自然農や自然栽培について考えていると、どうしても「どのように栽培するか」という方法論に目が向きます。
耕すのか、耕さないのか。
農薬を使うのか、使わないのか。
肥料を使うのか、使わないのか。
草をどう扱うのか。
虫をどう扱うのか。
もちろん、こうしたことは農業を実践するうえで重要です。
しかし、私は最近、その前にもっと大切な問いがあるのではないかと思うようになりました。
「なぜ自然農なのか」
という問いです。
自然農は目的なのでしょうか。
私は、自然農そのものを最終的な目的にしてはいけないと思っています。
自然農は、あくまでも一つの手段です。
では、その手段を何のために使うのか。
そこまで遡っていくと、私はアドラー心理学でいう「共同体感覚」という考えに行き着きます。
たとえば、自然農で作物を作る。
その目的は何でしょうか。
誰かに食べてもらうため。
自分で食べるため。
そして、健康に生きるため。
それならば、「作物を作ること」自体が最終的な目的ではありません。
さらに、
「不耕起で栽培する」
「農薬を使わない」
「化学肥料を使わない」
という方法があります。
では、それらは何のためでしょうか。
土壌を守るため。
土の生態系を守るため。
自然環境への負荷を減らすため。
未来の環境を守るため。
そう考えれば、不耕起や無農薬も、それ自体が最終目的ではありません。
つまり、
自然農も、不耕起も、無農薬も、何かを実現するための手段なのです。
ここで私は、目的と手段には「入れ子構造」があると考えています。
たとえば、
作物を育てる。
そのために種をまき、草を取り、収穫する。
作物を育てることは、ある場面では目的ですが、別の視点から見れば、人に食べてもらうための手段です。
人に食べてもらうことは、さらに「人の健康に役立つ」という目的のための手段になる。
人の健康に役立つことは、さらに「他者に貢献する」という目的につながる。
同じように、
不耕起で栽培する
↓
土壌を守る
↓
生態系を守る
↓
自然環境を守る
↓
社会や未来の世代に貢献する
というつながりもあります。
このように考えると、
ある階層では目的だったものが、一つ上の階層から見れば手段になる。
目的と手段は、固定されたものではありません。
一つの目的の中に、さらに目的と手段があり、その手段の中にも、また目的と手段がある。
私はこれを、目的と手段の「入れ子構造」と考えています。
では、その入れ子構造をどこまでも遡っていったとき、最後に何が残るのでしょうか。
私は、そこに共同体感覚があると思っています。
自分だけのためではない。
誰かのために。
社会のために。
自然環境のために。
未来の世代のために。
自分の営みを、より大きな共同体の中に置いて考える。
それが、私の考える共同体感覚です。
自然農をすることが目的なのではない。
自然農を通して、人や社会や自然に貢献する。
そのために自然農という手段を選んでいる。
この順序が大切なのだと思います。
私が現在の自然農について、少し気になっていることがあります。
それは、自然農という言葉や農法そのものが、独り歩きしてしまうことです。
もちろん、自然農を実践している人たちを批判したいわけではありません。
自然農を広めようとしている人も多いでしょう。
農薬や化学肥料について考えるきっかけを作っている人もいる。
土壌や環境について、貴重な経験を発信している人もいる。
そうした活動には、大きな意味があります。
それでも、私はときどき怖くなることがあります。
「なぜ自然農なのか」という一番大切な問いが、いつの間にか置き去りになってしまうことがあるからです。
「耕さない」
「農薬を使わない」
「肥料を使わない」
「草を抜かない」
「こんなに何もしなくても野菜が育った」
こうしたこと自体が、いつの間にか価値の中心になってしまう。
そして、
「自然農で、これだけの野菜ができた」
ということが、そのまま発信者自身の評価になっていく。
もちろん、それは技術として素晴らしいことかもしれません。
しかし、それだけで終わってしまったらどうでしょう。
「どうだ、すごいだろう」
という自慢話になってしまう可能性があります。
本来なら、その先に、
「誰がこの野菜を食べるのか」
「食べる人に何をもたらすのか」
「土や自然環境に何を残すのか」
という問いがあるはずです。
私は、そこを忘れてはいけないと思っています。
目的が「人の健康」なら、意識は食べる人に向かいます。
目的が「自然環境の保護」なら、意識は土や生態系や未来に向かいます。
目的が「他者貢献」なら、意識は自分の外側に向かいます。
ところが、「自然農をすること」が目的になると、意識は少しずつ自分に戻ってきます。
「自分の農法」
「自分の野菜」
「自分の技術」
「自分の成功」
「自分の実績」
という具合です。
そして、
「自分のやり方が正しい」
「自分の自然農こそ本物だ」
というところまで行けば、自然農という思想を守っているつもりで、実は自分自身を守っていることにもなりかねません。
ここには、以前から考えている虚栄心の問題も見えてきます。
この問題は、現在のYouTubeなどの情報発信にもつながっています。
本来、YouTuberの役割とは何でしょうか。
自分が経験したこと。
自分が学んだこと。
自分が実践して確かめたこと。
