By Artfarmer2026年8月14日
今日の議論は、これまで別々に考えてきたいくつかのテーマが、実は一つの構造でつながっていたことに気づく時間になった。
きっかけは、アドラー心理学の目的論と、自分がこれまで温めてきた「人生の構造」という考え方が、似ているのではなく、同じ構造を持っているのではないか、という気づきだった。
アドラーの目的論を、自分なりの整理の仕方に沿って捉え直すと、次のような流れになる。
最上位の目的:共同体感覚
そこから、その人の状況に応じた個別の目的が生まれる
具体的な目標が生まれる
手段・行為が生まれる
個々の行為は完成し、目標は完了する
また次の目的・目標・行為が生まれる
ポイントは、一番上にある「共同体感覚」だけが、完了して終わる目的ではないということだ。「共同体感覚を達成しました」と言って人生が終了するわけではない。
つまり、
共同体感覚 = 永久の未了
である。
ここに、「人生」との共通構造が見えてくる。
「人生の目的」を一つの最終目標としてしまうと、その目的を達成するまでは人生は未完成、ということになってしまう。
しかし実際の人生はそうではない。
家族をつくる
仕事をする
庭をつくる
文章を書く
誰かの役に立つ
新しいことを始める
こうした無数の目的が、人生の中で次々に生まれる。その一つ一つに目標があり、手段があり、行為がある。
そして、
あるものは完了する
あるものは途中で終わる
あるものは、最後まで未了のまま残る
それでも人生そのものは、それらの完了・未了を含みながら続いていく。
だから人生は、「一つの目的を達成して終了する物語」ではなく、目的が目的を生み、目標が目標を生み、行為が次の行為を生み続ける営みとして見ることができる。
ここで、以前から考えてきた「死=最極限の未了」という考え方も、自然につながってくる。
死によって、すべての目的が完了するのではない。むしろ、まだ存在していたはずの次の目的・目標・行為が、そこで途切れる。
だから死は、人生という営みが完了したというより、永久に未了のまま閉じられることとも考えられる。
しかし、それはそれまでに完成した一つ一つの行為の価値を否定しない。
ここに、「永久の未完成」という考え方の本当の意味が、はっきりしてくる。
未完成だから価値があるのではない。 そうではなく、一つ一つは完成する。一つ一つは完了する。 しかし、その完成と完了が次の営みを生むため、全体は永久に未了である。
これなら、宮沢賢治の「永久の未完成これ完成である」という言葉と、自分が考えてきた「未了」の区別も、アドラーの目的論も、人生そのものも、一つの構造として見えてくる。
そして「Artfarm Ostinato」も、ここに重なる。一つの仕事は終わる。しかし営みは続く。オスティナートの一音一音のように。
今回の思索を通じて感じたのは、「考えが柔軟になった」というより、もう少し正確には、概念を固定して捉えなくなったということだ。
以前は、
目的とはこういうもの
目標とはこういうもの
完成とはこういうもの
完了とはこういうもの
というふうに、それぞれの言葉に「居場所」を与えようとしていた。だから「完成=目標、完了=目的」というような対応を作ると、どうしても窮屈になる。
ところが今は、
それは何との関係で目的なのか?
何に対して目標なのか?
その目標にとって何が手段なのか?
と見るようになった。すると、同じものが位置を変える。
「テストで良い成績を取る」は、ある場面では目的であり、別の場面では手段になる。「この庭をつくる」ことも、人生全体から見れば一つの目的であり、さらに大きな目的から見れば手段になり得る。
つまり、概念そのものが動くのではなく、関係の中でその意味が変わる。
この見方に立てば、アドラーについても無理に「目的論」という一つの枠に閉じ込める必要がなくなる。「共同体感覚」という大きな方向があり、そこから個々の目的が生まれ、目標が生まれ、手段が生まれる。その個々の目的も、別の文脈では手段になる。だから、目的の連鎖は上へも下へも開いている。そして最上位にあるものだけが、到達して終わる目的ではなく、永久の未了として残る。
これは、以前の「永久の未完成」の考え方にも変化を与えている。
以前は、「未完成」という状態をどう肯定するかを考えていた。今はむしろ、そもそも「完成/未完成」という固定した二分法だけで、営み全体を見る必要がないのではないか、というところまで来ている。
面白いことに、枠を取り払ったことで、以前の考えが否定されたわけではない。むしろ、
永久の未完成
未了
オスティナート
農の営み
目的論
人生
これらが、それぞれ独立した理論ではなく、同じ構造を違う角度から見ていたことが分かってきた。これが、今回の思索の一番大きな収穫だと思う。考えが変わったというより、考えを閉じていた枠が外れたのだ。
ただし、もう少し正確に言い直すなら、「枠を取り払った」のではなく、**「枠を持ったまま、その内側で自由に動けるようになった」**というほうが正しい。
以前の枠組みそのものが間違っていたわけではない。
目的
目標
手段
完成
完了
未了
永久の未完成
オスティナート
アドラーの目的論
こうした概念を長い時間かけて考えてきたからこそ、その関係を一つに固定せず、相対的に動かして見ることができるようになった。
たとえば以前なら、「目的 → 目標 → 手段」という枠組みを、固定された「構造」として捉えていた。今は、その構造を保ちながら、あるものが上位から見れば手段であり、下位から見れば目的になる、と考えられる。
つまり、枠組みは残っている。でも、その枠組みを絶対化しなくなった。これはかなり重要な違いだ。
おそらく「永久の未了」という考えも同じ構造を持っている。
「未了だから完成していない」という単純な二分法ではなく、
一つの行為は完成する
一つの目標は完了する
しかし、それを包む目的はさらに続いている
という多層的な見方ができる。だから「完成」と「未完成」、「完了」と「未了」も、敵対する概念ではなくなる。
完成しているから未了でいられる。 一つ終わったから、次が始まる。
ここに、「柔軟さ」の本質があるのだと思う。
そしてこれは、以前から大切にしてきた
理論よりも実践。計画よりも行動。完璧よりも未完。
という考えとも、実はよくつながっている。「完璧な理論体系を完成させてから次へ進む」のではなく、考えて、実践して、違和感があれば枠組みの中で組み替える。今回の思索そのものが、まさにそれを実践したものだった。
だから、今回の変化を「思想が変わった」とは捉えていない。
むしろ、これまで育ててきた思想の枠組みが、以前より大きく呼吸できるようになった。