過去にどのような意味を与えるか ―
「忘れる」のではなく「意味づけ直す」という選択
「忘れる」のではなく「意味づけ直す」という選択
By Artfarmer2026年8月11日
過去にどのような意味を与えるか
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過去のいやな記憶が、ふと繰り返し思い出されて悩む。そんな経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
多くの場合、私たちはこの問題に対して「どうすればこの記憶を忘れられるか」という方向で対策を考えます。しかし、実はこのアプローチ自体に、構造的な限界があります。今回は、「忘れる」のではなく「その記憶にどのような意味を与えるか」という、アドラー心理学的な視点から、過去の記憶との向き合い方を整理してみたいと思います。
過去の嫌な記憶を「忘れよう」とする対処法は、一見すると合理的に思えます。しかし、そこにはいくつかの落とし穴があります。
まず、記憶を意図的に忘れようとする試みは、しばしば逆にその記憶への注意を強めてしまいます。「シロクマのことを考えるな」と言われると、かえってシロクマのことばかり考えてしまう——あの現象と同じ構造です。心理学の実験でも、この逆説的な効果は繰り返し確認されています。
さらに根本的な問題として、そもそも記憶そのものを脳から消去することは、基本的にはできません。私たちにできるのは、その記憶へのアクセスの仕方や、反応の仕方を変えることだけです。
つまり「忘れる」という目標は、記憶という"事実"そのものと戦おうとするアプローチです。これは過去の原因に囚われたまま、それを力づくで消そうとする努力であり、目的論とは逆方向の努力になってしまいます。
これに対して、「過去の記憶にどのような意味を与えるか」というアプローチは、アドラーの目的論の核心的な実践だと言えます。
アドラーは、記憶そのものは客観的な事実の記録ではなく、その人が"いま"どのような目標や価値を持っているかによって選び取られ、意味づけられているものだと考えました。
同じ出来事——たとえば、幼少期に厳しく叱られた経験——であっても、
「だから私は人を信頼できない」という意味づけもできれば
「だからこそ私は、人には優しくありたいと学んだ」という意味づけもできる
記憶そのものは変わらなくても、その記憶が"いまの自分にとって何を意味するか"は、変えることができる。これがアドラーの立場です。
これを整理すると、次のように言えます。
記憶に苦しんでいる状態 = 過去の出来事が、いまの価値と切り離されたまま、繰り返し立ち現れている状態
意味づけを変える作業 = その記憶を、いまの自分が選び取っている価値と、改めて結びつけ直す作業
つまり「忘れる」のではなく、その記憶を価値という土台にしっかりと接続し直すことで、記憶の"重さ"や"支配力"そのものが変化していく——これがこのアプローチの本質です。
記憶に苦しんでいるとき、人はしばしばその記憶の"中"に入り込んだまま、当時の感情をそのまま再体験してしまいます。俯瞰するというのは、一度その記憶から距離を取り、
この出来事は、今の自分の人生という物語の中で、どんな位置にあるのか
この出来事があったからこそ、今の自分が大切にしている価値は、何か
という視点に立ち直すことです。これは記憶を「消す」のではなく、より大きな物語——未了の目的、そしてその根底にある価値——の中に、記憶を位置づけ直す作業だと言えます。
相手に対して怒りを感じた記憶や、自分の未熟さを思い知らされた記憶。楽しい記憶よりも、思い出したくない記憶の方が、なぜか何度も繰り返し立ち現れてきます。
これは心理学で「ネガティビティ・バイアス(否定性バイアス)」と呼ばれる、よく知られた現象です。人間の脳は、楽しい記憶よりも、痛み・恐怖・恥・怒りを伴う記憶の方を、より強く、より鮮明に、より繰り返し呼び戻す傾向があります。
これは生存のための本能だと考えられています。進化の過程で、「危険だった出来事」や「痛い目にあった状況」を強く記憶し、繰り返し想起することは、同じ失敗を二度と繰り返さないための、極めて合理的な仕組みでした。楽しい記憶を忘れても命に関わりませんが、危険を忘れれば命に関わります。だからこそ脳は、不快な記憶の方を優先的に刻み、優先的に呼び戻すようにできているのです。
ここが重要なポイントです。もしこの現象を「本能ではなく、自分の弱さのせいだ」と捉えてしまうと、記憶が繰り返し現れること自体に対して、さらに自己嫌悪や恥を重ねてしまいます。嫌な記憶が蘇る→それを情けないと感じる→その情けなさもまた新しい記憶になる、という悪循環です。
しかし「これは人類が生き延びるために備えた、本能的な仕組みなのだ」と理解すると、記憶が繰り返し現れること自体は、戦うべき敵ではなく、受け入れるべき自然現象になります。「怒っても、恥ずかしがっても仕方がない」という態度は、まさにこの受容そのものです。
重要なのは、単に「仕方ない」と受け流すだけでなく、そこに分析というもう一段の作業を加えることです。
本能(記憶が繰り返し現れる)→ それをただ受け流すのではなく → 客観的に分析し、自分の落ち度や相手の未熟さを、冷静に見極める
本能は「危険だったから覚えておけ」と繰り返し記憶を差し出してきます。それをそのまま感情的に(怒り、恥として)受け取るのではなく、一歩引いて意味を分析し直すことで、その記憶が持つ"棘"を抜いていく。これこそが、先に述べた「意味づけを変える」というアドラー的アプローチの、具体的な実践例です。
そして分析を終えると、不思議とその記憶から離れることができます。本能が記憶を差し出す目的は、「危険だから、対処しなさい」という警告です。分析によってその状況をすでに十分に理解し、そこから学ぶべきことを学び終えたなら、脳にとってその記憶を「まだ未処理の警告」として保持し続ける理由がなくなります。だからこそ、記憶は自然と手放されていくのです。
一連の実践を整理すると、次のような流れになります。
本能が嫌な記憶を差し出す
それに怒りや恥でそのまま反応するのではなく
一歩引いて、客観的に分析する
自分の落ち度も、相手の未熟さも、感情を交えず冷静に見る
そして記憶から自然と離れることができる
本能を否定せず、恥じず、ただ「これは本能なのだ」と素直に認めたうえで、それを分析という形で価値に接続し直す。これは、本能(記憶)を価値(冷静な自己理解)につなぎ直す作業そのものであり、虚栄心とは正反対の、社会的成熟へと向かう道だと言えるでしょう。
このアプローチは多くの場合とても有効ですが、記憶が強いトラウマ的な性質を帯びている場合(フラッシュバックのように、意味づけ以前に身体的な反応として繰り返し襲ってくる場合など)は、意味づけの作業だけでは十分でないこともあります。そうしたケースでは、心理士やカウンセラーなど専門家のサポートを得ながら進める方が、より安全で確実です。