虚栄心という友人
消せないものと、どう付き合うか
消せないものと、どう付き合うか
今日の思索の出発点は、ごく身近な、ささやかな出来事だった。
人に対しマウンティングをしてしまい、のちに反省した。自分はどうして虚栄心を制御できないのか。そもそも虚栄心をなくすことはできるのか。という疑問が湧いた。
そこから、アドラーの『性格の心理学』を読み返しながら、一日をかけて考えを深めていくことになった。
これは、その日の思索の記録である。
これまで自分は、虚栄心についてこう理解していた。
社会的に成熟し、共同体感覚を身につけていけば、虚栄心はいずれ無くなっていくものだ。
しかし、考察を重ねるうちに、この理解には無理があることに気づいた。虚栄心は、無くならない。ただし、共同体感覚を身につけることによって、それをコントロールできるようになる。
この違いは小さいようで大きい。なぜなら、虚栄心の根にあるのは「優越性の追求」という、人間に生まれつき備わった本能だからだ。本能である以上、それを完全に消し去ることは原理的にできない。抑制したり、方向づけたりすることはできても、消去することはできない。
人間には、相反する二つの本能が同時に働いている。
優越性の追求 ―― 他者より優れていたい、上に立ちたいという力
協調性 ―― 他者とつながり、共に生きようとする力
虚栄心は、前者から生まれる。だからこそ、後者(協調性)が育って共同体感覚となったとき、初めて虚栄心をコントロールし、方向づけることができるようになる。
つまり、社会的成熟とは、本能を消すことではなく、調整することである。この理解を、虚栄心というテーマにそのまま当てはめると、次のように言い換えられる。
虚栄心は、人間である限り、決してなくならない。しかし、共同体感覚を育てることで、それをコントロールできるようになる。
「虚栄心を無くそう」という、おそらく誰にとっても実現不可能な目標を掲げるよりも、こちらの方がはるかに誠実で、実践可能なメッセージだと思う。
では、虚栄心をコントロールする力は、どこから生まれるのか。単なる意志の力や、感情の抑制だけでは、おそらく限界がある。
ここで思い当たったのが、「読書などの知的な作業」の役割だった。以前の思索で確認した、次のような図式がある。
価値 ⇔ 手段
↓
目的 ⇔ 目標
この枠組みに当てはめると、読書という行為は、「共同体感覚に向かう」という目的を実現するための、具体的な手段として位置づけられる。
アドラーを読み、自分の経験と照らし合わせ、それを言葉にして考え続ける ―― この知的な作業そのものが、本能を価値に結びつけ直すための、実践的な手段になっている。実際、今日一日行ってきたこと自体が、まさにこの結論の生きた実例になっていた。
虚栄心について組み立ててきたこの構造は、そのまま性格全体にも広げられる。
「性格は変えられるか」性格を理解したうえでコントロールすること。これが共同体感覚であり、社会的成熟だ。
ここで「変わる」という言葉の意味を、もう一度正確にしておく必要がある。
性格の土台にある本能は、変わらない・消えない
しかし、その本能がどう現れるかは、コントロールによって変えられる
優越性の追求や協調性、そのほかさまざまな生得的な傾向 ―― これらの存在そのものを消すことはできない。しかし、それがどのような行動として表に出るかは、社会的成熟度によって大きく方向づけることができる。「性格は変えられる」という言葉の正確な意味は、ここにある。
この営みは、二段階に分けられる。
理解する ―― 自分の中にある本能的な傾向を、否定せず、恥じず、まず素直に認識すること
コントロールする ―― その理解の上に立って、価値に基づいた方向へ、その力を導いていくこと
この「理解した上でコントロールする」という営みそのものが、共同体感覚であり、社会的成熟である。両者は別々の層にあるものではなく、性格を理解し、コントロールしていくという一つの実践の中に、同時に体現されているものだった。
そして、今日の思索の一つの到達点は、次の一言に集約される。
性格という長年付き合ってきた人格を、どうコントロールするか。この性格というのは、本当に居心地のいい友人のようなものだったはずだ。
これまでの対話では、虚栄心や優越性の追求といった本能的な傾向に対して、「向き合う」「調整する」「コントロールする」という言葉を使ってきた。しかしそれは、どこかでこれらを手強い相手、あるいは克服すべき敵として扱う響きを含んでいたかもしれない。
「性格」を「友人」と呼び直すことで、その関係性はまったく違う質感を帯びる。友人とは、変えようとしたり、支配しようとしたりする相手ではない。その人らしさを認め、時に困った癖に苦笑いしながらも、共に長い時間を過ごしていく相手だ。
コントロールするというのも、友人に対しては支配することではなく、その人をよく知り、時に頼り、時にたしなめながら、共に歩んでいくということだろう。虚栄心も、優越性の追求も、自分を困らせることもあれば、時に自分を動かす力にもなってきた、長年の付き合いのある存在なのだと思う。
最後に、この問いをあえて「これからの課題」として、結論づけずに開いたままにしておきたい。
目的とは、完了を目指すものではなく、永久に未了のまま、次を生み続けるものである。性格という友人との付き合いも、一日で「わかった」と閉じるものではなく、これからも、生きている限り続いていく関係なのだと思う。