写真;あおもり郷土資料館
野内宿から青森宿まで
野内を出ると一里の距離で堤川に至る。途中合浦公園を通過するが、この公園は明治時代に整備されたもので江戸時代には存在していなかった。合浦公園を過ぎると茶屋町を通過し、堤川だ。
堤川には橋が渡されていて東側は現在の旭橋。西側はうとう橋近くにずれて橋が渡されていた。橋が初めて掛けられたのは1671年で長さは34間、幅は2間だったという。それ以前はうとう橋が舟渡し、青柳橋が馬渡しで人々は川を越えていた。
ただし、橋の位置については異論もあり、現在のうとう橋近くの説明板にはうとう橋の位置に橋が架けられていたとある。また、「大日本東山道陸奥州駅図;青森県立図書館蔵」を見ると太鼓橋が川に対し直角に描かれている。
もっとも、橋は洪水でたびたび流されていたので、時期により異なる場所に架橋されていた、と言うことは十分考えられる。
橋を渡ると河岸があり、青森宿に入る。
写真;JR青森駅
西に向かい一部が重文となっている県立郷土館先の交差点を右折すると湊御番所があった。左折すると寺町に至る。
寺町には正覚寺、蓮華寺、蓮心寺、常光寺がありこれらは現在も残っている。
寺町の南西には香取神社、広田神社があった。
更に西に進むと善知鳥神社に突き当たる。神社の前には制札場があり、札の辻と呼ばれていた。
クランク状に道を進むとやがて枡形に至る。この場所は現在青森駅構内となっており、道は途切れる。 自由通路があり、歩いて西口に行くことは出来るが・・・。
写真;青函連絡船「八甲田丸」
青森の由来
津軽藩の本拠地は弘前であり、県庁所在地が青森市となり青函連絡船の発着地として発展するのは明治以降まで待たなければならない。
江戸時代、津軽藩の参勤交代は羽州街道経由で行われていた。その羽州街道と奥州道中の分岐点は次の油川宿にあり、湊としても栄えていた。対して善知鳥(うとう)村と呼ばれていたかつての青森市はどちらかと言うと寒村だった。
江戸への廻船が認められた津軽藩は、善知鳥(うとう)村に寛永元年(1624年)に、港町の建設を始めた。
その際、町中央部の青い松の森が、入船の目印とされていたことから、「青森」と呼ばれるようになったと言われている。
その森は、その後の松森町(現堤二丁目)とされている。
つまり地名としては青森より現在も残る「うとう」や「安方;やすかた」の方が古い。
その後幕末には1500戸~2000戸程の町となっていた。弘前藩第二の都市になっていたが飢饉などで人口が減り、あまり発展してはいなかったようだ。
慶応二(1866)年の調査では1985戸1万216人の人口だった。
善知鳥神社
一般的には三厩までを奥州道中(奥州街道)と呼んでいるが、善知鳥(うとう)神社の入り口前の歩道に、青森市道路元標がある。地元ではここが奥州道中の終点とされていて丁寧に「奥州街道終点記念の碑」まである。
奥州街道の終点はさまざまな説がある。
江戸時代初期に著された「幕府撰慶長日本図」によると、津軽藩の出張機関が置かれていた青森市安方地域が終点とされているという。
との記述をネットで見つけたのであながち根拠の無いことではないだろう。
ちなみに青森の次の宿場である油川には羽州街道との追分があるが、そこの説明にはその場所が奥州街道の終点と書いてある。
合浦公園
第二次世界大戦で青森も空襲を受け1万戸以上が焼け出されたが、その範囲は合浦公園付近まででその東側は焼け残り、松並木などが今も残り、多少街道の面影が残っている。
また、大戦中は松の根からは燃料としての油が、幹は木造船の材料として利用され、並木の多くが切り倒された。
写真;B-29 スーパーフォートレス
青森大空襲
現在の青森市は比較的街路も広く碁盤目状に整備されているが、これは城下町では無かったことと大火が多かったこと、更に第二次世界大戦時の青森空襲により中心部が破壊されたため、皮肉にもその後の整備が行いやすかったためである。
サイパン陥落後、本土がB-29の航続距離内に入り、爆撃にさらられる事になる。高高度を飛行するB-29を迎撃することが出来る戦闘機は日本には無く、更に硫黄島陥落後はアメリカ戦闘機の護衛も可能となり、高度を下げ、精度を上げた爆撃が行われるようになっていた。
ちなみに航続距離から北限の行動範囲は津軽海峡までで青森市ももちろん爆撃可能地域だった。
青森市の空襲は東北では最大規模のものだった。それは北海道への連絡のための港町だったことと石油の備蓄が行われていたための目標設定であった。
木と紙で出来た日本の家屋には、焼夷弾が有効とされ、青森でも6万発の焼夷弾が落とされたとされる。焼失戸数1万戸以上、死者数731人名、負傷者数282名、行方不明者8名。
ただし、突然空爆があったわけではなく予告のビラが事前に撒かれていた。それで避難する市民を配給を盾に自宅への帰宅を促したところに爆撃をされるという悲劇も起こった。