米国の参戦
モスクワ戦線でソ連軍の戦意が高揚し、ドイツ軍を押し返す勢いを見せ始めた時点で、日本は真珠湾(Pearl Harbor)を奇襲攻撃してアメリカと戦闘状態に入った。日米の開戦についてテイラー教授は次のように述べている。日米いずれも戦争を欲してはいなかった。日本は、アメリカはヨーロッパの戦争に目が行っていて、最後は中国について日本の優越的地位を認めるだろうと考えていた。ルーズベルトの方は経済的圧力をかければ日本は折れて出るとみていた。こうして交渉は行き詰まった。リッペントロップ外相、そしておそらくヒトラーも、日本はアメリカと妥協し、アメリカは太平洋艦隊を大西洋に振り向けるのではないかと危惧した。日独同盟は何の役にも立っていなかった。
彼らはそこで、もし日本がアメリカを攻撃すればドイツはアメリカに宣戦を布告するという確約をした。これは日本にとって願ってもない申し出であった。11月18日に日本は現状維持(アメリカ側の用語では“modus vivendi”)を申しいれた。アメリカのハル国務長官は英蘭中の三国と協議したところオランダは進んで同意したが中国はもちろん反対した。英国はこれに同意したがアメリカの妥協の責任を分ち持つことを望まず、また日本が米英と本気で戦争をするとも思わなかった。そこでチャーチルは、蒋介石は「貧しい食事をあてがわれた」と口にした。ハルはこれに腹をたてて“modus vivendi”を即座に取り下げた。このようにして、対独戦のアメリカの援助は欲しい、極東の戦争は避けたい、というイギリスが意に反して極東の戦闘を一歩前に進めたのであった。
ヒトラーが何故すぐさま、(「確約」をしたとはいいながら)対米宣戦の布告をしたのかはやはり疑問としなければならない。奇襲のニュースを聞いたヒトラーは「われわれは敵を間違えている。われわれは英米を味方にすべきである。しかし時の勢いでわれわれは世界史的な誤りに踏み込んだ」と側近に漏らしている。かりにヒトラーが対米宣戦布告を数週間だけでも遅らせたらどうなっていただろう。テイラー教授は「それを思うだけで私は目まいがする。それまでにアメリカ人は太平洋に忙殺されてヨーロッパへは背中を向けていただろうからだ」という。
ヒトラーはこの可能性を十分に考えたことはなかった。彼はここに述べたような瞬時の反応にも拘わらず駐独日本大使(大島浩)に「貴国の宣戦布告の手段は正当である。これ以外にまっとうなやり方はあるまい。宣戦のための時間などを無駄にせずに、できるだけ強烈な一撃を加えてやることだ」と述べた。ヒトラーはチャーチルがアメリカに対してしたように、日本に対する誠意を伝えたかったのかもしれない。あるいはまた、ドイツは事実上すでにアメリカと戦闘状態にあったから何も変えることにならないと思ったかもしれない。事件の大きさに興奮しすぎてわれを忘れてしまったというのが本当のところかもしれない。
いずれにせよアメリカがアジアとヨーロッパの2つの戦争に参入することによって「ヨーロッパの内戦」は世界大戦へと拡大展開した。ここでわれわれは既述の太平洋戦争の経緯を想起する(下記注)ことになるが、ここではふたたび、熾烈な戦闘を繰り広げ続けるヨーロッパの戦線に戻ることにする。
(注記)太平洋戦争については、下記2つの標題で「新三木会会報」にそれぞれ2,3回に分けて掲載した。
1)「日米戦争はなぜ回避できなかったのか」(24年11月、会報156~158)
2)「太平洋戦争の歴史 原爆とソ連の参戦まで」(25年1月、会報162~163)
モスクワ戦線のドイツ軍の猛進撃は、終りを告げたとはいえ、なおコーカサスの油田に通じるドン川河畔の交通の要衝、スターリングラードの攻防(42年8月26日~43年2月2日)、さらには1943年最大の会戦とされるドイツ軍が猛反撃を繰り広げるクルスクの死闘(7月5~12日)が残されていた。WWⅡの大戦闘の多くは映画化されているが、スターリングラードの攻防については邦訳「スターリングラード」(原題”Enemy at the Gate” ジャン・ジャック・アノー監督)と題する近作の映画があり、臨場感あふれる戦闘場面を見ることができる。
