は手を貸さずに傍観すべきだと述べた。ルーズベルトは世論の動きを見る必要があった。彼が信頼する顧問官ハリー・ホプキンスは7月にモスクワを訪問してスターリンに会った。援助をイギリスに与えるのと共産主義国家に与えるのとは訳が違う。イギリスと同様の「レンド‐リース(リース方式の武器貸与)」を提供したのはソ連の存続が確かになった11月になってからであった。ルーズベルトはその秋を通じて「アメリカが戦争に引き込まれることはない」と繰り返し強調していた。
モスクワ戦線:勝利から敗退へ
モスクワを目前にしたヒトラーと将軍たちは8月23日になってようやく方針を決定した。中央軍団は進撃を休止し、両翼の二軍はそれぞれの正面の敵を破った後、三軍が協同してモスクワに止めの一撃を与えることになった。戦後になって多くのドイツの将軍や歴史家はこのヒトラーの作戦の誤りを指摘しているが、ドイツ軍はロシア軍の抵抗と広大な空間の下で疲弊しきっておりそれ以外の戦略は考えられなかったとテイラー教授はいう。中央軍団は南部の軍団が守勢に立たされた時に救援に駆けつけられるが中央軍団がモスクワに進撃を開始してもそれに力を貸したり、その側面の守りに駆けつけたりできる軍団は存在しないのだった。
レーブ元帥の指揮する北方軍集団はレニングラードに向い、凍結したラドガ湖を背にしたレニングラード市民100万を餓死させた。しかしそのために彼は一台の戦車もモスクワ攻撃に回すことができなかった。
ルントシュテット元帥の指揮する南方軍集団にとってはすべてが順調そのものだった。キエフを南方から攻撃中のクライスト元帥の戦車隊は、反転してロシア軍の背後を強襲したグデーリアン将軍の中央軍戦車隊と共にロシアの大軍隊を包囲して66万5千人を捕虜にしたほか718台の戦車、3,718門の大砲を破壊ないしは鹵獲した。この戦闘は歴史上最大の「大鍋作戦」(包囲戦 、Cauldron battle)として知られている。
ドイツ軍はさらに進んで全ウクライナ、クリミア半島の過半、またドネツ盆地を制圧した。ヒトラーは、これによって、念願とするドイツ国民の「生存圏(レーベンスラウム)」を手にするはずであった。ところがロシア軍は撤退を重ねながら徹底した焦土作戦を続けた。彼らはザボロージェの水力発電所ダム、鉄道や橋梁などを破壊し、貯蔵食糧に火を放ってその夢を挫いたのである。
敗北の最中にあってソ連は偉大な勝利を勝ちとっていた。ウクライナの工場や機械は労働者と共に消えていた。ドイツが開戦する以前にソヴィエト政府はウラル山脈の東に新しい工業地域の建設を始めていた。ウクライナがドイツ軍に蹂躙される前に500工場が移設されていた。1つの工場を移すのに800の鉄道車輛が必要とされたが4か月以内には生産を開始していた。1942年までにソ連の工場は毎月、2,000の戦車と3,000の航空機を生産していた。問題は農業だった。農民は招集され、農地の半分は放棄された。食糧生産は戦中を通じて戦前の半分に達せずすべてのロシア人は飢餓に悩まされた。
9月末にはドイツ軍のモスクワ攻撃の準備が整った。10月2日、ヒトラーは国民に向って「敵は敗北した。二度と立ち上がれないだろう」と宣言した。ビヤズマとブリヤンスクで再び「大鍋作戦」が展開され、67万3千の捕虜が捕えられ、戦車1,242輌、大砲5,432門が破壊あるいは捕獲された。モスクワは東方へ逃げようとする市民で大混雑に陥った。政府と外交団はクイビシェフに移ったがスターリンはモスクワに止まり、ジューコフが戦闘を指揮した。
11月7日はボルシェヴィキ革命記念日である。その前夜、スターリンは地下鉄中央駅でモスクワ・ソヴィエットに演説をし、7日には例年よりは小規模の軍事パレードが赤の広場でレーニン廟の前を行進するのを見守った。
ドイツ軍の攻勢の速度は衰えた。雪が降り始めた。「泥将軍」が勢威を増した。ドイツ軍戦車の動きは泥濘に捉えられ、冬支度のないドイツ兵は持ち場を離れられないまま凍死した。ロシアのパルチザンは鉄道の運行を妨害した。11月12日、ドイツの将軍たちは再び会議に入った。休止して春を待つべきか。しかし総統に何と申し開きしたらよいだろうか。
ジューコフは新たな援軍を得た。ソヴィエト軍の精鋭25師団が極東に駐屯していた。11月初めにスターリンはこの極東師団のモスクワ戦線への移動を認めた。「彼はおそらく東京の共産党スパイ、リヒアルト・ゾルゲから日本は南進する、満州国境は安泰であるとの情報に従ったのかもしれない。(…)あるいはまた彼自身が賭けに出たのかもしれない」。いずれにせよ、この後ドイツはすべての勝利から見放された。12月5日、ジューコフはモスクワ戦線の一斉攻撃を命令した。ドイツ軍の猛進撃は終りを告げた。
リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実の活動は日本ではよく知られている。ただスターリンがゾルゲの情報をどれだけ信用したか、極東戦力のモスクワ戦線への移動を促したのは何かについての疑問は残されたままである。偽情報が飛び交う中で、スターリンが容易に情報を信用しなかったことは各所で見てきた通りである。ゾルゲからと同様の情報は他のソースからも入っていた。スターリンが賭けに出たのだとしても、その背後には情報があっただろう。『トータル・ウオー』の著者は「これは一見賭けにみえるかもしれないが、明らかな作戦の変更だった」としてそれをゾルゲの働きに帰している。東京のドイツ大使に信頼され(尾崎を通じて)日本の上層部の情報にも通じていたゾルゲの情報は重きをなしていたと思われる。死刑を宣告されたゾルゲは最後にはスターリンが救いの手を差し伸べてくれると信じていた節がある。