33年ネット諸兄姉どの(2024.09.29)
9.14日(土))朝日朝刊に「アメリカ革命」(上村剛著、1988年生、関西学院大教授、中公新書)に対する東大教授前田健太郎の評がのっていた。
本書は「日本では、昔からアメリカは近代国家の模範像として理想化されてきたが、本書はそうした態度に一線を画す。その背景にあるのは、ポピュリズムに溺れる覇権国としてのアメリカの今日の状況だろう。
本書のキンドル版を読むと「1776年の独立宣言からリンカーンが、民主党の分裂も相まって大統領選に勝利すると、南部はこれに反発し連邦からの離脱を表明。かくして1861年から4年間に及ぶ内戦が勃発した。」この書は南北戦争終結1865年までを記した書である。
「南北戦争が終結してからわずか6年後、東洋の島国から使節団がやってきた。その名を岩倉使節団という。彼らはアメリカの多くのことがらを見聞したが、そのなかにはアメリカの政治体制、なかんずく連邦憲法の実態についても含まれていた。それを熱心に研究した木戸孝允は帰国後の1873年、憲法の重要性を新聞紙上で訴えている。国家の存亡は、憲法が優れているか否かにかかっている、というのが骨子となる主張だった。『フェデラリスト』を座右に置いた伊藤博文らによって明治憲法が制定、発布されたのは、それから16年後のことである。(同書)」
しかし、これで、かって「アメリカの夢は終わった」(D.Conde著、小原敬士訳(といってもアメリカでは出版されていなかったようだから日本で最初の訳出出版ということになる)1965年 岩波新書)を思い出した。勿論、この本はケネディ暗殺以後 ジョンソン大統領第一期、ベトナム戦争初期から第二期大統領選、保守党のバリー・ゴールドウォーター(元軍人でアリゾナ州選出の上院議員、右派)を大差で破った1964.11迄がかかれている。追記でコンデは1964.11の選挙後若干の補足を書いている。
★「アメリカの夢は終わった」
コンデの経済思想は、1930年代の恐慌は、これからも来るということに尽きる。これは従来のマルクス経済理論だろう。事実彼は共産主義者だったとう。しかし、現在に至るも恐慌は起きていない。
しかし、わたしが興味を持ったのは、彼の経済以外の政治分析である。アメリカの経済制度の「もっとも重大な」失敗は「1953年以降、景気循環の上昇期と下降期を通じての長期的かつ持続的な失業であった。」(大統領経済諮問)委員会は そのように付言した。失業問題を解決せず格差は増大し、共産主義排除に傾斜、共和党も民主党も右傾化していく状況である。1964年当時から現在、80年たっても、朝鮮戦争・ベトナム戦争のバックにある巨大国家になった中国を敵視する共和党・民主党、トランプを中心に右傾化する社会に似ている。
★第二次世界大戦後の政策転換
「第二次大戦の末期以降、アメリカの対外政策はつぎの二つの大構想にむすぴつけられていた。そのひとつは国連の枠内での米ソの協力というルーズベルトの構想であり、 もうひとつはハリ ー・トルーマンのとった封じこめ政策として具体化された。(「新時代と世界政策の破綻」 AP記者 ジョン・H ・ハイタワ— Jone H.Hightower '1964年4月26日 )
ここに、現代のもっとも車要な問題がいやになる位はっきりと暴露されており、そして、現在の危機の原因も示されている。この分析のなかで、ハイタワー氏は、「冷戦は「クレ・ムリンが世界の共産化にのりだし、それが西側を刺激して冷戦をひきおこした1947年にはじまった」と述べているが、氏の解釈に反対する意見もある。筆者などは、冷戦は1945年4月のルーズベルトの死後間もなく、ワシントンで開始され、同じ年の7月、ポツダム会談中に原子爆弾の実験がおこなわれたときに、完全に形を整えたと 確信している。ここに、アメリカの原爆外交の時代がはじまり、アメリカは原爆を武器として世界を思いのままに動かそうとするようになったのである。アメリカはヤルタ、カイロ、ポツダムという一連の会議のとりきめを破った。 