33年ネット諸兄姉どの(2024.04.14)
わたしの書庫の中に、「日本の精神的風土」(飯島浩二著、岩波新書S27年(1951年)初版、以降S40年まで18版を数えた古書がある。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発したさなかにかかれただろう。日本の後進性を指摘した著作である。この著作を読みながら、今後の日本の方向を探る。
彼は書く「昭和21年5月3日に開かれた極東国際軍事裁判で、開廷劈頭ウエッブ裁判長が行った宣言の中に『各被告は …過去十余年の間、即ち日本の國運隆々としていた当時、 指導的地位を占めていたものばかりで』云々とあった。だが、国内的にはまさにこの十余年なるものものこそ、われわれの間に、開国以來大いに 見るべきもののあった近代化の成果にもかかわらず、いっこう近代らしくない意識形態が色黒くのこされていたことを、つくづく思い知らされた時期であった。それを非常時、戰時の 強圧政治の結果だというなら、その強圧の加え方が問題なのであり、その迎え方が問題なのである。またそれが聚迫した情勢の下にわれわれが己れを失った姿であったのなら、その失い方が問題なのであり、のぼせ上っていたときに露呈された地金の質が問題なのである。これだけは誰から借りたりものでもない。」続けて「わが國の社会科学者たちの研究業績を實によく渉猟し、 咀嚼して、随時これを他國の例と比校考量しながらまとめ上げている點、われわれ日本人からみても大いに敬服すべき「日木における近代国家の 成立」の著者ハ ーバ ート・ノーマン氏は、 「日本の中世的な過去に遡る家父長的な 人情味のある (伝統に言及して、次のように 記している。『このような古い 日本の精神的遺産は、今日の 日本(ノーマン 氏の著作が出版されたのは1940年 ) を悩ましつづけている陰気な亡霊のごとくに考える人があるかも知れない。しかしこの場合にも、変則的 もの、偶然的なもの、時代 遅れなものが、いい目的に 向けかえられ、弱點 が長所に作り変えられたのである。即ち、工業的な生活の緊張と街撃 、その相反する利害の醜い衝突が、旧い習慣的な物の見方によって、中和されてきた。個人主義にはそれとしての艮所美點があり、酬いはある。しかしながら、紡績工場に例らきにいっている娘の停かな稼ぎによって、辛うじて絆が断たたれずにいるような小農の宗族においては話がちがう。或は、また古い封建的な党派的団結意識は、全国民を包括するまでに建て直されているので、重大な國家的危機という事態に臨んでは、ムッソリーニやヒット ラ—のごときが安つぼい芝居がかりで大童になって到底及ぴもつかぬほど効果的にナシナル・ユニティ (戦時中の流行語に翻訳すれば、一億一心 )の精神を 鍛え上げることびできろ。」今日のわれわれなら、『封建的な家族主義や 党派的結合の倫理にはそれとしての長所・美点があり、それに身をゆだねるだけの代償はあるであろう、しかしながら、 旧殻を脱ぎ棄てて民主化を実現しなければ左らぬ社会においては話がちがう』と記したくだりが、ノーマン氏の場合では、個人主義は結構にはちがいないけれども、 日本の小農の家族にとっては個人主義は細々ながらの 紐帯破壊の原理にしかなり得ない、といういたわるに似た言葉で述べられている。だがここでわれわれが、 得たり賢しと居坐ってしまって、わが國における封建的な土地制制度の改革 ,明治の改革のときに抑圧してしまった 農業革命を本式にやり直しをしていただくまでは、民主化はおあずけだというのでは、それこそ『話がちがう』 何故 なら、そうした他力本願的な日和見主義、 環境の圧力に抵抗しようとする 積極性の欠如、わが図の民主化の途上に横たわる最大の障碍として、反省され、糾弾されねばならぬところだからであり、いやしくも21世紀の人のメンタリティとして『変則的』なもの、『時代遅れ』なもの、そして短所•弱点の尤なるものだからである。(と痛烈に批判する)続けて社會的結合の形式として(テンニース=ドイツの社会学者の)ゲゼルシャフト(Gesellschaft) とゲマインシャフト(Gemeinschaft)の二つの観念を対立.させ、前者を特定の利益の 追究だけを媒介とし、また限界とした。 非人情で殺風景な社会関係とみ、後者を相互扶助的連帯的な、人間味豊かかた社会関係であるようにみる . 一つの重宝な公式は、ひところかなり愛用されていたようである。しかしながら、後者が例えば血族開係や同郷係、同業仲間的な開係のごとく、内部的には何ほどかの愛着を基礎としてをり、それ自体事実であるとしてもの利害の対立を抑制し調和する、一口にいえば『総親和』的な結合であることは事実であるとして、ひとたびその 対外的な 面についてみるならば、ゲマインシャフト 的社會集団は ーーその内的な縁故・愛着の 強さに比例的に --著しく冷淡であり、排他的•敵対的でさえあることが注目されなければならない。