残っていない(位置不明)
所在地;二戸市
案内板;なし
塚木;なし
北緯 40.19.21/東経 141.18.28/AL 87m
0910加筆/1001加筆/1911加筆
座敷童(ざしきわらし)で有名な金田一温泉だが、座敷童以外の見所も無く、少し寂れた温泉場といった感じ。宿もあまりかたまって立地していない。
その近く金田一宿の一里塚は岩手県最北の一里塚だが、残存していない。金田一の小野(この)に所在していたという。
跡地は「塚の根」などと呼ばれていたという。金田一宿北部が小野なのでその付近の場所を記録。
■座敷童と緑風荘
ところで「緑風荘」が座敷童で有名な温泉旅館だったのだが、09年10月のニュースでは火災で焼けてしまったそうである。
「座敷わらしの宿が爆発音に包まれ炎上した。4日夜発生した二戸市金田一字長川の旅館緑風荘(五日市和彦社長)の火災で、築300年以上の母屋を含む4棟が全焼した。多くの著名人にも愛され、金田一温泉の名前を全国区にした名所が約3時間にわたり燃え続けた。宿泊客一人が軽傷を負った以外、客・従業員30人の無事が確認され胸をなで下ろす一方、同地方の観光への打撃は深刻で、関係者は驚きと落胆の色を隠せない。
緑風荘は母屋を核に戦後、旅館として開業、増改築してきた。南北朝の戦乱期、五日市家が金田一にたどり着いた際に病死した当時6歳の亀麿(かめまろ)が家の守り主になったと伝えられる。母屋奥座敷の槐(えんじゅ)の間に泊まり、座敷わらしに会うと出世すると言われている。戦前は原敬、米内光政ら歴代首相が宿泊し、開業後は本田宗一郎、金田一京助ら各界著名人が訪れた。金田一に在住した芥川賞作家三浦哲郎さん(78)が1971年、座敷わらしを取り上げた児童小説「ユタとふしぎな仲間たち」を発表し、知名度が全国区になった。
槐の間は3年間分を一度に予約を受け、2011年末まで予約で満杯だった。名簿が焼失したため、予約客に連絡が取れないという。出火当夜、同部屋には名古屋市からの団体客が宿泊していた。同夜、緑風荘に宿泊していた横浜市の国家公務員遠藤周作さん(28)は「緑風荘を目当てに年次休暇を取ってきた。縁起の良い旅館が燃えて残念だ」と悔やんだ。五日市社長の次男で運営を担ってきた洋(しょう)さん(42)は「二戸の宝として守っていかなければならないと思っていたが、期待を裏切り申し訳ない」とぼうぜんとした表情で語った。
4日夜、二戸市金田一の旅館緑風荘が全焼した火災で、二戸署は5日午前9時半から実況見分を行い詳しい出火原因を調べている。廊下でつながった母屋、風呂など4棟が全焼し、5日午前3時15分に鎮火した。男性宿泊客1人が、避難の際2階から1階に飛び降り、足首に軽傷を負った。それ以外の客と従業員は無事だった。近隣住民によると、ボイラー室から燃え始め、5分ほどで一面に燃え広がったという。」 [岩手日報WebNews091005]
ああ、座敷童はいずこへ。
その後の話では、座敷童はまだ敷地内に居るという。
緑風荘は元々戦後の開業だが、南北朝期、6歳で病死した亀麿(かめまろ)が守り神となり、母屋奥座敷の槐(えんじゅ)の間に現れると言われていたのだそうだ。いわば当主の先祖神でよそには行かない。
槐の間近くに建てられていた亀麿神社は焼け残り、火災の際、そこに逃げ込むオーブを見た人も居るという。新たな伝説の完成だ。
宿は数年で再開したいそうなのでその時にはまた座敷童に逢えることだろう。
更にその後の流れだが、
2015/10 本館着工
2016/4月 竣工
2016/5/14 営業を再開
である。資金調達に苦労したようで、当初予定よりかなり時間が掛かっているが、現在は宿泊以外にも日帰り入浴が可能。
因みにお湯は源泉かけ流しだそうである。
ところで座敷わらしの亀麿だが、今や「ちび麿」としてグッズやLINEスタンプまで出来ている。
ポイント
願海庵:京都知恩院の直来寺
姉滝:落差15mの滝
サイカチの巨木:川口橋のたもと。樹高15m
釜沢用水:天正年間に造られた。
乳の宮:釜沢城落城にいわれあり。
淡州公供養廟:最後の釜沢城主
常楽寺跡:小笠原氏の菩提寺。
稲荷清水:明治天皇御巡幸の際に利用された。
赤線:【奥州道中本道】 は現在通行出来ないルートも含まれています。現地に赴く際は、事前の確認をお願い致します。