【写真】奥州道中 [2503]
たかしみずいちりづかあと
高清水一里塚跡
現況;残っていない
0910写真追加 2503加筆修正
【写真】奥州道中 [2503]
高清水台町付近が所在地との情報もあるが、高清水宿南入り口が塚所在地だったようだ。いずれにせよ塚の痕跡は残っていないようである。
小山田川を越えたところに龍泉寺跡があり、付近に鳥居や石碑がある。この付近を一里塚跡としておく。
【写真】奥州道中 [0910]
高清水宿の現在はちょっとした集落という趣。栄えている様子は無いが、栗原市高清水総合支所や善光寺があり、かつては栄えていた雰囲気はある。
タクシーの営業所があるくらい、と言えば雰囲気が伝わるだろうか。
やがて国道4号線に合流するが、すぐに右折。八壁一里塚の位置も分かっていないが、その先に奥州街道旧道がある。
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 [2412]
【写真】奥州道中 高清水影の沢付近[2412]
【写真】奥州道中 高清水影の沢付近 [2412]
【写真】クロード・デリュエ『支倉常長像』[仙台市博物館蔵;wikipedia]
江戸時代初期の仙台藩士。伊達政宗の家臣。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。幼名は与市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ[ウイキペディア]。
いろいろ謎も多いが、貿易のために幕府の了解も得てヨーロッパに渡ったが日本のキリスト教環境が悪化し、扱いに困る存在になってしまったようだ。帰国後は余り目立たず生涯を終える。
【写真】伊達政宗像。仙台から移設された。「写真提供:宮城県観光課」
高清水から県道166号で西に9kmほど、または、古川から国道47号で北上すると岩出山に至る。ここには出羽街道と上街道の追分である天王寺追分がある。岩出山城は天正十九年に伊達政宗が米沢から城を移し、慶長八年に仙台に移るまでの十二年間居住した地である。
岩出山はかつて岩手沢と呼ばれており、推古天皇の頃(593)には国内で4か所に建立された四天王寺のひとつが建てられ、前九年合戦の折には源義家が当地の鍋倉山八幡神社に戦勝祈願するなど古くから重要な地域だった。
中世には大崎氏の所領で、家臣の氏家弾正が岩手沢城を築く。だが、大崎氏は豊臣秀吉による奥州仕置きにより改易となる。不満の残る大崎氏は伊達政宗の扇動もあってか葛西氏など共に大一揆を起こし、徳川家康や伊達政宗が鎮圧にあたる。
この時、岩出山にある実相寺には徳川家康が40日間滞在したとされ、後に家康から500石の御朱印地の寄進を受けている。
一揆制圧後、関与を疑われた伊達政宗が岩手沢へ領地替えとなり、それに先立ち家康の家臣榊原康政が岩手沢城を改築し政宗を迎え入れている。
政宗は岩手沢を岩出山に改名し、会津若松や米沢(山形県米沢市)から多くの寺院を呼び寄せ城下町建設に精を出し十二年間居城とする。
関ヶ原の戦い後の慶長八年(1603)には政宗の仙台開府に伴い多くの寺院は仙台へ移転するが、四男宗泰が1万5千石で仙台藩支藩として岩出山を治める。
一国一城令により岩出山城は要害となるが、有備館での教育や、都冷泉家より御輿入れがなされると回遊式池泉庭園などを造り、京文化や地場産業などの育成に努め、現在も「小京都」の趣を残している。
なお、岩出山伊達氏は明治時代には北海道へ移転し、開拓を成功させている。