By Artfarmer2026年8月10日
01 ― これまで使ってきた前提を疑う
対話を重ねるなかで、私は「優越性の追求」や「協調性」を指して、気軽に「本能」という言葉を使ってきた。わかりやすさを優先した結果だが、この言葉遣いは、アドラー自身の理論的立場からすると、実はかなり大胆な省略だった。
ここで一度立ち止まり、精査する価値がある。問いはこうだ。優越性の追求は、本当に「本能」と呼んでよいものなのか。それとも、もっと別の何かなのか。
02 ― アドラーが「本能」という言葉を避けた理由
アドラーは、人間が身体的・心理的な劣等感を抱え、それを補償しようとする過程で、優越性の追求(権力への意志)という衝動が生じ、これこそが人間を動かす根本的な欲求だと位置づけた。
しかし重要なのは、アドラーが好んで使ったのが「本能(Instinkt)」ではなく、「欲求」「衝動」「動因」に近い言葉だったという点だ。アドラーはフロイトの弟子筋から出発しながら、後に決別する。その大きな理由の一つが、フロイトの本能決定論――リビドーという生物学的本能が人格を規定するという考え方――への異議だった。
優越性の追求を厳密に「本能」と呼んでしまうと、それはアドラーが最も避けたかった生物学的決定論に接近してしまう。アドラーの立場は、これを生まれつき機械的にプログラムされたものではなく、人が目標に向かって自らを動かしていく、より柔軟で創造的な力として捉えるものだった。
つまり、日常語としての「本能」を無造作に当てはめることは、アドラーが人間観の核心として守ろうとした「主体性」「創造性」を、静かに切り崩してしまう危うさを持っている。
03 ― 「何が」本能なのか ― 内容としての本能、能力としての本能
だが、ここでもう一つ問いを立て直す必要がある。私たちが「本能ではない」と退けたのは、優越性の追求という具体的な行動パターンが本能かどうか、という問いに対してだった。しかし、その"力そのもの"――目標に向かって自らを創造的に動かしていく能力自体――が生まれつき備わっているかどうかは、まったく別の、一段上のレベルの問いである。
ここで区別すべきは、次の二つの「本能」概念だ。
アドラーは、同じ本能的・身体的条件(たとえば器官劣等性)からでも、複数の異なるライフスタイルが構築されうると考えた。それを可能にするのが、子ども自身に生まれつき備わった「創造力」である。この力は後天的に習得されるものではない。
整理するとこうなる。内容(何を目標にするか)は本能ではない――それは経験や解釈によって、人ごとに大きく異なる。しかし、目標を持ち、それに向かって創造的に自分を動かしていくという"力の様式"そのものは、生まれつき人間に備わっている。行動の中身のレベルでは本能ではないが、その中身を生み出す力そのもののレベルでは、本能と呼んでよい。
04 ― 「気づき」が証明するもの ― 協調性というもうひとつの本能
この整理は、日々の経験のなかにある、ある奇妙な現象を説明できる。マウンティング的な発言をしたあと、なぜ人は振り返り、「これは違った」「良くなかった」と感じるのか。
もし優越性の追求だけが働いていたなら、振り返る理由がない。その行動は、その人にとって"うまくいった"行動であり、疑問の余地がないはずだからだ。しかし実際には反省が生まれる。この違和感こそ、優越性の追求とは別の基準――他者との関係性を大切にしたい、相手を傷つけたくない、対等でありたい、という協調性の側からの評価が働いている証拠である。
つまり「気づき」とは、優越性の追求という声が行動を起こした直後に、協調性というもう一つの本能的な声が、それを評価し、異議を唱えているという、二つの力のせめぎ合いそのものが表面化した現象である。社会的成熟度は、無からその声を作り出しているのではない。もともと自分の中に存在している協調性の声を、掻き消さずに聞き取る力にすぎない。
気づき・反省とは、社会的成熟度という調整機能が、協調性という本能の声を聞き取り、優越性の追求という本能とのバランスを取り直そうとしている、その瞬間の現れである。
だとすれば、繰り返し経験してきた「気づいて、反省する」というプロセスは、決して弱さや未熟さの表れではない。むしろ、協調性という本能が、自分の中でしっかりと機能し続けている証拠なのだ。
05 ― 優越性は本能である ― アドラーとは異なる結論
ここまでの整理を踏まえたうえで、私はアドラーの考えとは少し異なる立場を取る。優越性の追求は、本能として考える。これはアドラーの理論を誤読した結果ではなく、その理論を理解したうえでの、意図的な修正である。
アドラーは、優越性の追求を「本能(Instinkt)」と呼ぶことを避け、目的論的な力・動因として位置づけた。フロイトの生物学的決定論と一線を画すための、彼にとって理論的に重要な選択だった。一方、私はここまでの検討を通じて、次のように考える。
目標に向かって自らを創造的に動かしていく、その力の様式そのものは生得的である。協調性もまた、後天的に獲得されるものではなく、優越性の追求と並ぶ、もう一つの本能である。この立場から見れば、優越性の追求を明確に「本能」と呼ぶ方が、現象をよりよく説明できる。
進化生物学・人類学の知見と自然に接続できる。協調性もまた生存戦略として進化した、本能的な性質を持つという理解と整合する。
「気づき」「反省」を一貫して説明できる。協調性という本能と優越性という本能の、せめぎ合いの表出として位置づけられる。
文化の多様性を説明できる。狩猟採集社会の平等主義、資本主義社会の競争主義は、同じ本能的な力が、異なる文化的文脈で異なる内容として結実した結果と考えられる。
アドラーが「本能」という語を避けたのは、主に生物学的決定論への警戒からだった。しかし私の立場は、優越性を本能と呼びながらも、その内容――何を目標とするか――は文化や個人の創造力によって多様でありうる、という点は保持している。つまり、アドラーが本当に守りたかった人間の主体性・多様性という核心は損なわずに、「本能」という言葉が持つ生得性・普遍性の強調だけを、あえて取り入れる立場である。