アドラーを読み込む中で、一つ大切なことに気づいた。「嫌われてもいい」という覚悟と、「嫌われる勇気」の関係についてである。
今回は「私の考察として」また「自説として」 ここに記すことにする。
「嫌われてもいいと先に思うこと」は、時として逃げになる。「どうせ嫌われてもいいから……」という姿勢では、行動の前に免罪符を置いてしまう。それは、本当の意味での自己受容ではない。
自己受容とは、行動する前の保険ではない。行動した先に生じる不都合や不完全さを、静かに引き受けることである。
では、正しい順序はこうだろうか。
まず、共同体のために必要だと思うことを、勇気を持って行動する。その行動の結果として、嫌われるかもしれないという現実を引き受ける。そこで初めて、「嫌われてもいい」という覚悟が意味を持つ——。
しかしこれも、まだ不十分である。
「結果として嫌われてもいい」という考え方は、嫌われることを意識の中心に置いている。嫌われることが判断の座標軸になっている限り、どこかで自分に引きずられている。動機として、まだ弱い。
正確に言えば、こうなる。
行動と覚悟は、同時に生まれる。
共同体のために必要だと判断する。その決断が、覚悟をすでに含んでいる。嫌われるかもしれないという可能性は、覚悟の対象ですらなく、決断に付随する当然の条件として静かにそこにある。
武士が相手と対決するとき、切られてから「死んでもいい」と思うのでは遅い。行動を起こすその瞬間に、すでに死は引き受けられている。覚悟とは、行動の前提でも結果でもなく、行動を起こすその瞬間に完結している。
「起点ではないが、同時である。」
起点にすると、覚悟が行動を許可することになる——免罪符になる。結果にすると、覚悟が行動に遅れる——動機として弱い。同時であるとき、決断が覚悟を含み、覚悟が決断を支える。どちらが先でも後でもなく、一つのことの二つの面として存在している。
ただし、「嫌われてもいい」という思いが無意味だとは言わない。
それは、勇気づけとして機能することがある。行動を起こすときの背中を押す力になりうる。しかしそれは、あくまでも補助である。行動の起点でも、行動の正当化でも、結果の受け皿でもない。
行動の本質的な動機は、あくまでも共同体への貢献や、必要性への判断にある。「嫌われてもいい」という思いがその判断を後押しすることはあっても、それ自体が行動を生むわけではない。
ここで一つ、重要な区別を加えたい。
「嫌われる勇気」は岸見一郎氏によるアドラー心理学の解釈・展開 であり、「課題の分離」という言葉もアドラー自身の著書には登場しない。
アドラー自身が語るのは、それぞれの課題そして共同の課題である。
岸見氏の「課題の分離」は、個から始まって関係を限定するニュアンスを持つ。しかしアドラー自身の構造は、共同体から始まって個の役割を見出す方向に向いている。最近、日本のアドラー心理学を研究する学者の間で「課題の分離」ではなく「課題の分担」という表現が使われるようになってきた背景には、この本来の思想への回帰がある。
行動の動機が「共同体への貢献」から生まれるとき、嫌われるかどうかはその中で生じる付随的なことに過ぎない。「嫌われる勇気」というタイトルが誘う読み方とは、起点が根本的に異なる。