アメリカがすでに講和を求めていた敗戰国日本にあえて原爆を投下した理由は、ソ連邦を原爆の効果でふるえあがらせ、アメリカ自らが主張する「指導権」を承認させようとしたからに他ならなかった。ハイタワ -氏と筆者の解釈のいずれをとるにしても、中心的な事実ルーズベルトの「大構想」は対ソ協調政策であり、平和共存政策であったということである。ハーディングやフーヴァ ー大統領が10年以上も拒みつづけてきたソ連邦の承認を実行したのは、ほかならぬ ルーズベルトであった。しかし、それと正反対の政策がトル ーマン大統傾によって 開始され、それがアイゼンハウアーにひきつがれた。「封じこめ」「対決」「巻きかえし」がそれである。(イチハタ注;現在でも、この方向は変わっていない。)
★史上最大の無駄遣い—相つぐ不正事件
トルーマン時代に、アメリカは1950年6月(25日)に始まった朝鮮の内戦にまきこまれたが、その後間もなく、勝利は不可能であることがはっきりしてきた。1951年7月10日、板門店で休戦会談が開始されたが、それはその後結論をみぬまま 数ヵ月もつづいた。この戦争はほとんどいたるところで不評判であったけれども、しかし、それはアメリカの企業にとっては、いままでにかってない大きなもうけ口となった。 たとえトルーマンが戰争の終結を望んだとしても、それは実行は不可能だった。というのは、1952年は大統領選挙の年であり、「宥和」「共産主義に弱腰」といったような非難が至るところの共和兌の演説会できかれたからである。1952年の夏、アイゼンハウアー将軍が共和党大統領候補に指名され、11月に当選した。
戰争をモスクワにまで 拡大しようとしたかどで、1951年4月、トル ーマンによって 解任されたマッカ—サ ーは、 共和党大会で指名を得ようとして失敗した。「アイク」が選挙に 勝利した大きな 理由は、どうしたらよいかみるために、自分で「朝鮮へゆく」こと を公約したからであった。 朝鮮戦争は、1952年11月のアイゼンハウアーの当選の16カ月も前にすでに軍事的には手詰まり状態にはいっていた。しかしその「脅威」は史上最大の無駄遣いの根拠として利用する必要があった。だから、このような大儲けの種がつきるまでは、 是非ともこの汚ない戦争を続行させることが必要だったわれ、「共産主義の脅威」というもっともらしい口実のもとに、アメリカのすペての主要な鉱山会社に儲けの多い契約がばちまかれたことを暴露した。サイミントン報告は物資を納入した会社が「非良心的な利益」をあげ、「攻府は莫大な損失をこうむった」ことを指摘した。これらの契約の多くは、1941-1945年の世界大戦中には必要であったが、しかし1952年当時の技術水準では時代遅れとな った物資にたいして与えられたものであった。 1952年の11月には水素爆弾の実験がおこなわれていた。 )同報告はつぎのように記している。「政府の貯蔵物のうちには、核戦争が起ったときに国家の生存や復興を助けるのに使用しうる物資はひとつもない。 .•••••現在の貯蔵物の多くは不要品である。
★マッカーサーの解任;同書では、マッカーサーの解任について以上のように触れてはいるが、もう少し補足する。
「トルーマンは(1951年)4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した。解任の理由は「国策問題について全面的で活発な討論を行うのは、我が民主主義の立憲主義に欠くことができないことであるが、軍司令官が法律ならびに憲法に規定された方式で出される政策と指令の支配をうけねばならぬということは、基本的問題である」とシビリアン・コントロール違反が直接の理由とされた。のちに「最長でも10日で戦勝できる」という構想を語った。その構想とは、戦後マッカーサーが語ったところによれば、満州に50個もの原爆を投下し中ソの空軍力を壊滅させた後、海兵隊と中国国民党軍合計50万名で中国軍の背後に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してきた第八軍と中朝軍を包囲殲滅、その後に日本海から黄海まで朝鮮半島を横断して放射性コバルトを散布し、中ソ軍の侵入を防ぐというもので、この戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てるとしていた。