By Artfarmer2026年6月26日
私は、今日という日に何を食べるか、そしてその糧がどのような土壌から生まれ、私の大腸でどのような代謝の波を生み出すのかを考え続けてきた。
現代の食は、あまりにも便利になりすぎた。その結果、私たちの身体が本来持っていた「代謝のシステム」は置き去りにされてしまった。腸という名の工場は空っぽになり、全身の指令塔であるGLP-1は沈黙し、私たちは栄養過多でありながら飢餓状態に陥っている。
かつて私が糖質制限という理論に没頭したのは、病を避けるためだった。しかし、10年という歳月を経てたどり着いたのは、健康とは数値を管理することではなく、大地と腸、そして全身をつなぐ「循環を回復すること」にほかならない、という確信である。
菊芋を植え、その生命力を自らの腸に取り込み、酪酸という希望を全身に巡らせる。この営みは、単なる食事ではない。自然と対話し、自らの未完成さを受け入れ、誰かに何かを残そうとする、「生きること」そのもののプロセスである。
私は今、農業に取り組み、生化学を学び、アドラー心理学を理解しようとしている。
アドラーを読み込むなかで、一つ大切なことに気づいた。「嫌われてもいい」という覚悟と、「嫌われる勇気」の順番の問題である。
「嫌われてもいいと先に思うこと」は、時として逃げになる。「どうせ嫌われてもいいから……」という姿勢では、行動の前に免罪符を置いてしまう。それは、本当の意味での自己受容ではない。
正しい順番はこうだ。
まず、共同体のために必要だと思うことを、勇気を持って行動する。その行動の結果として、嫌われるかもしれないという現実を引き受ける。そこで初めて、「嫌われてもいい」という覚悟が意味を持つ。
自己受容とは、行動する前の保険ではない。行動した先に生じる不都合や不完全さを、静かに引き受けることである。
宮沢賢治は「農民芸術概論」のなかに、こう書いた。
「永久の未完成これ完成なり」
この言葉は、もともと出版予定のないメモ書きとして記されたものだった。内容は農民に向けた言葉のように読めるが、私はこれを賢治が自分自身に向けて書いた文として読む。
そう読んだとき、この言葉の意味は変わる。
当時の賢治を取り巻いていたのは、家族の死、冷害、貧困だった。その状況のなかで書かれた言葉だとすると、「完成なり」という力強い宣言の裏に、本当は「未了なり」と言いたかった切実さが透けて見える。
「未了」——終わっていない。そのままでは苦しすぎる。だから賢治は、永久の未完成という宿命を、「これ完成なり」という自己受容へと静かに昇華しようとしたのではないだろうか。
ここで一つ言いたい。
「未完成」と「完成」
そして「未了」と「完了」とは違うということである。
前者は、工作物や楽曲など作品を指すことが多い。
後者は、そのものの終わりなど状態を指すように思う。
本文ではあえて「本当は「未了なり」と言いたかった切実さが透けて見える。」とした。
私も、未完成を受け入れている。
しかし、それは諦めではない。「完成を目指す人生から降りること」だと思っている。
すると、不思議なことに自由になる。すべてを理解しなくていい。すべてを成し遂げなくていい。納得のいくところまで辿り着けるかどうか、分からない。それでも、種を蒔き続ける。
農業と生化学とアドラー心理学とAI。この営みは、完成させることが目的ではない。循環の中に自分の一部を残すことが目的になっている。
命が尽きるその瞬間まで、土に触れ、考え、種を蒔き続けること。
その「絶え間ない営み」の記録が、誰かの代謝を支え、生命の循環の一部として息づくならば、私の人生はそれだけで十分である。
未完成のままでいい。むしろ、未完成だからこそ、学び続けることができる。