アラン・ムーアヘッドが戦争特派員として記録に残した『砂漠の戦争』(ハヤカワ文庫1977年7月)は、スターリングラードの包囲戦と時を同じくし、ひとしくヨーロッパ戦線のターニング・ポイントを形成したとされる北アフリカ、地中海沿岸のエル・アラメーンの戦いを詳述している。そこではドイツのロンメル将軍の戦車隊が神出鬼没の活躍を見せるが辛うじて勝利した連合軍はシチリアからイタリア半島へと突き進む。同書とその続編ともいえる『神々の黄昏(たそがれ) ヨーロッパ戦線の死闘』(”Eclipse”1945)によってムーアヘッドはドキュメンタリー作家としての地歩を築いた。
後者の標題(Eclipse)は「没落」を意味し「ドイツ占領」を指す連合軍のコードネームであった。同書はシチリアからローマに至るまでの特派員としての彼の体験とともに、ノルマンディ上陸作戦、パリ解放、北フランスからベルギーへの進撃、そしてライン川を渡るまでの連合軍の勝利の道筋の息をつがせぬ記録である。同書はまた、敗北したドイツの惨状、強制収容所の想像を絶する悲惨もあわせて伝えている。私がこの2冊にたどり着いたのは彼の作家としての名を不動のものにした『白ナイル』(1960年)『青ナイル』(1962年)、『乗れない方舟』、『運命の衝撃』、『恐るべき空白』などその他何冊かを読んだ後であった。
『パリ陥落』で「奇妙な戦争」の一部始終を描いたイリヤ・エレンブルグも戦争特派員としてヨーロッパの戦線を歩んだレポートを『わが回想』(第4部、第5部、英訳1964年)に残している。彼はその時も、その後の「雪解け」にもかかわらず、常にスターリン主義の猜疑の目を意識し続けねばならなかった。
ノルマンディ上陸作戦
ドイツのソ連侵攻からほどなくして敗退を続けるソ連からイギリスへ助力を求める声が繰り返し送られた。しかし英本土の空を死守する「バットル・オブ・ブリテン」の最中にあったイギリスにその余裕はなかった。アメリカの参戦後には東部のソ連戦線の苦闘に呼応してドイツを挟撃するための第2戦線を求める声はさらに高まった。
連合軍は北アフリカからシチリアを経由してイタリー半島をさかのぼってフランスの再征服を目指した。困難な地形の上に手強いドイツ軍を相手に苦闘を続けたが、モンテカシーノの激戦の後、ドイツ軍は全線にわたって退却を始めた。ドイツのケッセルリング大将は無防備都市宣言をして首都ローマを撤退した。英米軍がローマを占領したのは44年6月4日である。日系二世によって編成された442部隊が包囲殲滅される運命にあったテキサス連隊をその残存兵以上の犠牲者を出して救出するという武勲を上げたのはさらに進んだフランスのボージュ山中においてであった。
極秘中の極秘とされたノルマンディ上陸作戦は数度の遅延の後、暴風雨のためさらに6月5日(ローマ解放の翌日)に計画し直されていた。決行は悪天候のためさらに1日ずらせた6月6日早暁であった。(干潮時であり上陸後の兵が敵弾に身をさらす距離は長くなるが機雷のリスクを避ける効果があった。)ドイツのソ連侵攻の日から数えてほぼ3年後である。イタリアからフランス、ドイツへ向かう戦力の一部は削がれて、この作戦に向けられた。
上陸作戦初日は20万人近く、うち3分の2は英兵、が動員され、14,000の航空機が飛来した。ドイツの空軍もUボートもこれを妨げることはできなかった。156,000人が夕方までに上陸を果たした。二手に分かれた上陸軍のうち左翼、東側のイギリスとカナダの軍はカーン(Caen)を目指し、右翼、西側のアメリカ軍はコタンタン半島のシェルブール (Cherbourg) を占領し、そこから出撃する計画だった。上陸軍はドイツ機動部隊の反撃を受け、その日のうちに占領する予定だったカーンを落したのは7月9日でほぼ1カ月を要した。最初の計画ではカーンからパリまで一気にかけぬけることになっていた。この間に40年ぶりという嵐が4日間吹き荒れ、港湾施設が破壊され物資の補給も滞った。アメリカ軍はシェルブールを孤立させ7月1日に占拠して3万人のドイツ兵を捕虜にしたが、出撃の体制を整えるまでになお3週間を必要とした。