また、後年リッジウェイは「マッカーサーは、中国東北部の空軍基地と工業地帯を原爆と空爆で破壊した後は残りの工業地帯も破壊し、共産主義支配の打破を目指していた」「ソ連は参戦してこないと考えていたが、もし参戦して来たらソ連攻撃のための措置も取った」と推察している。この考えに基づきマッカーサーは、何度目になるかわからない原爆の前線への移送と使用許可をトルーマンに求めたが、トルーマンは返事を保留したという。」(以上はwebsiteから)
右派の宣伝文句によると、朝鮮戦争は、マッカーサーが「勝つことをゆるされなかった」戦争であって、そのような戦争は、アメリカの歴史上最初のものであった。マッカーサーは、トルーマン大統傾によって罷免されてアメリカに帰ったとき、あらゆる武器で北京やモスクワまでまで戰争をすすめることを望んでいたすペてのひとびとから歓呼して迎えられた。変化をおそれるものや、もはや問題にふさわしくない解決法(戦争)にしがみっくひとびとも、マッカ ーサ ーに拍手を送った。マッカーシー主義が生まれたのは、マッカーサ—の査問につづく熟っぽい雰囲気の中でのことであった。この関連ははっきりしている。マッカーサー将軍は、自分の勝利の構想が、反対派の外交官によって 裏切られたと主張した。そして、ジョー・マッカーシーがつぎのように 声明したのは、それから間もないことであった。「わたくしは、国務省の共産主義者の ・・・一覧表をここにもっています。」(補足;1950年2月9日である。)(同書p86-87)
1955年にマッカーサー将軍は、ロサンジェルスで、自分の銅像の前で演説をしたがその銅像にはつぎのような言葉が刻まれている。「戦争はは武器だけでは勝っことができない。なによりも精神力が、勝とうとする意思がなくてはならない。戦争には勝利に代るなにものもない。」
それ以後、この言葉は右翼のひとびとのウオア・クライ(war-cry)となった。しかし、かれの仲間と、ヴァージニア州ノ-フォルドにあるかれの神殿(補足;マッカーサー記念館、夫妻の墓もある)は、たしかに、この「老兵」が死んだのではなく、なお極右の理論家、聖人、標語の源として生きていることの 証明となるような運命を担っているようにおもわれる。バリー・ゴ ールドウォ—ター がはじめてアメリカの上院議員に 出されたのは、1952年、朝鮮戦争当時のことであった。そして1964年には、かれの選挙戦の文書は、平和の問題にかんするマッカーサーの言葉を引用した。「たしかに、平和 ・・しかも我慢ができる平和は共産主義に勝ってから來なければならない。われわれは14年間、そのような不愉快な専実をかくそうとしてきた。」 (14年前というのは 1950年のことであり、朝鮮戦争のことであった。 )マッカーサ—は「共産主義に勝つ」ことをゆるされなかった。おそらく、これらの言葉は、もう一度朝鮮戦争をやり、 そして「勝た」ねばならないということを意味するものであろう。ゴ ールドウォータ ー上院議員はつけ加えていう。「共和党は、冷戦では、 単ににそれを終らせるだけでなく、勝利をうることこそがわれわれの目標であることを声明すペきである。」(同書p87ー89)
★ベトナム帝国(阮朝(げんちょう))の終焉
バーナード・ B・フォ—ル著「ふたつのヴ ェトナム」 (Bernard B.Fall,The Two Vietnums)には70年に及ぶヴェトナム人の抗仏闘争史が描かれている
過去、2000年、幾たびかの大敵とたたかった。一千年前に中国の朝貢国になったが、独立は維持していた。そこに欧州人が到来した。1858年8月31日スペイン・フランス連合艦隊がツランに錨をおろした。翌日、同港を攻撃したが、軽微な抵抗しか受けなかった。翌年2月18日、サイゴン(当時は原野で、今は立派なホー・チ・ミン市になっている。)を占領した。
フランスのベトナムにおける行動はすべて中国の義勇兵に支援されたベトナム人愛国者の反撃を受けた。フランス人は彼らを“海賊”と呼んだが、戰いっぶりは全く巧みであった。
