白石城
「写真提供:宮城県観光課」
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(しろいししゅく)
■白石宿
白石は城下町であるが、「白石本郷」と呼ばれ郡奉行管轄の村扱いだった。ただし人口は多く、安永六年には家数207軒。村居住は5軒で残りは町居住。城下の武士は別カウントで566軒あった。宿場の設立時期は不明。
本町、中町、長町、亘理町、短ヶ町、新町の六町で構成され、六町ともそれぞれ伝馬役を負担していた。
つまり、城下町と宿場町が一体となり、庶民は殆ど農業ではなく町場に住んで宿場関連業務に携わっていた。
城の北側の沢淵川は外堀も兼ね、片倉家家臣の武家屋敷があった。中でも旧小関家は宮城県指定有形文化財に指定されている。
武家屋敷(旧小関家)。
■白石城
白石市の中心部にある平山城で、益岡公園にある。
戦国末期には会津の上杉景勝の支城だった。関が原前に伊達政宗はこの城を攻め、関が原後伊達領となった。江戸時代この城を守ったのは片倉小十郎景綱で家臣でありながら一国一城の主と認められていた。伊達藩では大身の家臣の領地支配を認めており、ちょうど徳川幕府の体制を縮小したような形だった。
時代は下り幕末の戊辰戦争時には奥羽列藩同盟の拠点として奥羽越公議府が置かれ諸藩の代表がここに集まり、奥羽越列藩同盟が結ばれる。
明治に入ると短期の南部家の知事時代をはさみ、その後按察府という明治政府の広域行政府が置かれた。
片倉家は、開拓費用に充てるため白石城の売却を申請し、城は陸軍省、大蔵省へと管轄が移り、ついに大蔵省より明治7年に民間に払い下げ処分となり以後随時解体された。
平成7年に三階櫓(天守閣)と大手門が復元されている。
武家屋敷通。
■白石宿
白石市内を通る旧国道が奥州道中。白石中学校へ向かう交差点を右折する。この交差点に明治22年の道標があり、英文付きの珍しいものだが今は左折する白石中学校正門前に移設されている。左折した道は米沢に向かう米沢街道だ。
交差点を曲がるとやがて左折し中心商店街を通る。この仲町通りを突き当たると左折。新町で右折し堤防で更に右折。堤防沿いに進み、白石大橋手前で舟渡しだった。
■白石と南部藩
戊辰戦争では伊達藩と共に南部藩も破れ、「賊軍」となってしまったが、戦後南部氏は盛岡を取り上げられ、明治2年に白石藩知事として白石に移封された。やがて、盛岡への復帰運動が起き、盛岡を回復したため、白石居住は短期間に留まった。
武家屋敷平面図。
■武家屋敷(旧小関家)
後小路(うしろこうじ)は白石城の北、三の丸の外堀にあたる沢端川に面した町並み。ここに白石城下のたたずまいを残す武家屋敷通りのうち一軒を解体修理して一般に公開している。
これは武家屋敷(旧小関家)と呼ばれている。後小路南側東端に所在し、宝暦十一(1761)年の白石城下絵図に「小関右衛門七」とある。
平成3年(1992)、主屋・門・塀が小関家から白石市に寄付されたもの。
解体時に発見された「享保十五年2月12日」(1730)の墨書によって、260余年前の古建築であることが明らかになっている。
その平面形状、架構手法とも極めて素朴、古式で、仙台藩の250年を経た古民家のそれと殆ど異なるものがない。農民住宅を素地として、次第に武士住宅としての体裁を整えてくる過渡的形態を示すとともに、創建年代の明らかな貴重な遺構である。[白石城HP参照]
■現在の白石
実際に行ってみた。武家屋敷は解体修理されたもので綺麗な状態。場所は白石城北側。駐車場もある。復元建物自体は各地では良く見掛けるが、前面の水路が特徴的。
白石城自体は実は今回は遠くから眺めたのみ。木造で復元されたということで見てみたかったのだが、時間切れで断念。白石以南の一里塚探索でまた来ると思うのでその時じっくり見てみたい。