33年ネット諸兄姉どの(2025.9.7)
「あの戦争」は何だったのか 辻田真佐憲 2025.7.20 講談社現代新書
(辻田 真佐憲(つじた まさのり、1984年8月22日 - )は、大阪府出身[1]。清教学園中学校・高等学校[2]、慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大
学大学院文学研究科修士課程中退、日本の著述家、評論家、近現代史研究者。京都大学大学院客員准教授)。
(まえがき―要約)
昨今、近代史の専門的な研究が進み、細かい事 ti1}はよくわかるようになってきた。だが、その反面。こうした問いにたいし、幕末・明治維新にまでさかのぽっ
て(実際は神武天皇までさかのぼっている)、近代史全体を通じて答えようとする、総合的で大きな試みはかえって少なくなっている。それならば、みずから一冊の教養
書にまとめてみよう。そう考えて執策したのが本書である。(以下略)
日本では、いまだ近代史を包括する物語が十分に共有されておらず、それを象徴するように、国立の近現代史博物館すら存在しない。われわれが「あの戦争は 何だっ
たのか」とう問いに即答できないのは、この”物語の不在 "に起因している。(以下略)
そこでいま求められるのは、あの戦争を孤立したできごととして語るのではなく、幕末・明治維新以来の近代史全体のなかに位置づけすことだろう。それは、日
本の過ちばかりを糾弾することでも、 日本の 過去を 無条件に賞賛 することでもない。過ちを率直に認めながら、そこに潜んでいた”正しさの可能性”を
堀り起こして現在につなげる、言い替えれば 「小さく否定し、大きく肯定する」語りを試みることである。それ こそが、われわれの未来 につながる 歴史叙述では
ないだろうか。
「国家」という枠組みを 前提とすることに 懐疑的なひともいるか もしれ ない。だが、現在の国際秩序は国際秩序を国家本位として成り立っているため、われわ
れはその枠組みをある種の幻想と理解しつつも 引き受けるべきだろう。また、戦争が国民国家の 所為とされる以上、その視点を全たく抜さに当 時の 歴史を語るこ
とも現実的ではない。
(イチハタ意見;国民国家が戦争を引き起こし相手の国民を殺し、自国民をも殺すと云う、生物界にもあり得ぬ「愚かさ」を発揮している。これを進歩しているという
のか。日本は「人類の愚かさ」を語るのにふさわしい国だろう。日本は国連安全保障理事会は「人類の愚かさ」を討議すべきであると提案すべきである。)
本書は、このような問題意識のもと、あの戰争を現在 につながる大きな流れへと接続し、「われわれの物語」としてふたたび受け入れ、最終的に「あの戰争は
何だったのか」という究極の問いに答えるための試みである。(答えていないのでわたしの意見を述べておいた)
第一章 あの戦争はいつはじまったのか
—幕末までさかのぼるべき ?
第二章 日本はとこで間違ったのか
—原因は「米英」か「讓憲』か
第三章日本に正義はなかったのか
—八紘一宇を読み替える
第四章 現在の「大東亜」は日本をどう見るのか
——忘れられた「東条外交」をたどる
第五章 あの戦争はいつ「終わる』のか
—小さく否定し大きく 肯定する
この中で、面白いのは、第3章正義はなかったのか—八紘一宇を読み替える
アジア主義の台頭と「八紘―宇」
「 明治・大正期の日本において、アジア 主義はおもに民間の思想家や活動家によって唱えられていた。公的な思想としては周縁的な位置にあったが、1930年
代に入り、日本が大陸への進出を進めるなかで、国家機関もまた次第にアジア主義的なスローガンを掲げるようになつていった 。
1932 (昭和7 )年3月に満洲国が建国された際には、「王道楽土」や「五族協和」がその理念として掲げられた。これは、日本人、捌鮮人、満洲人、蒙占
人、漢人の五つの民族が平和的に共存・協力するという建前にもとづくものだった。
さらに、1937年(昭和12年)七月七日中戦争が勃発すると、当初は「暴支應懲 」(横能で非道な中国を懲らしめよ )という報復的なスローガンが掲げられた
