【写真】新谷宿付近の国道4号線。南を望む [0910]
やすみづかいちりづかあと
宮城県大崎市
現況;残っていない
0910写真追加 2503加筆修正
【写真】新谷宿付近の国道4号線。北を望む [0910]
「街道は旧国道(県道1号線)で国道4号線はバイパスとなっている。探索日は時間がなく、左の写真はバイパスと街道沿いの分岐点付近。そのため塚としては参考程度に見ていただければと思う。後で地図を見てみると近くに「塚の稲荷神社」があり、この名称が気になっているのだが・・・。
いずれにせよ、ここも塚の痕跡はない」
2009年訪問時は荒谷宿南の国道4号交差点の里程標を一里塚としていた。
一方、「茂林寺の東南に塚が記されている資料はあるようだ」とも記しているが、これは歴史の道調査報告書の地図による。
今回(2024年)久しぶりに訪問するにあたって資料を見直してみたが、エビデンスはこの歴史の道調査報告書地図のみなので、茂林寺の東南(ファミリーマートのあたり)を休塚一里塚跡としたい。
【写真】奥州道中 県道1号古川佐沼線[2409]
江合川を渡った先の県道1号線は、新幹線寄りに道が付け替えられている。「歴史の道調査報告地図」における休塚一里塚跡はちょうど新道が旧道に交差するところ、ファミリーマートのあたり。
よって塚を示す痕跡は全くない。
東進していた県道15号古川登米線は新幹線沿いの農産物の直売所付近で北へ向きを変える。
この付近、「古川休塚」の地名があり、休塚館跡という中世の史跡でもある(水田となっていて痕跡は無いが)。
北上すると、石碑のところで県道15号と分かれる。しばらくちょっとした集落を進む。ホテルがあったり、天神社があったり。この先で一瞬国道4号線に合流するがすぐ荒谷宿への道に分かれる。
この角にセブンイレブンがあり、道路の向こう側の歩道に里程標がある。明治以後戦前まで利用されていた里程標で起点は芭蕉の辻。
ここから荒谷宿だ。小さな宿場だったというが、雰囲気はある。500m程進むと再び国道4号線と合流。間もなく馬篭一里塚跡だというが、位置不明である。
【写真】奥州道中 県道15号古川登米線[2409]
【写真】奥州道中 県道15号古川登米線[2409]
【写真】奥州道中 県道15号古川登米線[2409]
【写真】奥州道中 県道15号古川登米線[2409]
【写真】奥州道中 県道15号古川登米線との分岐[2409]
【写真】奥州道中 県道15号古川登米線との分岐[2409]
【写真】奥州道中 [2409]
【写真】奥州道中 天神社[2409]
【写真】奥州道中 国道4号との合流点[2409]
【写真】国道4号線 [2409]
【写真】奥州道中 里程標[2503]
【写真】奥州道中 里程標[2503]
【写真】奥州道中 荒谷宿入り口[2503]
【写真】奥州道中 荒谷宿入り口[2503]
【写真】奥州道中 荒谷宿[2503]
【写真】奥州道中 荒谷宿[2503]
【写真】奥州道中 荒谷宿[2503]
【写真】奥州道中 荒谷宿[2503]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
荒谷宿を出ると国道4号線沿いにある公園。
春は桜を楽しみ、秋に咲く曼殊沙華が多数植えられている。
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】奥州道中 羽黒山公園[2504]
【写真】伊達政宗像「写真提供:宮城県観光課」
高清水から県道166号で西に9kmほど、または、古川から国道47号で北上すると岩出山に至る。ここには出羽街道と上街道の追分である天王寺追分がある。岩出山城は天正十九年に伊達政宗が米沢から城を移し、慶長八年に仙台に移るまでの十二年間居住した地である。
岩出山はかつて岩手沢と呼ばれており、推古天皇の頃(593)には国内で4か所に建立された四天王寺のひとつが建てられ、前九年合戦の折には源義家が当地の鍋倉山八幡神社に戦勝祈願するなど古くから重要な地域だった。
中世には大崎氏の所領で、家臣の氏家弾正が岩手沢城を築く。だが、大崎氏は豊臣秀吉による奥州仕置きにより改易となる。不満の残る大崎氏は伊達政宗の扇動もあってか葛西氏など共に大一揆を起こし、徳川家康や伊達政宗が鎮圧にあたる。
この時、岩出山にある実相寺には徳川家康が40日間滞在したとされ、後に家康から500石の御朱印地の寄進を受けている。
一揆制圧後、関与を疑われた伊達政宗が岩手沢へ領地替えとなり、それに先立ち家康の家臣榊原康政が岩手沢城を改築し政宗を迎え入れている。
政宗は岩手沢を岩出山に改名し、会津若松や米沢(山形県米沢市)から多くの寺院を呼び寄せ城下町建設に精を出し十二年間居城とする。
関ヶ原の戦い後の慶長八年(1603)には政宗の仙台開府に伴い多くの寺院は仙台へ移転するが、四男宗泰が1万5千石で仙台藩支藩として岩出山を治める。
一国一城令により岩出山城は要害となるが、有備館での教育や、都冷泉家より御輿入れがなされると回遊式池泉庭園などを造り、京文化や地場産業などの育成に努め、現在も「小京都」の趣を残している。
なお、岩出山伊達氏は明治時代には北海道へ移転し、開拓を成功させている。