ノルマンディ上陸作戦は、上陸の以前、以後の広範囲にわたる地域的、物量的な条件を整える準備を必要とした。セーヌ川とロワール川に架かるほとんどの橋やフランスの鉄道路線が破壊された。連合国遠征部最高司令官ドワイト・アイゼンハワーの下で上陸部隊を指揮した最高司令官モントゴメリーは、カーンにドイツの主力部隊を引き付けたのは戦略上の成功だというが、そうかもしれない。ヒトラーは手持ちの10師団のうち7師団をイギリス軍に立ち向かわせた。彼はまた上陸の第2陣がカレーに襲来すると考えてそこに配備した軍を動かさなかった。
カーンの市街は高価な代償を払った。戦闘後に立っているのは二つの修道院だけで残ったのは瓦礫の山だけであった。D-Day は1995年にその50周年を迎えた。私はたまたまその当日英国を訪れていたが、D-DayのDが何を意味するかがまだ話題になっていた。” D for Day” (DayのD) であるという通説と並んで “Deliverance” のDであるという説も唱えられていた。
この上陸作戦は「史上最大の作戦」として映画化されている。アメリカ軍の奮戦では強固な防衛陣地を築いたドイツ軍の前に2,000人あるいは3,000人の死者を出したとされる「オマハ・ビーチ」(コードネーム)がよく知られている。(同じころサイパン上陸作戦でアメリカ軍は同様の損害を被っている。) 最西端の「ユタ・ビーチ」に上陸したアメリカ軍はわずか12名の犠牲者を出しただけで目標を確保した。「オマハ」上陸軍は、辛うじて隣接軍団の成功で救われたのであった。
カサブランカ、カイロ、 テヘラン(連合軍首脳会談)
『トータル・ウオー』の著者は英米連合軍がノルマンディ上陸作戦(Operation Overlord)の準備計画に着手したのは「カサブランカ会議」(1943年1月14~23)以後であるという。連合軍は大陸を攻略する前に、サンナゼール、ディエップを攻めて全面進攻に役立てる情報と経験を得ようとした。加えて多くの上陸地点候補の海浜の詳細かつ大胆な偵察が行われた。P⑤66
チャーチルとルーズベルトの最初の会合は41年8月9日、プラセンティア湾、ニューファウンドランドの重巡洋艦オーガスタ号の艦上であった。チャーチルはこの会談に後にマレー沖で日本空軍に撃沈されたプリンス・オブ・ウエールズ号に乗って出向いている。
英米ソ三大国の共同作戦が公式に主動する端緒となるのはカサブランカ会議(43年1月13~24日)であった。しかし、スターリングラード作戦の最中にあるスターリンはモスクワを離れられず、スターリンを加えた3巨頭会談が実現するのは同年12月のテヘラン会談であった。
チャーチルとルーズベルトはその前のカイロ会談(11月22~26日)で事前の打ち合わせを行うことにした。しかし、ルーズベルトはこの会議に別に蒋介石も招いており予定されたスターリン対策は白紙のままで終った。厳しい太平洋戦争の状況を話題に乗せて対独戦争に傾倒するチャーチルの発言を抑える意図があったものと思われる。
テヘラン会談(12月1~24日)でルーズベルトはチャーチルへの警戒心を持つ傍ら、スターリンへは歩み寄っており、そこで作戦が決定された経緯を見れば、ノルマンディ上陸作戦はスターリンの意思が貫徹されたものと見られる。チャーチルはそれまでの大陸上陸作戦の失敗の経験から、むしろイタリア、またバルカン半島方面からの反攻に強い意欲を示していたが、北フランスの上陸作戦を優先するルーズベルトの判断に従った。スターリンにとってはドイツに勝つことだけが目的であった。このようにして今後の方針が決定された。まず北フランスの上陸作戦を決行する。地中海作戦はその次の問題である。
テヘランでは当然ながら独ソ戦の発端となったポーランドの領土問題も討議された。ポーランドのロンドン亡命政権は失ったすべての領土の回復を夢見ていた。ソ連が占拠したポーランドとの境界地帯は1921年、WWⅠの後にポーランドが取得したもので主たる住民はベラルーシ(白ロシア)およびウクライナ人であった。誰かが付けを払わねばならないとすれば敵であり侵略者であるドイツであろう。ドイツがシレジア(旧プロシャ)を割譲し、亡命政府が帰国してソ連と友好関係を取り戻すのに問題はないと思われた。