ベトナムがフランス保護下に入ったのは1884年6月6日である。中国はベトナムでの主権を再確認して同条約に抗議し、トンキン国境付近の中国軍は仏軍を攻撃した。仏海軍は 台湾に上陸、福州を爆撃、渉湖島を占領した。1885年中国は抵抗をあきらめ、フランスのべトナムに対する宋主権を認める天津条約に調印した。
これによって理論的には問題は解決したが、実際上の占領とはいえなかった。1884年若い皇帝ハム・ギが即位し、内廷をベトナム人学者でかためてフランスと事を構え、1888年捕われの身となった。最後のベトナム人指導者デ・タムは紅河デルタの北にたてこもったが、仲間に裏切られた。北べトナムの共産主義者は彼を国民の英雄にまつり上げた。いまやフランス統治下の50年の歴史がはじまる。一千年にわたる中国支配に比較すれだが、べトナムの将来に与える影響力では、この五十年は一千年に値する宿命をそのなかにはらんでいた。(バーナード・ B・フォ—ル著「ふたつのヴ ェトナム」からの引用
【★1945年9月2日ベトナム民主共和国(北ベトナム)成立(補足;天津条約から60年)(本稿は、北ベトナム成立に関して補足した)
フランスの植民地(フランス領インドシナ、仏印)の一部であったベトナムには、1940年9月と1941年7月に日本軍が進駐(仏印進駐)していた。そして、第二次世界大戦末期、東京大空襲の翌日に当たる1945年3月11日に、日本軍によってフランス植民地政府が打倒(仏印処理)され、阮朝は日本軍の庇護の下でベトナム帝国を樹立した。その後、8月15日に日本軍がフランスを初めとする連合国軍に降伏文書の調印を予告すると、2日後の8月17日に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)はインドシナ共産党の主導下で八月革命を起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。そして、日本政府が降伏文書に調印した9月2日には、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言し、ベトナム帝国は崩壊した。】
★1949年ベトナム国成立(補足;バオダイ(阮朝最後の皇帝)元首、南ベトナム)、1955年ベトナム共和国成立(ジェムゴ・ディン大頭領に就任)、1963年11月クーデター、ジェムゴ・ディン大統領ら死亡、1964年1月グエン・カーン将軍軍事革命委員会議長に就任、12月民政崩壊。1975年4月30日サイゴン陥落、米国撤収(天津条約から80年)。
これもまた、バーナード・ B・フォ—ル著「ふたつのヴ ェトナム」には70年に及ぶヴェトナム人の抗仏闘争史が描かれているが、1950年代にはいって、フランスは植民地を「救う」ために40万の兵力を投じ、17万5000人の犠牲をこうむり、そして遂に自由を認めて撤退を余儀なくされたのであった(カンボジア、ラオス迄巻き込んで第一次インドシナ戦争と云われれる。)(同書p129)
1954年にアメリカがフランスに代って反植民地主義闘争をひきうけたのはこのときからであった。ヴェトナムの勇気ある人民は、数十年にもわたって反仏戦爭をたたかいつづけた。そしてかれら闘争がまさに勝利し、フランスが撤退しょうとしていた前夜の1954年に、アイゼンハウアーとダレス(勿論、ご存じのジョン・フォスター・ダレス(英語: John Foster Dulles)、アイゼンハウアーの国務長官,反共主義者)、との治世下のアメリカはジュネ ーヴ平和協定(補足;1954年7月21日にベトナム民主共和国、中華人民共和国、ソ連、フランス、イギリスによる合意、北緯17度線を停戦ラインとする停戦協定、アメリカは入っていない。)違反してヴ ェトナムに介入したのである(補足;違反か否か?)。(補足;この会議でダレスは周恩来との握手を拒否したといわれる。)
