33年ネット諸兄姉どの(2025.02.16)
超越神とpostーtruthと民主主義
トランプ大統領との初の首脳会談に臨んだ石破茂首相。トランプ氏を前に、大統領選期間中の暗殺未遂事件直後の写真について「歴史に残る一枚」として「大統領が、自分はこうして神様から選ばれたと確信したに違いないと思った」会談の冒頭、首相はトランプ氏が昨年 7月に演説中に銃撃された直後、星条旗を背に拳を突き上げる写真が話題になったことをこう評してみせた。
以下、世良正利著「日本人のパーソナリティー」(1963.8紀伊国屋新書p117-118)に語られた「超越神」である(これも終活で読んでいる)。
昨年、大河ドラマ「光る君」の中に、「祈祷」「雨乞い」「物忌み」や「陰陽師」が登場する。いまでも神社・仏閣への初詣・合格祈念なぞすたれていない。超越神への依存・依拠はよくわかる。彼は言う;「過去における、父祖の時代は、現在とくらべてはるかに大きく、超越神に依拠し、従属していた時代であった。行動者としての人をしりぞけ、人の運命をこの超越神にゆだねた、真実の行動者が超越神であるとした時代であった。
その場合、もちろん、この超越神には、現実の行動における成功と失敗を反映して、神と禍神(マガカミ)という益性、害性の両極があった。
ある結果が生ずることへの期待にもとづいて、人がなにかをしようとする。その場合、期待とうりの結果が実現すれば、「益性の神の加護」によるとみた。また、反対に、期待した結果が 実現せぬ場合、それを「害性の禍神の妨書」によって生じたものとみた。
言行における人の 肯定的側面や否定的側面の原因をもとめる場合も、同様に、この 原則に依存した。肯定的側面の背後には、益性の神が存在し、 また反対に、否定的側面の背後には、 害性の禍神が存在するとされた。
ところで、パ ーソナリティ構造の再構成、簡単にいいかえて人格の形成とは、ひっきょう、人の肯定的側面を拡大し、否定的側面を排除することにほかならぬ。
肯定・否定両側 の背後に、それぞれの超越神が存住 するとみるなら、その場への人格形成は、益の神性にさらに大きく座を与え、この神による害性の禍神の排除によって 達成されることとなる。悪口や悪態が、言語的手段に依存して 、パ ーソナリナイ 構造の再構成を期待したものであったといったが,なぜなら。それは、悪口や悪態が、このような益性の神による害性の禍神の排除という形式を具体的に表現するものとみられたからにほかならない。 相手方の否定的側面の排除を期待して、その相手になげつけられる悪ロや悪態には、益性の神の霊がやどるとされた。いわゆる「言霊信仰」である。 「新約聖書」における「ヨハネによる福音書」の冒頭に、「初めに言(ことば)があった。 言(ことば)は神であった。この言は初めに神とともにあった」と記されているが、人間の知恵は、洋の東西によって、大きく変化するものでないことを、わたしはここで考えざるをえない。
それから、もうひとつ、人格形成に有意味だとみた悪口や悪態の無責任放言性の問題は、その原因を、紹越神に依拠し、従属するものの責任感の欠如にあると考える。いわば、 旦那もつみの気安さが、 言葉の退択をかく安易ならしめた。したがって、超越神への依拠、従属をやめ、一人立ちした場合、人の否定的側面の指摘における言葉の選択は、慎重におこなわざるをえなくなる。しかし、このような、無責任な放言性をしりぞけた、 慎重に選択された言葉による、人格形成を期待しておこなう、人の否定的側而の指摘は、「批判」と呼ぶにふさわしいものであって、もはや、悪口や悪態とはいえまい。」(しかし、トランプの発言を聞いていると、こういった期待はできそうにもない。「言霊信仰」自体は、今日の日本でも、祝詞(のりと)や葬儀の読経に残っている。)
この後、世良は日本人のパーソナリティーについて自己否定性について論じている.
