「目的」と「目標」のあいだ ― アドラー心理学から考える、
完了しない人生の構造
完了しない人生の構造
By Artfarmer2026年8月10日
「人が生き、行為し、自分のことを見出す方法は、必ず目標の設定と結びついている。一定の目標が念頭になければ、何も考えることも、着手することもできない。」
アドラーはこの言葉に象徴されるように、「目標(Ziel)」という語を繰り返し使う。だが彼の理論はしばしば「目的論(teleology)」と呼ばれる。この「目的」と「目標」、似ているようで、実は抽象度の異なる二つの言葉ではないか——そんな問いから、ひとつの対話が始まった。
まず区別しておきたいのは、「目的論」という理論全体の立場と、個々人が抱く「目標」という具体的な内容は、次元の違う話だということだ。
目的論:人間の行動には原因(過去)ではなく目的(未来)がある、というアドラー心理学全体の方法論・立場を指す言葉。
目標:その目的論という枠組みの中で、個々人が実際に抱いている、具体的な"到達点"のイメージ(「優越したい」「認められたい」など)を指す言葉。
アドラーは基本的にドイツ語の Ziel(ゴール)という語を一貫して用い、人が目標達成に向けて自らの行動を組織していくプロセスそのものを説明する際にこの語を使っている。
日本語の語感で整理するなら、「目的」はより広く、「なぜそれをするのか」という意味づけ・理由づけに近いニュアンスを持つ(「人生の目的」のように)。一方「目標」はより具体的に、「どこに向かって進むか」という到達点・ゴールに近いニュアンスを持つ(「今年の目標」のように)。
アドラーが「目標」を頻繁に使うのは、彼の理論が抽象的な"人生の意味"を語ることよりも、個人が具体的にどんな"仮想の到達点"を設定し、そこに向かって今の行動をどう組織しているか、という臨床的・実践的なレベルの分析に主眼を置いていたからだと考えられる。「目的」という言葉はむしろ、理論の立場そのもの(目的論 vs 原因論)を指すときに使われる傾向がある。
この区別を具体例に当てはめてみる。「共同体感覚に向かう」ことも「虚栄心に向かう」ことも、どちらも同じ本能(優越性の追求)に発しているが、その優越性がどのような"目標"として具体化されているかによって、行き着く先が変わる。虚栄心を持つ人は「他者より優れて見えること」という具体的な目標を、共同体感覚を持つ人は「貢献を通じて仲間の一員であると感じられること」という別の目標を設定している——その違いである。
この「目的/目標」の関係は、実は別の対概念とも構造的に重なっている。「完了」と「完成」である。
「完了」は、絵画や建築物などの"全体としてのあるべき状態"を指す言葉で、しばしば理想的・究極的なニュアンスを帯びる。「本当の意味で完了した」と言うとき、それは技術的に手が止まった状態以上の何かを指している。一方「完成」は、"この工程は終わった"という個々の行為の事実確認であり、より即物的・手続き的だ。
これは、「目的」(なぜ生きるか、という理念的・究極的な到達点)と「目標」(今日、この場面で何を目指すか、という具体的な行為の単位)の関係と、ぴったり重なる。
この入れ子構造が示唆するのは、「完成」を積み重ねても、必ずしも「完了」に至るとは限らない、ということだ。個々の工程における「完成」(その都度の出来栄え)は淡々と積み重なっていくが、「完了」とは単なる出来栄えの総和ではなく、それらが一つの区切りとして認められて初めて成立する、質的に異なる次元の事実なのである。
これを「目標」と「目的」に当てはめれば、個々の目標(今日のこの行動)を一つひとつ「完成」させていっても、それが自動的に人生の目的(共同体感覚に生きる、といった理念)の「完了」を意味するわけではない、という構造が浮かび上がる。むしろ、個々の目標の完成度が、その人が抱く目的にとって本当に意味のある方向を向いているかどうかが問われることになる。虚栄心に基づく目標(誰かを見下す、優れて見せる)は、いくらそのつど完成させても、共同体感覚という"完了"には決して近づかない——これも、この入れ子構造から自然に導かれる帰結だ。
