五、ファンであるが故の落とし穴
最後に、研究者が、その研究対象のファンである場合の注意点について述べたいと思います。
そのシーンのファンであることは、現代文化を研究する上で、非常に有利なことです。それは、そのシーンにおける「基本的な知識の習得」に関して、クリアーしていること、それもかなりの確率で高い知識レベルを有していることを意味するからです。
ゴシック、ロリータ、ゴシック&ロリータの例でいうならば、仮にもファンであるならば、ゴシックとロリータを混同することはないだろうし、各ブランドの知識もあり、雑誌の類も多く所持していることでしょう。ゴシック、ロリータ、ゴシック&ロリータの友人もいれば、ショップの店員やデザイナーの知り合いもいるかもしれない。これは紛れもなく有利な点です。
しかし、ファンであるが故の弱点も存在します。それは、客観性、あるいは公平性の維持という問題です。
例えば、自分の敬愛するそのシーンにおけるカリスマ的人物が、どこかの雑誌か何かで、「AはBだ。」と述べていたとします。その事例に対して、自分の調査が「AはCだ。」となった場合に、往々にして、調査の結果を無視して、「AはBだ。」と結論付けてしまう危険性があることです。そもそも、「AがBである」以外の可能性に気がつかずに、調査自体を行なわないことも考えられます。
基礎知識があることは、特殊な趣味であるが故に、確実に有利な点と言えるのですが、好きなことを研究するということは、その好きなものの欠点を明らかにするという作業でもあります。時には、その好きなものを否定する論を展開していかなければならないこともありえます。あるいは、自分の思い描く理想像とはかけ離れた側面を発見してしまうこともあるでしょう。それにあなたは耐えられるでしょうか。
Mana「様」ではなくMana「氏」、あるいはManaと呼び捨てで、記述することは出来ますか。
嶽本野ばら氏の言葉を否定せざるを得ない結果が出た時、弱腰にならない覚悟は出来ていますか。
日本における現在のゴシックファッションやゴスロリファッションとヴィジュアル系ファッションとの関係について、自分の意に沿わぬ結果が出たとしたらどうでしょうか。
(ヴィジュアル系の一部だと、あるいは、ヴィジュアル系とは完全に別のものだと固く信じて疑わない。そういう悪い意味で頑固な姿勢がその研究に向いているでしょうか。)
それらの覚悟が無いのであれば、客観性、あるいは公平性を保てない可能性があるということです。好きなものは好きなものとして憧憬だけにおわらせ、分析者・観察者ではなく一人のファンとして存在していく方が、よほど幸せです。
なお、この文章は、ゴシック、ロリータ、ゴシック&ロリータの研究に特化した注意点を記したに過ぎないわけで、一章にて記したように、ごく一般的な論文執筆のルールも述べてはいません。論文構成、参考文献の引用の仕方、ビブリオ(奥付)の記述方法など、論文を執筆する上で、順守しなければならない事例については、各種専門書を参考にしてください。
また、現代文化の研究手法の一般的な知識についても記していません。こちらも、各種専門書を参考にしてください。