【写真】奥州街道(本郷)踏切[2412]
ほんごういちりづかあと
宮城県名取市
現況;残っていない
案内板;なし
北緯 東経 AL m
0910 2412加筆修正
【写真】本郷踏切付近 南を望む[2411]
ネット上には「梶橋」が塚の場所との記述が・・・。ただ、梶橋だと岩沼市となる。
奥州街道本郷踏切付近という説が一番信憑性があるか。
江戸時代以前の街道は岩沼付近から仙台市西部を通り、多賀城へ抜けていた。これを仙台へ拠点を移した伊達政宗は岩沼から直線的に仙台城下を通り、七北田~富谷~吉岡へ抜ける新道を造営、整備している。
【写真】奥州街道[2411]
【写真】奥州街道[2411]
【写真】奥州街道 清水見社碑[2411]
ネットでは本郷六軒集会所敷地内の柱標を本郷一里塚とするものもあったが、行ってみると「清水見社」とあるのでここは社(神社)跡のようである。
館腰の集落に入る手前に笹島(芭蕉)塚跡の石碑があるが、幕末に建立されたものということで、どちらも奥州道中の一里塚ではないようだ。
この間に里程標があるという情報もあるが、確認できなかった。
【写真】奥州街道 本郷六軒集会所[2411]
【写真】奥州街道 清水見社碑[2411]
【写真】笠島(芭蕉)塚跡[2411]
本郷踏切付近を一里塚として北上する。
踏切付近は細道で交通もほとんどない。やがて、本郷六軒集会所付近で、整備された道路に合流する。この集会所に社跡と思われる石碑がある。
更に北上すると、笠島(芭蕉)塚に至り、館腰集落に入る。この付近は道路整備も入っておらず、どことなく往時の道筋が感じられる。その分、車のすれ違いには注意が必要。
途中、JR館腰駅もあるが、館腰神社、雷神山古墳を過ぎ増田川手前が館越一里塚跡だ。
【写真】奥州街道 館腰郵便局[2411]
【写真】奥州街道 館腰神社[2411]
【写真】奥州街道 館腰神社[2411]
【写真】奥州街道 館腰神社[2411]
【写真】奥州街道看板 館腰神社[2411]
【写真】奥州街道 館腰郵便局[2411]
【写真】奥州街道 本郷踏切[2412]
宮城県にはそれほど一里塚が残っていないこともあり、ネットを見ていると、里程標の探索をしている人が多い印象。
これらを見ていると宮城県では特に起点の位置について変遷があり、注意が必要なことに気が付いた。
大まかに仙台藩・宮城県での道路起点の変化は下記のものがある。
■江戸初期;芭蕉の辻(仙台城への辻)
■江戸初期;北目町へ起点が移されている。
■明治;里程標(この時起点が芭蕉の辻に戻されている)
■大正;道路原標
■現在;起点は勾当台公園に置かれている。
このうち、本HPでの一里塚は北目町起点で、ここでは本郷踏切付近のようだが正確な場所は不明。
【写真】多賀城政庁跡
多賀城は塩釜方面から西にのびる低い丘陵の先端にあり、仙台平野が一望できる場所にある。外側の大垣は、約900m四方を囲んでいる。この南・東・西の辺にはそれぞれ門が開かれていた。ほぼ中央には重要な政務や儀式を行う政庁があり、城内各所にはさまざまな事務をとる役所、木製品や鉄製品をつくる工房、警備する兵士の宿舎などが置かれていた。
なお、2024年は多賀城創建1300年記念でイベントも多く行われている。