もう一つ付け加えるなら、芸術作品における「真の完了」は、しばしば到達不可能な理念として扱われる。画家が「これで完了だ」と言い切れず、生涯手を入れ続けることがあるように。これはアドラーの「目的」の捉え方とも響き合う、これが未了という考え方である。アドラーの「目標」概念はフィクション(虚構)としての性質を持つとされ、完全に到達される「事実」というより、行動を方向づけるための仮の指標として機能する。
つまり、「完成」や「目標」は達成できる/できないが判定可能な、有限の単位であり、「完了」や「目的」は達成そのものよりも方向づけの機能を果たす、ある意味で到達し続けるべき理念だと言える。
この「目的地に到達しない生き方」を、アドラー自身も一つの比喩で語っている。目的地に到達しようとする人生を「キーネーシス的(動的)な人生」、ダンスを踊ることそのものを目的とする人生を「エネルゲイア的(現実活動態的)な人生」と呼び分け、後者を勧めたのである。目的地を目指す生き方は、到達するまでの日々を"途上"にしてしまう。しかしダンスを踊るように生きることは、いま踊っているその瞬間がそのまま結果であり、目的地というものを持たない。
アドラーのこの比喩の重心は、「目標など、なくてもいい。いま、ここを真剣に生きること、それ自体がダンスだ」という点にあった。目的地を手放すことによる充実——いわば引き算の教えである。
本稿では、この比喩を土台にしながら、もう一歩先に進めてみたい。目的地を手放すだけでなく、ダンス(目標)がその都度完成することこそが、未了の音楽(目的)に対する応答である、と捉え直したい。目的地はなくとも、一歩一歩の踊りそのものには、それぞれ完成という質が伴う——そう考えるのである。
ここで、もう一つ精緻な区別が必要になる。「終了」という概念だ。
未了:完了していない、という状態。音楽が鳴り続けている限り、目的は常にこの状態にある。
終了:音楽そのものが鳴りやむという出来事。死である。
つまり、死は「目的が完了すること」ではない。目的は最後まで未了のまま、答えの出ないまま、音楽そのものが止むという形で終わる。これは「完了」ではなく、まったく別種の出来事——「終了」なのだ。ダンスが目的地にたどり着いて止まるのではなく、音楽が突然、あるいは静かに、鳴りやむ。ダンスはその瞬間まで、常に完成し続けていたはずである。
この区別が持つ意味は大きい。目的の完了を待って死ぬのではない。目的は未了のまま、音楽が終了することによって、人生は終わる。つまり、死は「やり遂げた」「やり遂げられなかった」という評価の対象にはならない。目的はそもそも完了しうるものではなかったのだから、未了のまま音楽が止んでも、それは失敗ではない。ただ、その瞬間まで、ダンス(目標)をどれだけ完成させ続けてきたか——それだけが、その人の人生に残るものなのだ。
音楽が鳴りやむ時、大切なのは「どこまで進んだか」ではなく、その瞬間その瞬間、踊りをどれだけ完成させてきたか、その積み重ねなのかもしれない。
三つの言葉に、ここまでの議論のすべてが凝縮されている。
音楽は必ず終了する(死)。しかし目的そのものは、その瞬間まで未了のままだ(答えは出ない、たどり着かない)。そしてその間、ダンス(目標)だけが、その都度完成していく。
「死ぬまで生きる」——これ以上削ぎ落とせない言葉だと思う。当たり前のようでいて、実際にはほとんどの人が、この当たり前を生きられていない。多くの人は、「いつか目的が完了する日」を待ちながら生きようとしてしまう。虚栄心も、ある意味ではその一つの表れなのかもしれない。まだ来ぬ完了(認められること、優れていると証明されること)を先取りしようとする焦りである。
しかしこの一言は、その待つという姿勢そのものを手放している。完了を待たない。音楽が終了するその瞬間まで、ただ今この一歩のダンスを完成させ続ける。それだけだ。
最後に、ここまでの考えをもう一度まとめ直しておきたい。目的地を持たないという生き方は、ともすれば「目的も目標も要らない」という結論に流れがちだ。しかし、私はそう考えない。
目的も目標も、どちらも否定しない。**未了としての人生そのものが、目的である。**そしてその中で、目標と完成が、繰り返される。
目的は、完了することを目指すものではなく、未了であり続けること自体が、その本質である。目標は、その未了の中で、その都度、完成することにこそ意味がある。アドラーが語った「目的地なき充実」とは、また少し違う言葉になるが、これが今、私自身がたどり着いた考えである。