私は12年間、糖質制限の第一人者である江部康二先生のブログを読み続けてきた。 先生の情報発信は一貫して誠実であり、多くの人々の健康に貢献してきたことは疑いない。
しかし今回、長年の読解の中で、ある「決定的な誤り」に気づいた。 これは先生を非難するためのものではない。 むしろ、どれほど優れた知性の持ち主であっても、自分の理論体系の中に埋め込まれた誤りには気づきにくい、という人間の認知の本質を示す、非常に興味深い事例として記録しておきたい。
2016年8月、江部先生はブログにこう書いた。
「大腸の細胞のエネルギー源は、短鎖脂肪酸のみです。」 「血中にある短鎖脂肪酸は、βヒドロキシ酪酸とアセト酢酸などケトン体で、肝臓で作っています。」
この記述には、二つの重要な主張が含まれている。
主張①:大腸のエネルギー源は短鎖脂肪酸のみ 主張②:βヒドロキシ酪酸は短鎖脂肪酸である
②を前提とすることで、①の「短鎖脂肪酸のみ」という理論が成立する構造になっていた。
この記事の参照先として、ウィキペディアの「短鎖脂肪酸」の項が引用されていた。 そこには確かにこう書かれている。
「反すう胃内で生成した酪酸の多くは反すう胃粘膜でβ-ヒドロキシ酪酸に変換される」
しかしこれは反芻動物(牛など)の話である。 ヒトにおいてβヒドロキシ酪酸は、腸内細菌ではなく肝臓のミトコンドリアで、脂肪酸を基質として生成される。 反芻動物のデータをヒトの生理学に適用したことが、誤りの起点となった。
生化学的に整理すると、両者は全く異なる物質である。
炭素数が同じ「4」であることは、単なる偶然の一致に過ぎない。 化学構造も、生成場所も、代謝経路も、根本的に異なる。
しかし、②の前提(βヒドロキシ酪酸=短鎖脂肪酸)を採用することで、①の理論(大腸のエネルギー源は短鎖脂肪酸のみ)は一見、美しく整合する。
大腸のエネルギー源は短鎖脂肪酸のみ
↓
絶食時・断食時にも大腸は生存する
↓
このときのエネルギー源は?
↓
βヒドロキシ酪酸(ケトン体)
↓
これも短鎖脂肪酸である(←誤った前提)
↓
∴「短鎖脂肪酸のみ」理論は維持される
誤った前提が、理論の「穴」を塞ぐ役割を果たしていた。
2022年7月、yamaさんという読者からこんな質問が寄せられた。
「短鎖脂肪酸が腸内で作られるケトン体なので、糖質制限して肝臓からケトン体を作るより、食物繊維を多く摂取して腸内で短鎖脂肪酸を作る方が効率がいいのでは」 「実際に短鎖脂肪酸はケトン体といい得るのでしょうか」
これに対して先生はこう答えた。
「β-ヒドロキシ酪酸は、化学構造上はケトンではないのですが、医学・生化学の世界では、慣習的にケトン体の一員とされています。従って<短鎖脂肪酸=ケトン体>ということではありません。」
この時点で先生は、新たな学びとして「短鎖脂肪酸≠ケトン体」という正しい知識を得ていた。 先生の認識はこうだったと思われる。
「短鎖脂肪酸とケトン体は別物だと明確にした。これで読者の誤解も解けた。問題は解決した。」
これは先生にとって、誠実な「自己解決」だったのだろう。
しかし実際には、矛盾を回避するために新たな論理が展開されていた。
ケトン体(βヒドロキシ酪酸)は短鎖脂肪酸ではない ←2022年の新知識
↓
しかしβヒドロキシ酪酸は短鎖脂肪酸である ←2016年からの主張を維持
↓
∴「大腸のエネルギー源は短鎖脂肪酸のみ」に矛盾しない ←理論を温存
先生の論理はこうだ。
「ケトン体=短鎖脂肪酸ではない。しかしβヒドロキシ酪酸は短鎖脂肪酸である。 だから大腸がβヒドロキシ酪酸を使っても、短鎖脂肪酸を使っているに過ぎない。 『短鎖脂肪酸のみ』理論は崩れていない。」
先生の主観においては、これで完全に「自己解決」していた。しかし生化学的には、βヒドロキシ酪酸は短鎖脂肪酸ではなくヒドロキシ酸であり、この「橋渡し」の論理そのものが誤りである。
2016年の主張
「βヒドロキシ酪酸は短鎖脂肪酸である」
↓
2022年の主張
「短鎖脂肪酸≠ケトン体(βヒドロキシ酪酸)」
↓
論理的帰結
