By Artfarmer2026年4月3日
「理解すること」と「覚えること」
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どちらか一つを選ぶとすれば、「理解すること」だと思う。
理由はシンプルだ。理解があれば、たとえ忘れても再構築できる。しかし記憶だけがあって理解がなければ、応用も転用も、深めることもできない。道を覚えるより、方角と地形を理解している人のほうが、初めての場所でも迷いにくい。それと同じことだ。
ただ、より正確に言えば、理解は「構造」を作り、記憶はその構造に「肉」をつける。理解だけでは細部が空洞になる。インスリン抵抗性のメカニズムを理解していても、具体的な数値や論文の内容を記憶していなければ、議論の場では弱い。理解と記憶は、対立するものではなく、互いを支え合うものだ。
ここに、学びの本質を表す言葉の対比がある。
「覚える」は意志的な行為だ。努力、反復、暗記——外から詰め込む。学校教育の多くはこれを強いてきた。一方、「覚えてしまう」は結果として起きることだ。理解が深まったとき、気づいたら身についている。内側から染み出てくる。
「覚えてしまう」記憶は忘れにくい。「覚える」で詰め込んだ記憶は試験が終われば消えるが、理解を通じて染み込んだものは、10年後も20年後も、ふとした瞬間に蘇ってくる。
この「覚えてしまう」という日本語の受動的なニュアンス——意図せずそうなってしまう——が、学びの本質を実に正確に表現している。本当に深く理解したことは、自然と記憶される。だとすれば、「理解すること」を徹底的に追求すれば、記憶は後からついてくる。
インスリン抵抗性は病気ではなく、過剰な栄養摂取や肥満から体を守る「防衛反応」である——この気づきは、菊芋を掘っているときに訪れた。
作業中に音声資料を聞きながら、耳から入る情報と、手で感じる感覚と、動く身体が一体になったとき、理解が降りてきた。机の前では起きなかったことが、身体を使っている最中に起きたのだ。
身体が動いているとき、脳はある種の「受け取りやすい状態」になる。集中しようとしていない分、深いところで情報がつながる。菊芋はイヌリンを通じてGLP-1と腸内環境に働きかける植物だ。その植物と対話しながら、その植物が関係するメカニズムの本質に気づく——研究と農業が、最初から一体だったのだと思う。
そしてその畑での気づきは、決して忘れない。これもまた、「覚えてしまう」ことの一つだ。