(戦時中、中国国民を人間扱いにしなかったことを想起したい)ゲゼルシャフトという観念の成立そのものがその 遍に起源をもっていると思われる近代的なな株式會社tや資木主義的な近代市民社会におけるような人的結合の形式にあっては、人と人との関係が機械的に合理化されている。そこでは各成員相互には特殊な緣故関係を前提することなしに、たがいに対等に相互の立場を尊重し合 うことができ、対立や競争は明かに規定の下に 行われることによって、同じく合理化されているとみることができ、これ反して、個々に .自然経済的な自立自足を原則としていた村落の生活や 血縁団体のごときを代表的な例として考えることのできるゲマインシャフト的た結社の 形式にあっては、他郷から入りこんできたもの、血のつながりのない ものは、あくまで 「他所者 」、 赤の他人、何處馬の骨かわからぬものである。 彼らは同類として承認され、儀礼的な、多くは親子の関係をかりるための擬制的な 手つづきを経るるのでなけれ旧来の社会秩序の中で彼の占むベき揚所というものを興えられない。(島国根性、地のモン、旅のモンという言葉をを想起されたい) さらに続けてフランスの碩学ポールアザール (翰林院(アカデミー・フランセーズ)会員、コレーヂ・ド・フフンスの教授 )に ヨーロッパの十七・八世紀の思想史を主題にした著書 1935年刊 )がある。彼はそれを次のような印象的な言葉で書き残している。
『何たる対照 、何たる急激な推移であろう 。権威が確保しようと心がける階層制、規律、秩序、生活を堅固に規制するもろもろの教義 、これが十七世紀の人々の愛好していたところのものであった。強制、権威、もろもろの教義、これが十八 世紀の人々やその 直接の後継者たちの嫌悪するところのものである。前者はキリスト 教的であり、そして後者は反キリスト教的、前者は神の法を信じ、そして後者自然法を信じている。不平等に分たれた社会に 安住している。あとの人々は平等をしか想わない。 (中略 )大多数のフランス人はボシュエ ( 十七世紀前半の著名な神学者)のごとくに考えていた、突如として、フランス人はヴォルテール(高橋安光先生はヴォルテール研究者であったことははじめて知った)のごとく考えるようになる。まさに革命である』。(飯島浩二は、日本での、「思考の大転換」をと主張している)しかし、山本七平は「機能集団」(日本資本主義の精神 S54、1974年Kappa Business 光文社)について云う「そして、全体的に見れば、機能集団は共同体に転化してはじめて機能しうるのであり、このことはまた、集団がなんらかの必要に応じて機能すれば、それはすぐさま共同体に転化することを意味しているであろう。そしてこれは旧日本軍にも現われている。いわば典型的な機能集団である軍隊が、内務班(軍隊の営内居住者のうち軍曹以下の下士官及び兵を以て組織された居住単位である)という形で共同体に転化してはじめて機能しえたという、その内実である。だがこれについては、以下にさらに解明を進めていこう。もちろんこのことは会社にもいえる。会社が機能すれば、そこに会社共同体を生ずるし、 会社を機能させるには、それを共同体にしなければならない。新入社員の採用試験 、(この4月によく放送される)入社式は、共同体加入のための資格審査であり、また通過儀礼である 。(米国においては)機能集団iへの契約なき参加は、彼らには想像できない。逆に、これがあるから、アメリカのチェーン・ストアなどの、「年問求人率250ハ ーセント」などという状態でも、組熾が機能しうるわけである。100パーセントで一年で全員が交代するわけだから、この率は平均四カ月ぐらいで全員が交替しているという憲味になる。日本の企業なら、とうていこの状態に耐えられまい。 これが可能なのは、契約に基づく莱務規定の内容が明確であり、各人はそれだけやれば上く、契約に明記されている以外には何の権利もないが、同時にその契約の範囲以上の義務も責任もない、という体制だからである。もちろん仕事は、単一作業である。何年それを 担当していようとそのままであリ、 年功に よる 自動的な昇進などはあり得ない 。 もし抜擢が あれば、そのときに契約が更攻さ れるわけで、その契約に基づいて、新しい業務規程と、その範囲での権限と権利と義務と責任が生ずるわけである。」と。更に、岩井克人は、「資本主義社会を語る」(1997年ちくま学芸文庫)で「家」と資本主義について、「ここで、わたしは日本の「家」制度に注目してみたいと思っているのです。最近、とくに経済学者のあいだでは、「家」などという伝統的な概念をもちだすことは極端にいやがられます。日本異質論をとなえるジャパン•バッシャ ―に塩を送ることになると思われるからでしょう (笑 )。しかしながら、わたしはやはり文化的な要因を無視することはできないと思っています。