ものの、戦争の 長期化が決定的になった翌年11月には、近衛文麿首相によって「大東亜の新秩序建設」が新しく戦争目的として宣言されるようになった。いわ
ば、付け焼き刃的にアジア主義が台頭したのである。そしてこの流れのなかで登場したのが八紘一宇という有名なスローガンだった。1940 (昭和五 )年七月、近
衛文麿があらためて首相に登板すると、 「基本国策要綱」が閣議決定された。そこでは「八紘一宇」の精神にもとづき、「大東亜の新秩序を建設」することが国是とし
て位置づけられた 。
また同年九月、日独伊三国同盟が成立すると、昭和天皇の詔書でも「八紘一宇」ということばが使われるにいたった (「大義を八紘に 宣揚し、坤輿(大地;世
界)を一宇(一つの屋根の下)たらしむるは実に高祖高宗の大訓にして、朕が夙夜(朝から晩まで)眷々(しきりに心惹かれる)措かざる所なり」 )。
このように、にわかに公的な用語として注目されるようになった八紘一宇は、そしてこの流れのなかで登場したのが八紘一宇という有名なスローガンだった。1940
(昭和5 )年7月、近衛文麿があらためて首相に登板すると、 「基本国策要綱」が閣議決定された。そこでは「八紘一宇」の精神にもとづき、「大東亜の新秩序を建
設」することが国是として位置づけられた 。
また同年九月、日独伊三国同盟が成立すると、昭和天皇の詔書でも「八紘一宇」ということばが使われるにいたった (「大義を八紘に 宣揚し、坤輿(大地;世
界)を一宇(一つの屋根の下)たらしむるは、実に高祖高宗の大訓にして、朕が夙夜(朝から晩まで)眷々(しきりに心惹かれる)措かざる所なり」 )。
このように、にわかに公的な用語として注目されるようになった八紘一宇は、もともと「日本書紀に記された神武天皇の言葉に由来する。(中略)
いずれにせよ、ここで注目すべきなのは、八紘一宇が初代の天皇に由来するとされる点だ。(中略)
明治維新 においても ,「神武創業に立ち返る」ことが 掲げられ、 幕府の権威が否定されたように、「もともとはこうだった」という 主張は、しばし後世の
理念や政策に正当性を与えるため 用いられる。八紘一宇も、まさにそのようして遡行的に「発見」された国是だった。(p119)
「大東亜新秩序」≒「大東亜共栄圏」への接続
それはさておき1941年12月、大東亜戰争が勃発した。この戦争の名称が 「大東亜新秩序も建設」という目的に由來することについては、すでに第1章で述べた
とうりである。
東条英機首相は、日本の軍事作戦が順調に進展しつつあった 翌年1月21日、衆議院本会議で演説を行い、あらためてこのを戦争目的を強調した。
「帝国は今や国家の総力を挙げて、専ら雄大広汎なる大作戦を遂行 しつつ、大東亜建設の大事業を邁進して居るのであります。而して大束亜共栄圏建設の根本方
針は、実に肇国(ちょうこく)の大精神に淵源するものでありまして、大東亜の各国家及び各民族をして各々其の所を得しめ、帝国を核心とする道義に基く共存共栄の秩
序を確立せんとするにあるのであります。
ここでいう肇国 (≒ 建国 )の大精神」とは、もちろん八紘一宇を指している。つまり、大東亜新秩序≒ 大東亜共栄圏の建設とは、日本建国の精神にさかのぽ
る理念にもとづくものであり、日本を中心に据えた道義的秩序の形成を目指すものだとされたのだ。さらに東条は、大東亜の防衛にとって重要な地域は日本が保持する
が、それ以外の地域については、各民族の伝統や丈化に応じて「適当なる処置」を 講じると明言した。そのうえで、大東亜共栄圈の建設に協力するならば、フィリビン
やビルマには独立の栄誉を与えるなどと具体的な地名にまで言及した(ついでだが、インドネシアは帝国領になった)。日本の神話にもとづく 概念が、近代的な戦
争に接統されたのである。 歴史的な「大東亜会議』そのような日本式の理想がもっとも輝かしく見えたのは、1943 (昭和18)年11月に東京で開かれた大東亜
会議においてだろう。
しかし、日本書紀・古事記の神武天皇の詔の転用である。2500年も前の、文字も全く使われないなかの伝承である。
「日本の思想」1998.3.15 上山春平著 岩波書店によれば
「西田と大東亜宣言」
