浅水宿から五戸宿まで
浅水から五戸まで距離は近いが二山越える。基本的に山道でこれといった見所は無い。一山越えた平坦部には鳥内清水の看板がある。往時もここで喉を潤したのだろう。
五戸宿は、江戸時代中期以降五戸代官所が置かれ、明治維新以降は県庁五戸支庁、五戸小学校、町役場が置かれた。現在は町図書館、五戸代官所、野外ステージ等がある。
現在の五戸宿
かつて五戸通の中心部で代官所もあった五戸だが、鉄道も尻内(現在の八戸駅)経由となり、発展から取り残された印象。鉄道敷設の際は五戸経由の計画だったがこれを断った経緯があったという。
斗南藩
五戸には代官所があったがここは一時斗南藩の藩庁が置かれている。この斗南藩、ご存知でない方も多いと思うが、江戸時代の会津藩が戊辰戦争で破れ、移封されたもの。2年程度で廃藩置県となったため殆ど忘れられている。
斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)11月3日容保(かたもり)の嫡男・容大(かたはる)に家名存続が許され、翌年の明治3年(1870年)1月5日旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれ成立した藩である。 なお、「斗南」は、漢詩の「北斗以南皆帝州」から名づけられた。
会津藩を没収された会津松平家は、改めて元南部藩領の北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられた。小説等ではこれは強制的な移住だったと書かれることが多いが、実際には旧領の猪苗代か新天地の斗南かの選択権が与えられ、藩内で議論紛糾の末、自ら斗南を選択したのである。 同年4月18日、南部に移住する者の第一陣三百名が八戸に上陸した。斗南藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、五戸に向かった。旧五戸代官所が斗南藩の最初の藩庁になった。のち、現在の青森県むつ市田名部にある円通寺に斗南藩庁を構えた。また北海道後志国の歌棄(うたすつ)・瀬棚・太櫓(ふとろ)及び胆振国山越の計4郡も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人に過ぎなかった。 ちなみに斗南藩は表高3万石となっているが、藩領は不毛の地であり、実高7千石に過ぎなかったと言う。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。このためこの地での生活は過酷を極め、移住した藩士の中には娘を妾や女郎として売ることを余儀なくされたり、飢えと寒さで命を落とすものが多数続出したと言う。 その後、斗南藩は明治4年(1871年)の廃藩置県で斗南県となり、弘前県を経て青森県に編入された。また、一部たる二戸郡は岩手県に編入された。明治5年(1872年)には旧斗南藩少参事、廣澤安任らによりわが国最初の民間洋式牧場が開設される。後、容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した[ウイキペディア]。
会津藩士の悲哀として語られる事が多い、斗南藩。挙藩流罪であると憤慨した藩士も居たが、下北の自然を甘く見た事、施政が効果をあらわす前に廃藩置県となったために、苦しい思い出しか残っていないのだろう。とはいえ、この縁でむつ市と会津若松市は昭和59年から姉妹都市となっている。
五戸館
五戸館築城は戦国時代末期に木村秀清による、また、慶長年間(1596~1614)に木村秀勝の手によるともいわれている。いずれにせよ三戸の北方にあたり、浅水城とともに津軽藩に対する拠点として機能したと考えられる。
館の北は五戸川に面した崖、東と西は谷を利用した堀で、南側には堀があった。規模は南北200m、東西600mと比較的大きい。
江渡家住宅(えとけじゅうたく)
国指定重要文化財 昭和48年2月23日指定
三戸郡五戸町荒町17-1 個人所有
江渡家は、八戸藩五戸代官所下役の給人であったと伝えられ、町の中心に営農を兼ねた広大な屋敷を構えている。
主屋は屋敷の北側に建ち、間口12.5間・奥行6間の茅葺である。突き出した「ほんげんかん」とこれに続く「げんかんのま」「ざしき」「おくざしき」の接客部分は念入りに造られており、欄間や床の造作にも見るべきものがある。天明年間(1781~88)の建築であるこの住宅は、在郷武士住宅の完成された形式をよく伝えている。(青森県HP)
天明の飢饉の際に、いわば救済事業として建築されたこの建物は、現在も有料で公開されている。
写真;江渡家住宅(国重文)。
五戸代官所
代官所建物は復元され、文久年間(1861~1864)の建築と推定される門は、町の文化財にも指定されている。門の屋根と土台も老朽化したため修復されているが、現存している。