「人生の意味」を問う場所はどこにあるのか
フランクルとアドラーのあいだで
フランクルとアドラーのあいだで
By Artfarmer2026年9月1日
私たちは普通、「人生の意味とは何か」を、自分の外側にある答えとして探そうとします。まるで、どこかに正解がすでに用意されていて、それを見つけ出せばいい――そんなふうに。
しかしヴィクトール・フランクルは、この問いの立て方そのものを180度転換しました。意味を問う主体は、人間ではなく、人生の側にある、と彼は言います。人生の方が、その都度、私たちに向かって問いかけてくる。
「この状況で、あなたはどう生きるのか」 「この出来事に、あなたはどう応えるのか」
そして人間の役割は、その問いに対して、行動によって、生き方によって答えていくことなのだ、という立場です。
これを言い換えれば、「人生の目的とは何か」と抽象的に問うのではなく、目の前のこの瞬間、この状況が自分に何を問いかけているかに、具体的に応えていく。それが「生きる」ということになります。畑の雑草を一本抜くこと、カフェを開けること、農作業をすること――これらはすべて、人生から差し出された、その瞬間その瞬間の問いに対する、自分なりの答えだったのだと思います。
フランクルの考えをさらに一歩深めれば、こう言えるのではないでしょうか。
問いに答えられるかどうか、応え続けられるかどうか、その前に、ただ生きているということ自体に、すでに価値がある。
うまくできた日も、失敗した日も、くじけた日も、それを乗り越えた日も――そのすべてを含めて、ただ生きているということ自体に、すでに揺るがない価値がある。これが一切の条件や評価から自由な場所にある結論です。
ここで、ひとつ重要な訂正をしておきたいと思います。「さらに一歩深める」という表現だと、フランクルの思想があって、その延長線上・先に自分の結論が位置づけられることになります。しかし「前提として」と言い直すと、論理的な順序が逆転します。
フランクルの「人生があなたに問いかけてくる」という構造が成り立つためには、そもそも「あなたが生きている」ということが、すでに成立していなければなりません。問いを受け取る主体がまず存在していなければ、問いに応答することもできない。応答価値・態度価値が意味を持つのは、「生きている」という土台の上でだけです。
そう考えると、「ただ生きていることに価値がある」というのは、フランクルの思想をさらに発展させた結論ではなく、フランクルの思想全体が黙って前提にしている、語られなかった土台だということになります。フランクルは「どう応えるか」を語ることに集中したために、あえて「応えられるという事実そのもの」を主題化しなかった。それは彼が否定していたからではなく、当然の前提として、あえて言うまでもないこととして扱っていた――ということかもしれません。
順序で言うと、次のようになります。
存在している(前提・アドラー的な地平)
その存在に対して、人生が問いを差し出してくる(フランクル)
その問いに、行動と態度で応える(フランクル)
「さらに一歩深める」という表現だと、3の先に4があるように見えてしまいますが、「前提として」だと0の位置に置かれる。この結論は、フランクルの思想の"外側"や"先"にあるのではなく、フランクルの思想がそこに立っている、その足場そのものを言語化したものだった、ということになります。
「目の前の問いに具体的に応えていく」というこの生き方は、アドラーの目的論的な考え方とも重なります。それは「その都度完成完了の繰り返しである」という捉え方です。
これは、アドラー心理学を語る上でしばしば使われる、アリストテレスの**キネーシス(kinesis)とエネルゲイア(energeia)**という区別と重なります。
キネーシス的な運動とは、電車が目的地に向かうような運動です。出発点から到着点までのプロセスはまだ完成しておらず、目的地に着いて初めて完成する。つまり「今この瞬間」は、まだ完成していない未完の途中経過にすぎません。
エネルゲイア的な運動とは、踊っている、まさにその瞬間そのものがすでに完成している運動です。ダンスは、最終的にどこかに辿り着くことを目的としていません。踊っているその瞬間瞬間が、そのつどそれ自体で完結しています。
アドラー心理学(特に岸見一郎氏によるその紹介)では、人生をこのエネルゲイア的なものとして捉え直します。人生は、遠くにある目的地(たとえば「人生の意味」)に向かって進む旅ではなく、「今、ここ」の連続する点の集まりだ、と。過去も未来も、実は「今」の中にしか存在しない。だから、雑草を一本抜くこと、カフェを開けること、これらはどこかへ向かうための手段や途中経過ではなく、その瞬間ごとに、それ自体で完結した、すでに完成された行為だった、ということになります。
ただし、ここで一点、正確さのために補足しておく必要があります。アドラー心理学の「目的論」という言葉自体は、本来は少し違う文脈で使われます。これは主に、フロイト的な原因論(過去のトラウマが今の行動を規定する)に対する対抗概念として、「人間の行動は過去の原因ではなく、今この瞬間に抱いている目的によって動機づけられている」という主張です。つまり「目的論」という言葉自体は、エネルゲイア(その都度の完結性)とは、厳密には別の論点だとも言えます。
しかし、この二つを切り分けすぎるのも正確ではありません。改めて考えると、こういうことです。
目的論とは、行動が「過去の原因」によってではなく「今抱いている目的」によって動機づけられている、という考え方です。ここで重要なのは、目的が「未来のどこか」ではなく「今、この瞬間」に置かれている、という点です。フロイト的な原因論が行動を過去に向けて説明するのに対し、アドラーの目的論は、行動の説明を常に「今」に引き戻します。
そう考えると、「その都度完成完了の繰り返しである」というのは、まさにこの目的論の帰結そのものだと言えます。目的が今この瞬間にあるということは、雑草を抜く、カフェを開けるという行為そのものが、すでにその瞬間における目的の実現である、ということになります。遠い未来の目的地に向かう途中経過ではなく、今この瞬間に、すでに目的は達成されている。だから、その都度、完成し、完了している。
エネルゲイアという概念を持ち出したのは、区別を明確にしようとしすぎたのかもしれません。しかし実際には、これはアドラーの目的論という一つの考え方の中に、最初から含まれている帰結です。目的を今に置くという目的論の構造そのものが、必然的に「その都度の完結性」を生む。二つの理論を接続する必要すらなく、目的論を徹底して考えれば、自然にそこに辿り着くのです。
整理すると、この考察は次の三層で成り立っています。
「人生の意味とは何か」という問いを外側に探すのをやめ、目の前の一瞬一瞬に応えていくこと。そして、その応答が可能になるための足場として、ただ生きていること自体に、すでに揺るがない価値がある。畑の雑草を一本抜くこと、カフェを開けること――そのひとつひとつが、他の何のためでもなく、それ自体としてすでに完成した答えなのだと思います。