絶食や厳しい糖質制限を行うと、体は脂肪を分解して大量のアセチルCoAを作り出します。しかし、TCA回路を回すために必要なオキサロ酢酸は糖質から作られるうえ、血糖維持のための糖新生にも優先的に使われるため、供給が追いつきません。
その結果、行き場を失ったアセチルCoAが肝臓でケトン体に変換されるのです。
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byartfarmer2025年5月10日
― 肝臓が演じるエネルギー代謝のシナリオ ―
肝臓は、私たちの体全体のエネルギーをコントロールする要の臓器です。ご飯を食べたあと、あるいは絶食しているときでも、状況に応じて「糖を燃やす」か「脂肪を燃やす」かを切り替える柔軟性を持っています。
その中心にあるのが、グルコース、脂肪酸、アセチルCoA、オキサロ酢酸、そしてケトン体といった分子たち。今回のテーマは特に「オキサロ酢酸」という分子が不足するとどうなるか? そしてそれがなぜケトン体産生を引き起こすのか? という点です。
クエン酸回路(TCA回路)は、糖・脂質・アミノ酸を最終的にエネルギーへ変換する中心的な仕組みです。そのスタートは「アセチルCoA」と「オキサロ酢酸」が出会い、クエン酸を作るところから始まります。
つまり、オキサロ酢酸が足りないと、いくらアセチルCoAがあっても回路は回りません。まるで自動車のエンジンにガソリンがあっても点火プラグがなければ動かないようなもの。オキサロ酢酸はTCA回路の門番と言えます。
絶食や糖質制限のとき、体は脳や赤血球のためにグルコースを新しく作る「糖新生」を始めます。この経路の中心にいるのもオキサロ酢酸。
問題は、糖新生に大量のオキサロ酢酸が使われるため、TCA回路に回す分が不足してしまうことです。その結果、肝臓は「アセチルCoAが余っているのに燃やせない」という状態になります。
同じタイミングで、ホルモン環境(低インスリン・高グルカゴン)によって脂肪分解も進みます。脂肪酸は肝臓に運ばれ、β酸化によって次々とアセチルCoAへ。
こうして「オキサロ酢酸が枯渇しているのに、アセチルCoAが洪水のように増える」という不均衡が生じます。
行き場を失ったアセチルCoAは、代替経路としてケトン体合成へと進みます。
まずアセトアセチルCoAができ、
HMG-CoAを経て、
アセト酢酸 → β-ヒドロキシ酪酸 → アセトン へと変換されます。
これが「ケトン体」と呼ばれる水溶性の代替燃料です。ケトン体は脂肪酸と違って血液脳関門を通過できるため、脳にもエネルギーを供給できます。
不思議なことに、ケトン体を作った肝臓自身はそれを利用できません。理由は、肝臓にはケトン体を再利用するための酵素(SCOT)が欠けているから。
つまり、肝臓は「自分のためではなく、他の臓器のために燃料を作る工場」。ここに肝臓の利他的な役割がよく表れています。
ケトン体が増える状態には2種類あります。
栄養的ケトーシス
絶食や糖質制限で生じる自然な代謝適応。インスリンは低いがゼロではなく、ケトン体レベルは安全範囲に保たれます。
糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)
1型糖尿病などでインスリンが欠けたときに起こる危険な状態。制御が効かずケトン体が暴走し、血液が酸性に傾いて命に関わります。
肝臓でのケトン体生成は「異常」ではなく、進化が残した生存の仕組みです。糖新生によるオキサロ酢酸の枯渇と、脂肪酸分解によるアセチルCoAの過剰が同時に起こることで、肝臓は必然的にケトン体を作り出します。
この代謝のスイッチは、絶食時や糖質制限における強力な適応である一方、インスリンが欠如すると命を脅かすアシドーシスへと転じます。ここに、インスリンの存在がもたらす代謝の秩序の重要性がはっきりと浮かび上がるのです。