六、おわりに サブカルチャーを研究するデメリット
「うさんくさくて軽そうな題材」。この評価はただの偏見でしかありません。しかし、この偏見が、研究を困難にしている元凶であるといってもよいわけです。そもそも、ジャンルに対して偏見があるために、研究成果が評価されにくく、図書館においても、文献購入申請が通らないなど、さまざまな悪循環が発生する原因となっています。
これは繰り返し言うように差別と言い換えてもよいのですが、ここでは社会に対する批判よりも、この状況が研究者個人に対してどのような不利益を生じさせるのかについて説明したいと思います。
まず、図書館などにおいて、他の学術的と見なされているテーマと比べた場合、
文献利用サービスが受けられない
あるいは、
受けられても量や質が限定されてしまう
ことは、先に述べたとおりです。
ここではさらに、将来のことに目を配ってみましょう。卒業論文として、あるいは一般企業への就職が決まった院生が修士論文として、思い出として、記念として好きなことを書くのならばそれもアリです。
しかし、あなたが、もし研究者として将来食っていきたいと考え、そして、その研究者人生の第一歩となる卒業論文や修士論文に「うさんくさくて軽そうな題材」を選択するのであれば、以下のことに留意してください。
ゴシック、ロリータ、ゴシック&ロリータは、現状では残念ながら、研究のテーマとしては、くどいくらい繰り返しますが、「うさんくさくて軽そうな題材」です。別の言い方をするならば、「キワモノ」です。そして、「キワモノ」は「キワモノ」と見なされてしまうが故に、研究の実際の成果よりも低く見られてしまう危険性が常につきまといます。評価されないということは、社会的にも報われないということでもあります。
同じ労力をかけて、同程度の仕事をするのならば、より評価される仕事をしたいのは、人として自然な心情です。その結果、研究者離れを引き起こしてしまいます。研究者数の減少は、研究ジャンル全体で見た場合、層の薄さや、質の低下に繋がります。人の能力に大きく違いがない以上、量より質は幻想でしかありません。
多くの研究者がそうであるように、学術的に評価されやすいテーマを専門としながら、サイドワークとしてサブカルチャーを研究していくのは、ある意味仕方がないことなのです。
「お前は研究しているじゃないか、しかも大学で自前の研究室を構えているじゃないか。」
そんな反論が出てくるかもしれません。
しかし、ciniiでも何でもいいですが、私の経歴や業績と、ゴスロリ関係の執筆時期に注意を払って見てください。
まず、私のそもそもの専門は、中国哲学です。
中国哲学系の論文を発表しながら、「超」がつくほど王道のテーマで博士論文を取り、その後、助手になります。そして中国哲学系のテーマで科研費を取ります。
その時期と前後して、台湾に渡り、大学の専任教員になります。そして、中国哲学系のテーマで台湾の科研費(国科会)を取ります。
ゴスロリの論文を書き始めるのは、次の年です。
つまり、
オーソドックスな研究手法が身についていることを証明(博士論文)し、
それなりの業績を上げていることを証明(科研費)し、
台湾でもそれなりであることを証明(国科会)し、
それから
初めてゴスロリを書いたのです。
そして、現在も、ゴスロリについて書くかたわら、中国哲学系の論文も定期的に書いています。外部予算も定期的に取ってくるように心掛けています。
私なりに、二重三重の防衛策を取り続けているのが、分かるでしょうか。それでもなお、侮蔑的な態度を取られたことは一度や二度ではありません。
「ああ、ゴスロリの○○さんですね。」
「いえ、ゴスロリではなくゴシックです。」
「ええっと。○○さんはロスゴリ専門でしたっけ。」
「いえ、ロスゴリではなくゴスロリです。」
悪気のない無理解にさらされ、孤独に耐え、他の研究テーマ以上に身銭を削り、層の薄いキワモノ研究だと周りからの冷笑に耐え、それでもなお、あなたはその研究を続けていく気力はあるでしょうか。個人の努力だけではどうにもならない問題もそこにはあります。それに耐えることが出来るかどうかも考えておく必要があるでしょう。