かれらはジィエム一族を傀儡に仕立て、ヴェトナム全土の統一選挙を施行するというジュネ -ヴ協定を破棄するように仕組んだ 。もし 統一選挙をやれば 南ベトナムの人民は、北部とむすびっき、そして抗仏闘争の指専者ホー・チ・ミンの指導にしたがうことを圧倒的に支持するであろうということは、周知のことであった。アメリカはなぜこのような行動をとったのであろうか。それは明らかに、北部では朝鮮で戦争をおこしたのとの同じく、中国の南方に大陸の基地を確保して、中国を包囲し、また 、扼殺するためであった。朝鮮戦争が終わると同ににヴェトナム戦争が始まった。それはペンタゴンにとつてはほとんど継続的な作戦のようなものであった。
やがてジィエム傀儡政権が打倒されると、つぎからつぎへと、政権はめまぐるしく変った。 ( C I Aはサイゴンで活発に動いた。 )独裁者が変るたびごとに、 情勢の悪化に応じて人民への支配はますます苛酷の度を加えた 人民の支持は皆無に近かったから、汚れた戦争はますます醜いものとなり、アメリカの罪悪はますますひどいものとなった。ヴェトナムの 戦場は毒物、ナパ—ム弾、その他アメリカの石油、化学産業のつくる化学兵器の実験場と化した。(同書p109-110)
★1964年ジョンソンの北爆命令(同書p136-137)
1964年8月4日の夜、ジョンソン大統領は、テレビ番組を中断して、トンキン湾において、北ヴェトナムの PT(Patrol Torpedo(魚雷) boat)艇によっておこなわれたアメリカの二隻の駆逐艦にたいする攻撃の「積極的的な返答」として、北ヴェトナムの本土の目標にたいする空からの攻擊を命令したことを、劇的なやり方で全国民に 語った。大統領は、北ヴェトナムの水雷艇の攻撃に、「計画的、意識的かつ組織的な攻撃」というレッテルをはった。 (この地城の 地図 一瞥すれば、トンキソ湾の三方の陸地はすべて共産国の領土であって、アメリカの船舶がここに 侵入することは、あたかも中国の砲艦がアメリカの 海運状況を調査するために、 ロング・アイランド•サウンドにはいったのと 同じであることがわかろう。 )このような大統領命令の結果、 PT艇の基地となっていた北ヴェトナムの都市は、石油貯藏所といっしょに爆撃された。それらのものは、すべて、附近にいたアメリカの航空母艦、タイコンドローガ号とコンステレイショーン号から発進した巨大な航空艦隊によって爆擊された。そのほか、沖縄、フィりピンおよびアメリカ本土からも増援部隊が急送された。
★極右が諸君を埋める
今日、アメリカには1000以上の 極右団体がある。 AFL ・ CIOは、1963年、その第五回全国大会の教告の中でこういった。
「かれら (極右団体〕は、400万以上の活動分子をもっていると誇祢している。当然、予想できることだが、右翼活動の大きな資金源は、大企業や大産業にたどることができる。コロンンビア大学の政治学教授であるアラン・ウェスティAlanWestinは主張する。慎重な推計をすれば1961年中に、約1000万㌦の献金を行たことが明らかとなるであろう、と。あらゆる証拠は、このような数字がますます増改の方向に向かっていることを示している。。 AFL ・ CIOは、この大会で「右翼」の台頭を「不吉な政治的脅威」と述べている。(同書p154,155)
ここに取り上げられている極右団体は、ジョン・バーチ協会、自由財団、アメリカ安全保障会議 全米ライフル協会などであるが、自由財団・アメリカ安全保障会議 は、いくら探しても痕跡すらない。ジョン・バーチ協会は現在でも活動している。当時の反共主義という観点ではFBI・CIAも活動団体として記載されている(下山国鉄総裁の異常な死、三鷹事件、福島事件に関係するといわれるGHQのキャノン機関、その陰に動いていたかもしれない。)、俳優のチャールトン・ヘストンが会長だった全米ライフル協会も健在である。現在の代表格はヘリテージ財団や、議会を襲撃した「プラウドボーイズ」だろう。9.24朝日新聞、東大教授の遠藤乾は「中間層の焦燥、極右になびく穏健保守」と云っているが、9.27日の自民党総裁選でも石破が215票で勝ったというものの、高市が194票(国会議員173票、地方21票)を獲得、わずか21票の差であり、右傾化の可能性をまざまざと見せた。
イチハタ