ただしここで、日本の大企業システムが江戸時代からの「家」制度をそのままひきつぐ前近代の遺物である、などと云おうおうと思っているのではありません。そうではなくて、 日本の歴史をながめてみると、この日本という社会に住んでいる人びとがなにか組織をつくりあげようとするときに、くりかえしくりか えしあらわれてくる思考のパ夕 ーンというか「文法」があることを認めざるをえない、と言いたいのです。そして、この組織形成の文法は、 たとえば江戸時代の商家と戦後 日本の大企業とに共通に見いだすことができる、と思っているのです。つまり、法人の代表権をもっている 社長や会長は、法人を人体にたとえれば、その頭や顔にあたる存在ということになるというわけです。いや、それだけではありません。わたしは、 日本の株式会社においては、たんに法律上の代表機関である社長:や会長だけでなく、上は重役から下は平社員まで、それぞれ 口や 目や 耳や 手足といった法人の機関としての役割を全それぞれ分担してはたしていると考えているのです。サラリ—マンとは、ヒトとなった法人の機関であり器官であるということです。 サラリーマン=法人機関説とでもいっておきましょう。しかしながら、ひとたび世界資本主義の舞台に入りますと、それは原則的にアングロサクソン的な個人の世界なのですね。法人はつねにヴェ ールであり、個人しか責任を取るこができない世界なのですね。そこでは、法人をヒトと認知するという考え方は、ほとんど説得力を持つことはないでしう。」という。それは現在のところバブルの制壊や景気の長期にわたる低迷という困難をかかえてはいるが、いつのか景気が反転したあかつきさには、ふたたびそれ本来の成長志向をとりもどすにちがいない。違いは、まさにこの資本主義という経済機構が、自由の理念と民主主義にもとづくいわゆる市民社会とは別物であると気がついたことにあるのである。1992年11月、日本の国会においていわゆる佐川急便問題をめぐる 議論が戦わされることになった。だが、テレビの静止両面を通してわたしたちが見ることになったのは、「自由」と 「 民主」を名のる政権政党の自由の理念とも民主主義ともまったく無縁な行動様式であり、「革新」を自称する在野政党の革新性からまったく縁遠い行動様式であった。じっさい、来る 日も来る日もあのようなものと鼻をつき合わせて過ごせば、もう幻想は不可能であろう。わたしたちの代議人の行動は、いうまでもなくわたしたら自身の反映である。わたしたちははじめて、じぶんたちがアジア的停滞(正確には日本的停滞というべきだろう)と欧米的成熟といったへ ーゲル的対立の 図式のいったいどちら側に 続しているかを理解するにいたったのである。いや、理解せざるをえなかったのである。岩井と柄谷行人(からたに・こうじん、1941.8.6生、日本の哲学者)と同書第六章での対話から。岩井 ;ぼくが、なぜこのようなかたちで、最近日本純粋資本主義論な 唱えているかいいますとすと、勿論事実認識として興味を覚えると 同時に、やはり、社会主義の崩壊は大きい。従来、日本社会批判には 二つの立場しかなかった。一つは、階級史観的な立場からのものですね。だが、この 立場は、完全に崩壊したといっていいと思います。そうすると残るのは、。(冒頭の飯島浩二も)大塚久雄、川島武宜、丸山眞男的な近代化論だったと思う。それはしかし、資本主義の発達とを同一視し、日本資本主義のゆがみをそのまま 市民社会と 未発達とみなして批判するというものだった。だが、戰後 日本の資本主義のめざましい発展は、この立場をも崩壊させてしまった。もし、日本の社会にたいしていま何か批判の視点をもてるとしたら、それは、資本主議とはそもそも法人を資本家にしてよいわけで、独立した個人によって支配される必要はないという認識から出発せざるをえない。それは、契約などとは関係ない贈与的開係にもとづいて運営されていたっていっこうにかまわない。日本の資本主義は、資本主義のもっとも純粋な形態を実現してしまっている。だが、 その発達は、独立した個人によって構成された 市民社会の成熟とは 区別しうる。いや、 逆にその発達を排除さえする傾向をもつ可能性がある。いま、 日本で 批判の拠点があるとしたら、 そういう市民社会の発達をめざす、18世紀的な啓蒙主義しかないんです。
柄谷;啓蒙主義しかないという岩井さんの考えに、ぼくは賛成です。
(なんと、個人主義の問題はヴォルテールに戻ってしまったのである。しかし、岩井は日本資本主義の発展には大きな期待をかけている。)2023.1.22(日)朝日新聞「資本主義 NEXT 会社は誰のために」で、久々に登場した岩井克人は「資本主義の修正法」として「最終的に株主利益にならずとも、会社ほ別の 「目的を持てる」という。岩井さんの論は明快で、次代の経済を考える土台になり得ますと聞き手の経済部次長の江渕崇は云っている。
イチハタ