教科書が生んだ誤解
「β-ヒドロキシ酪酸は肝臓で直接生成される」という思い込みを解く
「β-ヒドロキシ酪酸は肝臓で直接生成される」という思い込みを解く
By Artfarmer2026年6月17日
ハーパーの生化学
pp.220~221
脂肪酸酸化が速い速度で起こっているような代謝条件のもとでは,肝臓ではかなりの量のアセト酢酸 acetoacetate や D(-)-3-ヒドロキシ酪酸 D(-)-3-hydroxybutyrate(β-ヒドロキシ酪酸)が生成する.
アセト酢酸はたえず非酵素的に脱炭酸されアセトン acetone を生じる.
これらの3つの物質は総称してケトン体 ketone body(アセトン体,あるいは,不正確な用語ではあるが“ケトン”*1)とよばれる(図 22-5).
アセト酢酸と3-ヒドロキシ酪酸はミトコンドリア酵素である D(-)-3-ヒドロキシ酪酸デヒドロゲナーゼによって相互変換される.
その平衡はミトコンドリア内の $[\text{NAD}^+] / [\text{NADH}]$ の比,すなわち,酸化還元状態 redox state によって決まる.
十分な食事を摂取している哺乳類の血液中の全ケトン体の濃度は,通常 0.2 mmol/L を超えることはない.
例外は反芻(はんすう)動物であり,消化管内の発酵の産物である酪酸からたえず3-ヒドロキシ酪酸が生成されている.
非反芻動物においては,肝臓は血液中にケトン体を排出する唯一の臓器であり,肝臓以外の臓器は血液中のケトン体を呼吸基質として利用する.
ケトン体が肝臓から肝外組織へ流れる理由は,肝臓のケトン体産生量が多いにもかかわらず,肝臓がそれを利用できないためである.
肝臓以外の臓器ではケトン体産生能が低い一方,呼吸基質として利用する能力が高い(図 22-6).
対象読者:医師・医療従事者、生化学を深く学ぶ方
多くの医師や医療従事者が、生化学を学ぶ過程で次のような記述に出会っている。
「脂肪酸酸化が速い速度で起こっているような代謝条件のもとでは,肝臓ではかなりの量のアセト酢酸 acetoacetate や D(-)-3-ヒドロキシ酪酸 D(-)-3-hydroxybutyrate(β-ヒドロキシ酪酸)が生成する」 ——『ハーパー生化学』日本語版
この一文を読んで、「肝臓ではアセト酢酸とβ-ヒドロキシ酪酸が(それぞれ独立した経路で)生成される」と理解してしまったとしても、無理はない。「や」という接続助詞と「が生成する」という表現が、二つの物質を並列の一次産物として提示しているからだ。
しかし、これは生化学的に正確な記述ではない。
本稿では、この記述の何が問題なのかを整理したうえで、ケトン体生成の正確なプロセスを段階的に解説する。
肝臓のミトコンドリア内でのケトン体生成(ケトジェネシス)において、独立した合成経路の末端産物として生じるのはアセト酢酸のみである。
脂肪酸のβ酸化によって生じたアセチルCoAは、HMG-CoA(3-ヒドロキシ-3-メチルグルタリルCoA)を経由して、最終的にアセト酢酸へと変換される。この経路はケトン体生成経路(ケトジェネシス)と呼ばれ、肝臓ミトコンドリアに特有の経路である。
つまり、「ケトン体生成経路が産生する物質」はアセト酢酸だけであり、β-ヒドロキシ酪酸はこの経路の直接産物ではない。
生成されたアセト酢酸の一部は、ミトコンドリア内膜に局在する酵素、D(-)-3-ヒドロキシ酪酸デヒドロゲナーゼの触媒作用を受けて、β-ヒドロキシ酪酸へと変換される。
この反応の化学式は以下のとおりである。
アセト酢酸 + NADH + H⁺ ⇌ D(-)-3-ヒドロキシ酪酸 + NAD⁺
この反応は**可逆反応(平衡反応)**であり、反応の方向はミトコンドリア内の [NAD⁺]/[NADH] 比によって決定される。
脂肪酸酸化が活発に進んでいる状態では、β酸化によってNADHが大量に産生されるため、ミトコンドリア内のNADH濃度が上昇し、[NAD⁺]/[NADH] 比が低下する。この状態では、上記の平衡反応は右側——すなわちβ-ヒドロキシ酪酸の生成側——に傾く。
その結果、脂肪酸酸化が盛んな条件下(飢餓、糖質制限、長時間の運動など)では、肝臓から血液へ放出されるケトン体のうち、β-ヒドロキシ酪酸が量的に多くを占めることになる(正常時はアセト酢酸:β-ヒドロキシ酪酸 ≒ 1:3 程度)。
アセト酢酸の一部は自然に(非酵素的に)脱炭酸反応を起こし、アセトンと二酸化炭素に分解される。これは可逆性のない自発的な反応であり、代謝的に利用されることなく肺や皮膚から排出される。
以上を整理すると、ケトン体生成のプロセスは次のように段階化される。
【脂肪酸酸化】
↓(β酸化 → アセチルCoA → HMG-CoA経路)
【アセト酢酸の合成】← 唯一の一次産物