そうした正しい経験や情報を、人に伝えることではないでしょうか。
つまり、
共同体感覚
↓
他者貢献
↓
正しい経験や情報を伝える
↓
YouTubeという手段
です。
YouTubeそのものが目的なのではありません。
YouTubeでなければならない理由もありません。
ブログでもいい。
本でもいい。
講演でもいい。
人に直接話してもいい。
目的が「人に役立つ情報を伝えること」であるなら、手段は変えることができます。
ここでも、目的と手段の入れ子構造が見えてきます。
そこで、一つの問いが生まれます。
収益がなくても、正しい経験や情報を伝えたいと思うだろうか。
私は、これは目的と手段を見分ける一つの問いになると思っています。
もちろん、YouTubeで収益を得ることそのものを悪いと言っているのではありません。
問題は、収益の有無ではありません。
大切なのは、
「収益がなくても、その活動を続けたいと思えるか」
ということです。
収益がなくても発信したい。
誰かの役に立つなら伝えたい。
自分の経験が誰かの参考になるなら、伝えたい。
そう思えるのであれば、発信の根底には他者貢献があります。
反対に、収益がなくなった途端に発信する意味がなくなるのであれば、そこでは「情報を伝えること」よりも、別のものが目的になっているのかもしれません。
さらに難しいのは、発信を続けているうちに、発信者自身が注目されるようになることです。
登録者が増える。
再生数が増える。
コメントが増える。
「先生」と呼ばれる。
「すごい」と言われる。
そして、人は悲しいもので、そうした評価を受け続けると、
「自分は特別な存在なのではないか」
と思ってしまうことがあります。
タレントやスターのような存在になったと、勘違いしてしまうこともあるでしょう。
しかし、ここで本末転倒が起こります。
最初は、
情報を伝えるために自分を使っていた。
ところが、いつの間にか、
自分を見せるために情報を使う。
という逆転が起こる。
これは、とても怖いことだと思います。
なぜなら、本人にはその変化が見えにくいからです。
悪意があるわけではない。
最初から有名になろうと思っていたわけでもない。
ただ一生懸命に発信しているうちに、少しずつ自分自身が中心になってしまう。
だからこそ、これは他人を批判して終わる問題ではなく、自分自身にも問い続けなければならない問題なのだと思います。
私は、情報発信をするなら、あくまでも情報発信に徹するべきだと思っています。
発信者が主役になるのではない。
情報が主役です。
自分の経験を伝える。
失敗も伝える。
分からないことは分からないと伝える。
地域や気候によって結果が違うことも伝える。
自分の方法を絶対化しない。
そうして、受け取った人が自分の環境で考えられるようにする。
それこそが、本当の意味での情報発信ではないでしょうか。
私は、情報発信は本来、無報酬でも続けられるものであるべきだと思っています。
これは「報酬を受け取ってはいけない」という意味ではありません。
そうではなく、
報酬がなくなったとき、それでも発信する意味を感じられるか
ということです。
知っていることを伝える。
経験したことを伝える。
それが誰かの役に立つ。
それだけでも、発信する意味はあります。
「役に立った」ということ自体が、発信者にとっての報酬なのではないでしょうか。
もし収益が得られるのであれば、それは活動を継続するための報酬として受け取ればいい。
しかし、最初から収益を得るために情報を作り始めれば、情報発信そのものが別の目的にすり替わる可能性があります。
ここでも大切なのは、目的と手段の順序です。
この考え方は、経営について語った松下幸之助の言葉にもつながります。
松下幸之助は『実践経営哲学』で、
「本質的には利益というものは企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」
と述べています。
この考え方は、とても重要だと思います。
利益そのものを否定しているのではありません。
企業が社会に必要な仕事をし、その使命を果たした結果として利益を得る。
利益は、その活動を継続するためにも必要です。
しかし、
利益を得ることが使命なのではない。
ここが重要なのです。
これを農業に置き換えてみます。
人に喜ばれる作物を作る。
人の健康に役立つ。
自然環境を守る。
社会に貢献する。
その結果として農家が収益を得る。
それは自然なことです。
むしろ、貢献に対して適正な報酬を得られなければ、その営みを継続することもできません。
だから、
収益は悪ではない。
しかし、
収益そのものを最終目的にしてはいけない。
この区別が大切なのだと思います。
ピーター・F・ドラッカーにも、同じ方向を示す言葉があります。
『断絶の時代』で、組織について、
「組織は、自らのために存在するのではない。組織は手段である。組織の目的は、人と社会に対する貢献である。」
という考え方を示しています。
これは今回の自然農の問題と、非常によく似ています。
会社は会社自身のために存在するのではない。
組織は、人や社会に貢献するための手段です。
同じように、
自然農も、自然農自身のために存在するのではない。
自然農も、人や社会、自然環境に貢献するための一つの手段です。
さらに言えば、
農場も手段。
農業も手段。
自然農も手段。