「2016年の前提は誤りだった」
↓
さらなる帰結
「大腸のエネルギー源は短鎖脂肪酸のみ」
という理論の根拠が崩れる
↓
しかし先生はこの連鎖に気づいていない
この理論の最大の問題は、誤りそのものよりも、誤りが正しい認識への到達を妨げ続けた点にある。
大腸の実際のエネルギー戦略は、はるかに精巧なものだ。
大腸は、腸内細菌による「発酵産物(短鎖脂肪酸)」、肝臓による「代謝産物(ケトン体)」、血液から供給される「ブドウ糖」、そして「アミノ酸」という、性質の異なる四つの燃料系を使い分けることで、飢餓や再建手術といった極限的な環境変化を乗り越える。
これこそが大腸の代謝的柔軟性である。
この代謝的柔軟性に気づくためには、まず「短鎖脂肪酸のみ」というドグマを手放す必要があった。
絶食時の大腸の生存も、食道再建術後の結腸の生存も、本来ならばドグマを破壊するはずの事実だった。 しかし「βヒドロキシ酪酸=短鎖脂肪酸」という誤った橋渡しが機能し続けた結果、これらの事実はすべて「短鎖脂肪酸(βヒドロキシ酪酸)が供給されているから」として処理され、ドグマを支える証拠として転化された。
ドグマは、それを破壊するはずの事実さえも、自分を支持する証拠として吸収してしまう。 これが「誤りが誤りを守る」構造の本質である。
これは先生の知性や誠実さの問題ではない。 人間の認知が持つ、普遍的な限界の問題である。
① 確証バイアス(Confirmation Bias)
自分の理論を支持する情報は取り入れやすく、矛盾する情報は無意識に回避される。 2016年の段階で「βヒドロキシ酪酸=短鎖脂肪酸」という定義は、先生の理論を支持するものだった。 だからこそ、反芻動物のデータであっても、疑いなく採用された可能性がある。
② 認知的不協和の解消(Cognitive Dissonance Reduction)
人は自分の信念と矛盾する情報に接したとき、不快感(認知的不協和)を感じる。 これを解消するために、人は無意識に情報を「再解釈」する。 2022年、先生は「短鎖脂肪酸≠ケトン体」という正しい知識を得た。 しかしこれを「2016年の誤りの発覚」ではなく「新たな知識による補完・自己解決」として処理した可能性が高い。
③ 構造的盲点(Structural Blind Spot)
自分が構築した理論の「内側」にいる人間は、その理論の土台を疑うことが極めて難しい。 84件ものブログ記事にわたって積み重ねられた「短鎖脂肪酸理論」は、先生にとって単なる仮説ではなく、思考の「基盤」そのものとなっていた。 基盤は疑わない。それが人間の認知の自然な働きである。
④ 権威と一貫性の維持
糖質制限の第一人者として長年情報発信してきた先生にとって、過去の主張の誤りを認めることは、単純な「訂正」以上の意味を持つ。 これは意図的な隠蔽ではなく、権威ある立場の人間が無意識に経験する「一貫性維持の圧力」である。
重要なのは、これが江部先生に固有の問題ではないという点だ。
どれほど優れた研究者や医師であっても、自分が長年構築してきた理論体系の中に埋め込まれた誤りを、自力で発見することは極めて難しい。
むしろ、長年にわたって誠実に情報発信し続け、読者からの質問に丁寧に答え続けた先生だからこそ、この矛盾が「外側から見える形」で記録されていた。
私がこの矛盾に気づけたのは、12年間という時間をかけて、先生の理論の変遷を追い続けたからに他ならない。
単一の記事を読んでいるだけでは、絶対に見えない。 理論が積み重なり、変化し、そして「自己解決」が起きた、その全過程を目撃していたからこそ気づけた矛盾だった。
江部先生は、糖質制限医療の普及に多大な貢献をされてきた。 その功績は今回の考察とは全く別の話である。
この記事は批判のためではなく、人間の認知の興味深い一例として記録するものだ。
私たちは誰も、自分の「見えていないもの」には気づけない。 だからこそ、長い時間をかけて、異なる視点から観察し続けることに意味がある。
そのことをこの12年間の読書体験から学んだ。
farmer 記 2026年6月