■油川宿から蓬田宿まで
かつては海沿いの砂浜が続いていた道で単調だ。夏は景色も良いが、冬などは吹きさらしで横殴りの吹雪が人々を苦しめただろう。番所が有ったが現存していない。現在はこの区間、両側に家が建ち並び景色も見えない。
写真;ラッコ。かわいいです。
■ラッコ皮(カワ;海虎皮、猟虎皮)
ウルップ島(ラッコ島)など千島列島が点在するオホーツク海域で捕れたと思われるラッコの毛皮。
応永三十年(1423)、足利義量の将軍職就任祝賀として、「安藤陸奥守」なる人物が昆布五百把、鷲目銭二万匹(疋)とともに海虎(ラッコ)皮二十枚を贈っている。この「安藤陸奥守」は当時、十三湊を中心にエゾ(北海道)との北方交易で繁栄した下国安東氏の安東康季といわれ、ラッコ皮も昆布とともに交易で入手したものと思われる。
16世紀中頃の永禄年間にも蝦夷地から純白のラッコ皮が松前にもたらされており、また文禄二年(1593)、蠣崎慶広は豊臣秀吉にラッコ皮三枚を献上したという。
北方のオホーツク海域で捕れるラッコ皮の入手経路については 、17世紀初頭、松前に潜入した宣教師アンジェリスとカルワーリヤの報告に詳しい。元和四年(1618)のアンジェリス報告によると、エゾ(北海道)東部にあるミナシの国から松前へ、百艘の船が鮭や鰊(ニシン)とともに多量のラッコ皮を運んできて、頗る高価に売られたという。
また元和六年(1620)のカルワーリヤ報告も、北東方から六十三日間の航海を経て来航したエゾ人が、「ラッコ島」でとれたラッコ皮を生きた鷹や鶴、鷲の羽とともに松前氏に献じたとしている。ラッコ皮は高価な品ではあったが、少なくとも当時、かなりの量が流通していたことが分かる。 「戦国日本の津々浦々」より
文禄二(1593)年、蠣崎(松前)慶広が豊臣秀吉に献上したのをはじめ、 松前藩から徳川家康など幕府への献上物とされたこの毛皮は、高級品として珍重されたがそれゆえに乱獲された。
千島列島を中心とするオホーツク海に生息するこの動物は、江戸時代には高価に取引されることからアイヌから松前への交流品としてかなりの数が流通していた。やがて明治の頃に絶滅の危機に瀕したラッコは1911年の保護条約によって捕獲が禁止された。
ただし、この時の条約は、日本のみが捕獲を禁止し欧米諸国は捕獲を継続出来るという不平等なものだった。
いずれにせよ流通は減り、第二次大戦中に贅沢品として規制されるに至りラッコの名前は忘れられていく。
背泳ぎで腹の上で石を使い貝を割る姿により水族館やTVで再び脚光を浴びるのは最近のことである。往時の人々は実物を見ることも無く皮としてしか見ていなかっただろう。このあたりの人間の無慈悲さは佐渡のトキなど至る所で見られる事象だ。