ところが43年4月にドイツはソ連領内(旧ポーランド領)のカティンの森で4,000人のポーランド将校の遺体を発見したと発表していた。ポーランド政府は国際赤十字社に調査を依頼したがソ連はそれを機にポーランド政府との関係を絶っていた。ソ連が下手人であると疑われたのであるが、それが証明されたとしてもドイツに殺された6百万のポーランド人とは比べものにはならない。しかし、ポーランド政府が開戦前の国境線の回復を執拗に主張してソ連との溝はさらに深まった。ソ連との友好関係を損ないたくないチャーチルはポーランド政府との関係を断った。欧州におけるWWⅡがどのようにして開始されたかを振り返ればその発端となった問題はここで見失われたかのようである。
テヘランでルーズベルトは大きな収穫を手にした。スターリンは自発的に、ドイツの降伏後に対日戦争に参加することを申し出たのである。日本陸軍の主力をアメリカでなくロシアが引き受けてくれるならば大きな救いとなる。ルーズベルトのスターリンの評価はさらに上昇した。アジアに十分な戦力を注入できずにいるチャーチルにとってもこれは朗報であるに違いなかった。
映画作家アンジェイ・ワイダ
ポーランドの首都ワルシャワを訪れる人はその街路や公園や博物館がモーツアルトの顕彰で埋まっていることに気づくであろう。しかしモーツアルトがポーランドというよりは世界的な音楽家であるのに対して現代のポーランドで思い浮かべる人物は映画監督アンジェイ・ワイダである。
ワイダは『灰とダイヤモンド』(1958年)によって私の視界に現れた。そこでは主人公のマチェックが亡命政権の運動員として、ソ連に支持される共産党政権首脳を暗殺するが自分も撃たれてもがき死ぬ。この映画は厳しい検閲の目を潜り抜けて公開された。ワイダによれば検閲官はマチェックの死を亡命政権の末路を示すものと理解したのだという。
『カティンの森』の真相はソ連の崩壊、ペレストロイカによってようやく全貌が明らかにされた。そこに埋められた死骸はエリート将校を主体とする22,000人と推定された。ワイダの父はカティンの森で殺された将校の1人であり、彼は会いにきた妻と娘の目の前で軍用列車に乗せられて連れ去られた。ワイダはこの最後の作品『カティンの森』を彼の両親に捧げている。そこに描かれる主人公のモデルが彼の父とすればその妻の嘆きを通してワイダの母に捧げる思いの深さも同時に伝わってくる。
この作品に到達するまでワイダはいくつもの秀作を世に出しているがその最初期の作品『地下水道』(1957年)にもここで触れておく。ソ連軍の救援を確信したワルシャワ蜂起はワルシャワを目前にして突如、行進を止めたソ連軍によって裏切られ悲劇的な最後を迎える。地下水道に閉じ込められた若者のグループが水道の窓格子から見るのは、ウイッスラ川のかなたに進軍を止めたソ連軍である。
ワルシャワ蜂起のこの悲劇的な結末は広く伝わり、スターリンが自らの路線に従わない共産主義者を見捨てたシニカルな手口だとする非難が浴びせられた。映画『地下水道』は正にその犠牲となったワルシャワの市民を悼むものである。事実は異なっていた。ワルシャワに到達するまでソ連軍は輜重隊を置き去りにして450マイルを突進してきた。戦車戦に不向きな大都市ワルシャワを前にしてソ連軍は、ワルシャワ市民の蜂起のあるなしに関わらず、停止せざるをえなかっただろう。
スターリンにとってこのような結末は不都合ではなかった。蜂起軍は反ドイツというよりは反ロシアであった。いずれにせよ、ソ連はポーランドを支配することになったであろう。ポーランドの独立は1939年9月に失われたのであった。英米両国にしてもイタリアのレジスタンスを救わなかった。フランスでもドゴール将軍があくまでも自由に振舞おうとしたら同じ結果になっただろう。ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』が描いたのはワルシャワ蜂起の生き残りがたどった運命であった。