写真;常夜灯公園。
七戸宿から野辺地宿まで
七戸宿を出ると天王一里塚に至る。北に向かうと現在は七戸文化村、道の駅七戸、新幹線七戸駅(仮称)が整備されている一帯を過ぎる。この後中野付近で右折する道が本道(下道)で左折する道が上道と呼ばれ近道(新道)で二手に分かれている。
本道(下道)
現在このホームページで探索しているのがこの下道。天間館、蒼然平、扶雑原、坊ノ塚の各一里塚が現在も良く残っている。
上道
上道は現在の国道4号線や今は無き南部縦貫鉄道のルートに重なる。下道より後に造られ開発も進んでいるため、塚は残っていない。鳴子館坂などで山越えがある下道よりは通りやすい。
野辺地宿
野辺地宿は盛岡藩の湊として栄えた町である。明和二(1765)年に藩営となった尾去沢銅山からの銅をこの地で船に積み込み大阪の銅座へ運んでいた。鹿角の銅山からここまでは2つの塊を牛の首に紐で渡して運んでいたというからかなり効率が悪い。
また、俵物と呼ばれる特産品(乾アワビ、イリコ、フカヒレ)もこの地から長崎に送られ最終的に清まで至る。帰りに上方から下ってきた荷もこの地に到着している。
代官所が置かれたのは元禄四(1691)年。幕末の嘉永、安政頃には本町に約3000本の御影石が2列に敷かれている。地元の豪商が設置したもの。敷石は現在愛宕公園の敷石として再利用されている。