■黒沢尻宿
鬼柳から和賀川を越えるとすぐに黒沢尻宿である。ここは現在の北上市中心部。黒沢尻宿は宿場ではなくいわゆる間宿(あいのしゅく)だが、舟運の
隆盛により発展し本陣も備えていた。
この本陣は「鍵屋」と呼ばれ商店街の中心部にあったという。この場所は松屋呉服店の場所というが、松屋呉服店は確か閉店し解体したと思う(記憶に自信が無いが)。と思ったが、さくら野百貨店の向かいで好評営業中との事(危うく営業妨害をするところでした)。
なお、脇本陣は北上信用金庫本店と松村時計店で、柱標もあるようだ。
■黒沢尻河岸
和賀地方は盛岡藩内の穀倉地帯に位置しており、黒沢尻の河岸(商港)は領内最大だった。米350俵積みのひらた船が60艘配置されており、藩米はここから船で約150キロ下流の石巻へ運ばれた。日数は下りは3日、上りは10日。
そのほか黒沢尻河岸には100俵積みの船が18艘と民間の商船が45艘が所属しており、造船所もあり20人の船大工が働いていたという。
北上展勝地の対岸には河岸跡の岸壁のようなものが残っている。詳しくは調査していないのだが、この河岸跡は復元かもしれない。護岸工事も行われただろうし、川の流れでそのままでは長くは持たないだろう。
黒沢尻川岸に藩倉と造船所が置かれた。緩やかな広く深い北上川は黒沢尻までで、立花、黒岩、二子に至ると大船は身動き出来なくなるためである。
そのため、この地に船大工が集まり、問屋、茶屋、宿場が続々と立ち並んだ。
陸路黒沢尻に運ばれた物資は、一度お倉入りし、盛岡方面から船で来た分も積み替えをした。盛岡に十三里、石巻に三十里の距離である。七十石から百五十石積みのひらた舟などが八十三そうもひしめく賑わいだったという。
藩内の交流は、盛岡に小舟でのぼり4日、下り1日、遠野には駄馬、横手には横川目まで駄馬、それ以西は背子によって運ばれたという。
慶長九年、黒佐尻の町割りが始まり、7軒ずつ両側に配置して最初に本町が出来た。万治三(1660)年には新町、続いて諏訪町、新穀町が出来た。
本陣は鍵屋、脇本陣は新町の湊屋(湊屋ガソリン店)、本町の井筒屋(電報電話局)にあったが、本陣といっても、参勤交代以外は普通の宿屋になっていた。
新穀町は茶屋町で和賀川べりにはだんご屋があった。
勤王の志士とうたわれた目時隆之進が明治2年に鍵屋で自刃している。また、高山彦九郎、吉田松陰も宿泊したという。
明治天皇御巡幸の際、鍵屋を避けて井筒屋で昼食を取られているが、目時隆之進の影響もあったかもしれない。
いうずれにせよ、鬼柳に関所と宿場があり、北上川の舟運港に問屋と宿場あり、また、藩道沿いに本陣がある、2kmのエリアに3つの宿場を設けていたのは珍しい。
■諏訪神社
社伝によると大同二(807)年、坂上田村麻呂が桓武天皇の勅命により東征した折、信濃国諏訪大社建御名方命の御分霊などを勧請し建立されたと云われている。
坂上田村麻呂は至る所に出現するため史実かどうかは定かではない。