YouTubeも手段。
情報発信も手段。
その上にあるものが、
人と社会への貢献
なのです。
こう考えると、農業と経営はまったく別の世界ではないことが分かります。
会社が自己目的化すれば、
「会社を大きくすること」
「売上を増やすこと」
「利益を上げること」
が最終目的になってしまう。
自然農が自己目的化すれば、
「自然農をすること」
「不耕起であること」
「無農薬であること」
が最終目的になってしまう。
YouTubeが自己目的化すれば、
「再生数を増やすこと」
「登録者を増やすこと」
「インフルエンサーになること」
が目的になる。
どれも構造は同じです。
手段が目的になってしまう。
そして、目的が「自分」に移った瞬間に、共同体感覚から離れていく。
目的と手段を見分けるために、私は一つの簡単な問いが使えるのではないかと思います。
「それがなくても、私は続けるだろうか」
自然農という言葉がなくても、私は人の健康や自然環境のために農業を続けるだろうか。
不耕起という方法がなくても、環境を守るために別の方法を探すだろうか。
YouTubeの収益がなくても、正しい経験や情報を伝えるだろうか。
誰からも「すごい」と言われなくても、人の役に立つことを続けるだろうか。
誰にも評価されなくても、他者に貢献したいと思うだろうか。
この問いに「はい」と答えられるなら、それは目的に近い。
逆に、それがなくなった途端に活動そのものが消えてしまうなら、それは目的ではなく、手段だったのかもしれません。
ここが、目的と手段を考える上で最も重要なところだと思います。
本当の目的が「人の健康」なら、自然農という方法に固執する必要はありません。
本当の目的が「自然環境の保護」なら、状況によって農法を変えることもできます。
本当の目的が「正しい情報を伝えること」なら、YouTubeに固執する必要もありません。
ブログでも、本でも、会話でもいい。
つまり、
目的を持っている人は、手段を変えることができます。
一方、
手段を目的にしてしまった人は、その手段を捨てることができません。
「自然農でなければならない」
「YouTubeでなければならない」
「自分が発信者でなければならない」
となる。
そこに、目的と手段の逆転があります。
この問題は、私が以前から考えてきた「完成」と「完了」にもつながります。
畑では、一つ一つの作業が完了します。
種をまく。
草を取る。
収穫する。
一つの仕事は終わります。
しかし、農業そのものは終わりません。
収穫が終われば、次の季節が始まる。
一つの作業が完了すれば、次の作業が始まる。
つまり、
一つ一つは完成し、完了する。
しかし、営み全体は未了のまま続いていく。
これは、自然農だけではありません。
情報発信も同じです。
一本の動画は完成する。
一本の記事は完了する。
しかし、伝えるべきことは終わらない。
農業も、情報発信も、人生も、同じ構造を持っているのかもしれません。
だから私は、自然農を否定したいのではありません。
むしろ、自然農を大切に思うからこそ、
「なぜ自然農なのか」
を、もう一度問い直したいのです。
自然農そのものを目的にしない。
不耕起を目的にしない。
無農薬を目的にしない。
情報発信そのものを目的にしない。
YouTubeを目的にしない。
収益を目的にしない。
そして、
自分自身を目的にしない。
それぞれは、何かのための手段です。
では、何のためなのか。
その問いを遡っていった先に、
人の健康がある。
自然環境の保護がある。
他者貢献がある。
社会への貢献がある。
そして、そのさらに根底に、
共同体感覚
がある。
最初の問いに戻ります。
自然農は目的なのでしょうか。
私は、目的ではないと思います。
自然農は、人や社会や自然に貢献するための一つの手段です。
そして、その手段の中にも、さらに目的と手段があります。
作物を作る。
人に食べてもらう。
健康に役立つ。
自然環境を守る。
社会に貢献する。
それぞれが次の目的につながりながら、入れ子になっています。
だからこそ、自然農という方法だけを切り離してしまうと、本来の意味を失ってしまう。
「自然農でこんなに育った」
「こんな方法で成功した」
ということが、単なる自己満足や自慢話になってしまう危険があります。
YouTubeも同じです。
本来は、正しい経験や情報を伝えるための手段です。
収益がなくても発信できるのか。
誰にも評価されなくても発信できるのか。
自分が特別な存在にならなくても発信できるのか。
そこに、その人の本当の目的が現れるのではないでしょうか。
自然農を独り歩きさせない。
情報発信を独り歩きさせない。
収益を独り歩きさせない。
そして何より、
自分自身を独り歩きさせない。
そのためには、いつでも原点に戻ることです。
なぜ、これをするのか。
その問いを忘れないことです。
そして、私がその問いの先に見ているのが、
共同体感覚です。
自分のためだけではなく、人のために。
社会のために。
自然のために。
未来のために。
自分の営みを、より大きな共同体の中に置く。
自然農も、農業も、情報発信も、仕事も、そのための手段なのだと思います。
そして、一つ一つの行為を完成させ、完了させながら、全体としては未了のまま歩き続ける。
それが、私にとっての「農」であり、「仕事」であり、そして「人生」なのです。