西田幾多郎の 著作のなかで、ファシズムとの 親近性を示す例としてよく挙げられるのは、「日本文化の問題」(岩波新書、1940年 )である。しか
し、これより』さらに間題の多い文献が、 戦後になって公表された。それ 「世界新秩序の原理」(「西田幾多郎全集」新版第12巻所収「哲学論文集第四補遺」とい
うパンフレットである。これは、戰争末期の昭和18年(1943年)五月下旬に、東条内閣の大東亜共栄圈対策の指針として、政府首脳の非公式な依頼によって書かれ
たものであった。当時、西田と政府の問を取りもった矢次一夫(やつぎ かずお、
<https://ja.wikipedia.org/wiki/1899%E5%B9%B4> 1899年
<https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%885%E6%97%A5> 7月5日 -
<https://ja.wikipedia.org/wiki/1983%E5%B9%B4> 1983年
<https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8822%E6%97%A5> 3月22日、
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%BC
> フィクサー)が、この事実と右のパンフレットの内容を、昭和 29年 ( 1954年)の一月に、『新政」という雑誌に発表したときには、ほとんど 世人の
目をひかなかったが、 同年六月に、大宅牡一がこの『新政』の 記事を 手がかりとして「 文芸春秋臨時増刊号」に「西田幾多郎の敗北」という文章を 発表したと
きには、少なからぬ反響をよびかこし、西田と親交のあった長与善郎が 「毎日新聞」に「西田幾多郎博士の悲劇」という文章を書いたり、高弟の高坂正顕が、「中央公
論」と「心」に反論を書いたりして、一時、論壇の話題になった。(P98)
(中略)
日記によれば、西田が「世界新秩序の原理 Jを書きはじめたのは五月二十五日であるが、その前日に、『中央公論に発表された高坂の「思想戦の形而上学的根
拠」が右翼評論家たちの攻撃を受けたことに 言及して、「あんな連中相手にせないでよかろう。私は我国のもっと根本的勢力の方からだんだん分って来るのではないか
とおもう」と高坂に書き、また六月十二日の堀(旧友堀惟孝;(ほり いこう、四高では、
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E
> 西田幾多郎の同僚)あての手紙に、「東条などフィリツピン等ずっと廻り来り多分考えが変ったらしい。これを機会として明るい方へ向いて行けばよいがと存じま
す」と書いた。当時、西田が東条政府にかなり強い期待をよせていたことが分かる。東条の声明をきいた後でも、「あれでは私の理念が少しも理解されていない」と不
満をのべながら、「珍しくも陸軍が私などの考えを求めたこと」を評価し、「何とかだんだんにも多少でも分っていってくれれば」となお希望を捨てなかった
(6月23日付和辻宛)。
しかし、やがてさじを投げるときがくる。昭和十九年 (1944 )七月三日に、長与善郎にあてて、とうとう「私共書斎の 老書生が最初から憂慮し居りまし
た如き所」へ事態が切迫してきたように思われるが、これは為政者の先見の明がなかったためであり、今となっては「行く所まで行くより致し方ない」と書いた。すで
に、為政者にたいしては現状変更の希望を託す余地のないことが、明らかになったのだ。
翌20年 (1945年 )の 3月14日に、長与にあてて、「古来武力のみにて栄えた国はありませぬ……永遠に栄える国は立派な道徳と文化が根柢とならねばな
りませぬ。我国民今や実にこの根柢から大転換をやらねばならぬ時ではないでしょうか」と書いたとき、すでに、戦後の文化国家論の萌芽がみとめられる。西田哲学が戦
後にしばしの流行を示しえたのは、西田の思想にたんなる戦争の哲学ないしファシズムのイデオロギ—に建元しえない要素がふくまれていたからではないかと思う。(し
かし、西田の思想は、末尾に記載した本「近代の超克」を読むと本当にそう言い切れるか?)
