【写真;仙台市泉区ショッピング街「写真提供:宮城県観光課」
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[0907 仙台城下から七北田宿まで 加筆]
[0910 更に加筆]
■仙台城下から七北田宿まで
仙台城下を出ると堤町からほぼ現在の旧国道4号線に沿って進む。七北田の手前には仙台藩の刑場があった。
県道22号線はすっかり広い道路となり街道の面影は全く無い。ただ、途中右折し八乙女駅下を通り、七北田へ向かうと道路も2車線となり街道筋がイメージ出来るようになって来る。国道4号線バイパスまでは少しずつ標高を上げていく。[0907]
南口は絵図(奥州仙台領街道絵図)によると市名坂の現・善正寺前付近
【写真;[W]地下鉄南北線 八乙女駅】
■七北田(ななきた)宿
仙台より北最初の宿場町。古い建物が残っている。本陣、制札場、馬継場があったというが残っていない。町立は元和九(1623)年。安永三年家数は96、うち伝馬役は59軒。また、南に七北田新町があり60件が七北田宿で伝馬役を負担していた。
町屋敷の間口は5~8間、奥行25間200坪が普通だが、伝馬役の屋敷は75間の奥行きで600坪の敷地に馬屋を配置していた。これに二反歩の水田が付属するのが一般的で、これを百間屋敷と呼んでいたという。
伊達藩では他の藩で言う代官所を検断と呼んでいた。七北田村で沼田姓を名乗った検断新三郎は先祖を「備前」と言い、葛西氏の一族で奥州仕置での没落後、慶長年間に北根村八乙女にやって来たという。
【写真;八乙女方向を望む】
伊達政宗は葛西大崎の遺臣を村の指導者に任用したが、備前もその一人。市名坂の「御霊明神社」は備前が元和五(1619)年同地に勧請したものと伝えられている。
同家は藩主・綱村、吉村の領内巡行の時寓所を務め「品替え百姓」となっている。
元の沼田家も新道が出来るまでは北根(市名坂高玉)に住んでおり、元和九(1623)年に七北田町屋敷に移住し肝入(村役人)と検断を兼務した古い家柄である。品替御百姓として検断新三郎の高祖父・重兵衛とあり、後の沼田家である。
検断新三郎の弟「飛騨」が市名坂に屋敷があり、彼の子孫は旅籠業(現七北田の郵便局辺り)を営み
「外人屋」と言って上級武士の宿屋を経営していた。その後に子孫は市名坂に移り検断役を勤めた。外人屋は一般的に本陣と呼ばれるものである。