33年ネット諸兄姉どの(2025.01.05)
朝日新聞朝刊2024.12.31 「国家と財政」をよむ。
「膨らむ借金 許した先は」
「百年
未来への歴史
デモクラシーと戦争
世に踊る「財務省解体論」(ネットでは騒ぎになっている。)
我が国の我が国債務GDP比217.4%
★前段;「 7兆〜 8兆円の税収減をどう穴埋めするのか」「富裕層ほど恩恵が大きいのではないか」年末の税改正論議をめぐる国民民主党の記者会見。提唱する所得税の課税最低ラインの引き上げに疑問が呈されると、玉木雄一代表は、「それ財務省の説明そのままですね」と切り捨てた(確か、基礎控除1万円上げれば、500億円というのがその根拠で、どうしてそうなるのか質問しているが回答はないということであった。根拠がはっきりしないことを根拠とするほうが全くおかしい。)ユューチューブには、会見のやりとりについて、「完全論破」「圧勝」といつた 投稿が相次いだ。
国民民主と主張は大きく異なるれいわ新選組も、財務省を敵視する姿勢では一致する。れいわの高井崇志幹事長は、「政権交代したら、真っ先に財務省を解体する」と公言する。
財政均衡主義を掲げる財務省は、「カルト教団化」している。その教義を守る限り、国民生活は困窮化する一方になる。 経済アナリストの森永卓郎氏が昨年出版した「ザイム真理教」は、こうした内容が話題となり、21万部超のベストセラーになっている。財務省の公式 X(旧ツイツター )あてには、「国民の敵。いつか罰しなければなりません」といった書き込みが相次ぐ。(この朝刊の下に、この本の大きな広告が出ている。)
2022年末に防衛増税を決めた直後には、主計局長だった新川浩嗣氏の殺害予告電話が財務省にあった。心労がたたってか、新川氏は一時耳が聞こえづらくなった。省内の士気の低下は否めない。
ある中堅幹部は個人の S N Sに、「昨日今日は屈辱的なことが多かったです」と書き込んだ。「複雑な気分のときの一曲」に、中島みゆきの「世情」を挙げた。♪世の中はいつも変わっているから頑固者だけが悲しい思いをする 財務省の前身の旧大蔵省は、予算編成権を通じて霞が関をコントロールし、政権の政治日程をも描いてきた。だが、「われ富士山、ほかは並びの山」を自任した存在感は過去のことだ。
1995年を境に生産年齢人口が減少に転じると、日本の低成長が当たり前になった。
借金が 雪だるま式に膨らむのを抑えようと、歳出カットと増税を唱える財務省は、経済低迷の責任を問われ、批判の矢面に立たされた。
戦前も大蔵省の権威が地に落ちていたのは同じだ。積極財政で世界恐慌による不況から抜け出し財政引き締めに転じようとすると、軍部や議会ら猛反発を食らい、高橋是清蔵相は二・二六事件で凶弾に倒れた。「大蔵当局の猛省を促す』。1934年9月8日付の読売新聞には、こんな小見出しのついた右派論客の寄稿が載った。「有力なる味方は皆無」と振り返った。付の読売新聞には、こんな小見出しのついた右派論客の寄稿が載った。 36年 2月の月刊誌「維新」では、平凡社の創業者下中弥三郎が「高橋蔵相の財政観は時代錯誤の甚だしいものである」と批判した。大蔵省幹部を歴任した賀屋興宣は当時の様子を「一言でいえば四面楚歌」「有力なる味方は皆無」と振り返った。
軍部による予算膨張の最後の歯止め役を失った日本は、破局の戦争への道をひた走ることになる。当時の大蔵省批判を振り返ると、その論理と財政の状況はいまと酷似している。 (大日向寛文)
P2に「財政規律の哲学 四面楚歌」に続く、要約を記す。
★後段;安倍晋三のブレーンと云う本田悦朗(1955年(S30年)生、1998年東大法学部卒、大蔵省銀行局総務課配属、元財務官僚、経済学者)は「政治の債務は国民の資産で、金額はほとんど意味がない」と論じている。そのほかの経済学者でこの問題に触れた人はいない。このページの中開きには
「公債のないところで戦争はない」
と大きく書いてある。
いまの積極財政の中身は、主に国民への現金給付や半導体への補助金などで、軍事予算が中心だった戰前とは違う。自衛官が暴走し、政治を支配しているわけでもない。ただ、財政規律が崩壊するなかで、たがが外れて防衛予算が膨張する恐れがある。実際、その兆しはすでにあると指摘している。
民間エコノミストの草分けとして知られる高橋亀吉は、世論は、大蔵省が国民生活への影響を考慮せずに、ただ「歳出を締めさえすればよい」と考えていると不信感を抱いていた。大蔵省が警告するインフレも起こらず、「イ・ソップ物語の『オオカミ来いる』に似た影響を起こすに至 った」という。 そのうえで、「これらの失策は、恐らく今後において も、財政当局の常に陥りやすい性格の失策である」と述べた。
財務省は世論を敵に回す「失策」を繰り返しているようにみえる。
蔵相や大として戦時財政を担った賀屋興宣は戰後、「更に大きな国家の全局からの考え方があったのである。それは、戦争の回避・平和の維持である(全く同感である)」と振り返っている。高橋蔵相は、日本が軍事予算を増やせば、米国とソ連を巻き込んだ軍拡競争になり、国防力がかえって低下すると考えていたと賀屋は言う。一方で、いまの財務官僚にはこうした大局的な発想は乏しいと書く。
結局、目先の帳尻合わせばかりにとらわれて財政運営の重要な哲学を放棄した結果、将来に大きな禍根を残した可能性があると結論ずる?
官僚の権威は、90年代の大蔵省接待汚職などの不祥事で失墜し政権主導が定着した。小選挙区制の導入で、政治家が国民の耳に痛い主張を避ける傾向が強まると財政規律は崩壊した。
元老や官僚には、民主的な正当性はない。議会が予算を決める姿は、論理的な帰結だ(よくわからない説明だ、議会にだって哲学はあるだろう)。一方で、借金のつけを回される将来世代は、選挙権を持っていない。いまの世代が選んだ議員が多数決で決めた借金が、将来世代に役立つとも限らない(現世代が生き延びなければ、次世代もない)。
民主的な制度のもとでいかに財政の持続可能性を保つのか。その仕組みを見つける難題を、私たちは突きつけられている。 (大日向寛文 )
GDP比217.4%(こんな国は、先進国ではない。せいぜい100%位である。)
「公債のないところで戦争はない」というが、「いまの積極財政の中身は、主に国民への現金給付や半導体への補助金などで、軍事予算が中心だった戰前とは違う。」と書いている。戦時国債なんかまったく発行できないだろう。ということは平和しかないのではないか。
今後、この途を進めば、破局に至るとみているが、もし海外でそう見ているとすれば、円は大暴落しても当然と思われるが、そうならない。摩訶不思議である。