↓(D(-)-3-ヒドロキシ酪酸デヒドロゲナーゼ、可逆反応)
【β-ヒドロキシ酪酸への変換】← 二次的産物(NADH/NAD⁺比に依存)
↓(一部は非酵素的脱炭酸)
【アセトンの生成】← 代謝的に利用不可、肺・皮膚から排出
肝臓を「工場」に例えるならば、この工場が製造する製品はアセト酢酸ただ一つである。β-ヒドロキシ酪酸はその加工品であり、工場内の酸化還元状態という「稼働状況」に応じて出荷比率が変わる、という理解が正確である。
「アセト酢酸やβ-ヒドロキシ酪酸が生成する」という表現は、論理的には「AとBが同列のプロセスで産生される」という前提を含んでいる。教科書の記述が「肝臓から血液中に放出される結果としての成分」を説明しようとしたことは理解できるが、それにより「生成(合成)」と「変換(平衡反応の結果)」の区別が消えてしまっている。
英語の原著では "produces" あるいは "yields" という動詞が使われることが多い。この言葉は、代謝の結果として生じる物質を広く指しており、合成経路の一次産物に限定されない。しかし日本語訳では「生成」という一語に収斂してしまうため、「合成(Synthesis)」と「産生(Production)」の区別が消える。
「ケトン体とは、アセト酢酸・β-ヒドロキシ酪酸・アセトンの総称である」という定義は広く教育されている。しかしこの定義が単独で先行すると、「この3つを肝臓が作る」という誤った理解が生じやすい。正確には「アセト酢酸のみが合成され、残りはその変換体・分解物である」という経緯があって初めて、この総称は意味をなす。
なお、β-ヒドロキシ酪酸はケトン基(C=O)を持たないヒドロキシ酸であり、化学的に厳密にはケトンではないという点もあるが、本稿では慣例に従い「ケトン体」の一員として扱う。
β-ヒドロキシ酪酸は、アセト酢酸よりも化学的に安定しており、NADH相当のエネルギーを保持した状態で血流に乗ることができる。この観点から、β-ヒドロキシ酪酸は「ケトン体の輸送・貯蔵形態」としての機能を担っていると解釈できる。
末梢組織(脳、心筋、骨格筋など)に到達したβ-ヒドロキシ酪酸は、同じ酵素(D(-)-3-ヒドロキシ酪酸デヒドロゲナーゼ)によって再びアセト酢酸に戻される。肝外組織では スクシニルCoA:3-ケト酸CoAトランスフェラーゼ(SCOT) が存在するため、アセト酢酸はアセトアセチルCoAへと活性化され、最終的に2分子のアセチルCoAに分解されてTCAサイクルに入り、ATPを産生する。
この「肝臓で合成→β-ヒドロキシ酪酸として輸送→末梢で再変換→TCAサイクルへ」という流れは、臓器間代謝のシャトル機構として理解できる。
なお、肝臓自身はSCOTを持たないため、自ら合成したケトン体をエネルギーとして利用できない。これは生理学的に重要な設計であり、肝臓が「製造専門」の臓器として機能し、飢餓時や糖質制限時に全身へケトン体を供給し続けることを可能にしている。
今回の議論を踏まえ、教科書の記述を生化学的に正確な形に書き直すとすれば、以下のようになる。
「脂肪酸酸化が加速している代謝条件下では、肝臓ミトコンドリア内においてまずアセト酢酸が合成される。このアセト酢酸の一部は、D(-)-3-ヒドロキシ酪酸デヒドロゲナーゼの触媒作用とミトコンドリア内のNADH/NAD⁺比に依存した平衡反応により、β-ヒドロキシ酪酸へと変換される。最終的に、これら二者が肝臓から血液中へ放出され、末梢組織でのエネルギー供給に利用される。」
教科書の記述は「現象の結果(何が血液中に放出されるか)」を記述することを優先するあまり、「分子レベルの工程(どのように生成されるか)」を省略したり曖昧にしたりすることがある。
医師や医療従事者がこの誤解から抜け出せない最大の原因は、教科書という「権威」への過信であろう。「書いてあるから正しい」ではなく、「この記述の何を説明しようとしているのか」「合成と産生を混同していないか」という視点で読み解く習慣が、真の生化学的理解への近道である。
特に代謝を扱う際には、「何が存在するか(組成)」と「どのように生じたか(プロセス)」を常に区別することが、臨床判断の精度にも直結する。ケトアシドーシスの病態理解、糖質制限療法の代謝的根拠、絶食・飢餓時の生体反応——いずれも、ケトン体の生成プロセスを正確に把握していることが前提となる。
今回の問いが示すように、一つの教科書の記述を深く問い直す作業が、長年刷り込まれた誤解を解き、代謝生化学の本質的な理解へとつながっていく。
本稿は、ハーパー生化学日本語版の特定記述を出発点として、ケトン体生成の生化学的メカニズムを正確に整理することを目的としています。他の主要教科書(ストライヤー生化学、ヴォート基礎生化学)との比較検討については、別稿にて取り上げる予定です。