長与あての手紙と同じ趣旨のことを、同じころ、高山岩男にも書き送っている。そのなかで、長与に書いた「大転換」の方向にふれて、「力でやられても、何処まで
も道義的に文化的に我国体の歴史的世界性、世界史的世界形成性の立場だけの自信を失わず、固くこの立場を把握して将来の民族発展の自信を持たす様にせねばならぬ
と思います」 (傍点引用者)と書いている。ここにいう「世界史的世界形成性の立場」こそ、「世界新秩序の原理』の立脚点であり、西田の晚年の国家観の立脚点にほ
かならなかった。彼は為政者が偏狭な国家利己主義の見地に立つ帝国主義から足を洗って、この 立場に立つことを希望したのであるが、その希望はついにかなえられな
かった。(p102-p103)
この話は、この本には一切出てこない。
わたしは、2021.1.17に李永晶著『分身』⇒『「日本と中国は、それぞれの『分身』」 大胆な切り口で歴史を描いたベストセラー』の馬場公彦の解説文を紹
介した。
(馬場公彦;北京大学教員。35年間編集者を務め、2019年から同大で日本語・日本学を教える。著書に『戦後日本人の中国像』(大平正芳記念賞特別賞受賞)、
『現代日本人の中国像』(いずれも新曜社)など)。
この解説で注目すべきは『そこで李が挙げるのが、意外にも日本国憲法だ。国連中心主義とともに、近代日本の国民精神の精華が結実しているからだという。』と
李は歴史の亡霊を呼び覚ます。それは日中の対立がもっとも激化した1940年代、欧米文化の克服を論じた日本の「近代の超克」論であり、京都学派の「世界史の哲
学」である。
市畑注;「近代の超克」、太平洋戦争勃発直後の 1942年,雑誌『中央公論』および『文学界』において論じられたテーマ。河上徹太郎,京都学派-西田幾多
郎に師事した西谷啓治、鈴木威高、下村寅太郎、そのほか亀井勝一郎,小林秀雄,林房雄,吉満義彦らの文芸評論家が欧米文化の克服を論じたものである。西欧近代から
のアジアの解放を標榜した大東亜戦争を肯定的に受けとめようとする知識人である。もともと西田も日本の行く末について世界史的観点で見るというまなざしがあり、東
条の依頼により東条内閣の大東亜共栄圏の指針の原稿を書いており。西田や西田門下がフアッシズム反対の態度で一貫せず,時には軍部や右翼にすれすれの地点まで接
近したことは否定できない。
戦後、大宅壮一により「西田幾多郎の敗北」と批判を受けたという。(上山春平「日本の思想」1998.5同時代ライブラリー岩波書店p108)
西洋列強の干渉に対して、日中は東アジアの伝統的王権思想に基づき、尊王攘夷(じょうい)で対処した。日本は明治維新により西洋文明を教師に中華世界から離
脱し、攘夷の矛先が転じて征韓論・日清戦争につながった。敗戦を契機に中国の志士たちは、倭寇(わこう)の小国・日本を師事の対象へと転向した。
帝国主義の時代、日本はアジアを舞台に植民地の獲得をめぐって西洋列強と争い、中国を侵略した。日本の第2次大戦敗戦は、植民地帝国という「旧世界」の没落であ
るにもかかわらず、政治学者の丸山眞男らは西洋中心の近代文明の移植を図り、戦後民主主義が開花した。一方で、王権としての天皇は象徴として存続し、日米安保体
制のもとで国際社会に復帰した。中国では、革命により帝国主義の圧迫を克服し、中華人民共和国という国民国家が成立した。
冷戦後、西洋中心の普遍世界が過ぎ去ったあと、李は人類文明への影響力を持つ場所として再び東アジアを歴史の舞台に引き上げる。いま、主役としての急速な経済成
長を経て大国へと変容しつつある中国は、いかなるビジョンで世界の思潮を牽引(けんいん)しようというのか。そこで李が挙げるのが、意外にも日本国憲法だ。国連中
心主義とともに、近代日本の国民精神の精華が結実しているからだという。
この異質とも見える二つの「分身」を合体させるべく、李は歴史の亡霊を呼び覚ます。それは日中の対立がもっとも激化した1940年代、欧米文化の克服を論じた日
本の「近代の超克」論であり、京都学派の「世界史の哲学」である。
ジキルとハイドが合わせ鏡になった日本像は、本書のように傷痕うずく日中の深層関係からしか描けまい。しかし、李の戦後日本の精神史には、保守思想と草の根の民
衆思想の系譜が考慮されていない欠落がある。戦後保守思想に反共主義が根強くあったことや、中国語の翻訳成果が乏しいためと思われる。
Asahi shinbun Globe 12月28日より2021.01.17
国立歴史博物館などつくる必要性があるのであろうか。
イチハタ