「わたは、つね,づね、過去の日木人の 行動の準則を「自己否定性」をだと主張している。(略)そして、この自己否定性には、「無常性」「無心性」という二つの側而がある。
行動の準則としての無常性とは、行動若における恒常性の欠如を意味している。ある目的をなしとげるべく行動するという場合 (白覚性という 、原則でつらぬかれた合目的性を特性とする行動形式 )、障害や困難に 直面したなら、その障害や困難をうちくだく行動者に自己を拡大しない。障害や 困難はばまれて、行動か停滞するときは、自己をしりぞけ、 自己を否定し、自己ならざる他の行動作にバトンを渡すことで、行動の 継続をはかろうとする。いわゆる継走万式によって、行動過程が展間されるのである(蛇に変身する安珍清姫伝説が引用されている)。
したがって、ここでは人間行動の社会性が、いわば「ヨコ」の連帯性の軽視として、それ故、逆に「タテ」のそれの重視として 具体的に表現されるようになる。つまり、共通の目的をなしとげようとする独走作相互間の連帯にではなく、共通の目的をなしとげようとする先走者、後走間の連帯に力点をおいた社会性だ。
さらに、行動の準則としての無心性について一言しよう 。無心性とは、自己が超越神 (やがては超越者、上位者にかわる )とともにあるものとする行動者の行動準則である。したがって、それは行動者の卑小意識に対応したものだ。行動者が , 己を卑小であるとみればみるほど、超越神への従属は強化され、反対に、卑小であるとみることが、すくなくなればすくなくなるほど、超越神への従属は弱化してくる(しかし、これは日本人だけの話ではない。トランプ信仰などは、これに類する話だろう)。
ある目的をなしとげるべく行動するという場合、行動者 (単数であれ複数であれ )が自己の独力だけで行助を遂行するいささかの自信ももちあわせないというなら、結局、自己をしりぞけ、自己を否定して、行動の代行を超越神に依頼し、自己の運命をこの超越神にゆだねざるをえないのではないか。このように、自己の連命を超越神にゆだねようとする卑小なる行動者の行動準則を無心性と呼んでおいたのである。」
わたしは、世良の「日本人のパーソナリティーについて自己否定論」は、すでに風化してしまっている。むしろ「無心性」などは、米国、ロシアなどに強くみられると思う。
そして、「超越神」そのものが、希薄化、衰退化して、人が超越神化しているステージに来ていると思う。 まさに、ヒットラーから始まり、トランプが超越神化している。ロシアでも、プーチンが超越神化している。
このような、超越神化する、大統領制というのが、本当に民主主義の実現にふさわしい制度であるか、どうか?
2.25朝日夕刊で藤井達夫(1973年生、東京科学大学リベラルアーツ研究教育院教授)は、ポスト・トゥルース(post-truth)、真実が見えなくなった政治について、「民主主義を守るべく、「くじ引き」による代表者の熟議を経た民意を現行の代表制度のもとでの政策決定に組み込む。ポスト・トゥルース的状況が深刻化する今こそ、そうした試みを真剣に検討すべきなのかもしれない。」という。現在のところ、大統領制よりも、イギリス・日本のよう議員内閣制が優れているのではないか? 無論、議院内閣制でも、安倍内閣のように、多数与党で、内閣人事局をつくったりして、安倍の超越神化を進めたが、体調を崩し、あちこちに傷を残したが、崩壊することになった。
「くじ引き」による代表者選出は、それこそ超越神への復帰、民主主義の崩壊を招くものではないか。諸兄姉は、どう考えるのか?
イチハタ
「世良 正利(せら まさとし、1918年2月8日 - 2008年7月31日)略歴;日本の心理学者、中央大学名誉教授。人格心理学、社会心理学専攻。ソビエト心理学、日本人論などを研究した。
広島県生まれ。1942年東京帝国大学文学部心理学科卒業。海軍技術研究所、東京女子経済専門学校勤務を経て、中央大学文学部助教授、教授。1979年度から1984年度まで同大学人文科学研究所長[2]。1989年定年退任、名誉教授。2008年7月31日没没。(Wikipedia)」