大塚金之助先生の教授としての最後の講義はわれわれが入学した年である1954年の小平での「社会思想」ではなかったかと思う。
講義の前半は大塚さん、後半は上田辰之助教授であった。大教室が満員の盛況であったから33pcネットの諸兄の中でも記憶されている方は少なくないと思う。
新三木会の会報153号、154号の2回に分けて掲載した拙文を同会の同意を得て転載いたします。
大塚会の解散にあたって大塚金之助教授を追想する
1977年に85歳で物故された一橋大学名誉教授大塚金之助のゼミナリステンは「むさしの会」を組織して親睦を図っていました。「大塚会」はそれを発展させて、明治学院大、慶応義塾大の卒業生と合同して再編成された組織でした。先生は一橋を定年で退職された後もこれらの二大学で教鞭をとられましたが、いずれの大学にも先生の遺徳をしのぶ卒業生のグループがあり、明治学院大では「ウンター・デン・リンデン」と題する会報を発行していました。大塚会はその結成後、年一回の会合と墓参を行い、また設立間もなく1981年6月からほぼ年一回『大塚会会報』を刊行してきました。 『大塚会会報』はこのようにして先生の没後、半世紀近く刊行を続けてきましたが、今年8月の第53号をもって終刊とし、合わせて大塚会も解散することになりました。経年による会員数の減少と老齢化という止むを得ない事情によるものです。会報53冊に寄せられた論考の「総索引」は年内に刊行される予定です。
先生は1933年1月に治安維持法違反容疑で逮捕されて以来敗戦の日まで検事局および特高検察の監視下に置かれ、1945年12月に復職するまでの13年間にわたって職に就くことを妨げられ、苦難の生活を強いられました。この間の1935年から40年まで、言論の自由が完全に圧殺されるまでの束の間に、かろうじて発表することのできた論考を集めたものは戦後復活した岩波新書第一号『解放思想史の人々』として1949年4月に発行されました。ゼミナリステン4人を編集人とする『大塚金之助著作集(全十巻)』は1981年11月に完結しております。
終戦後、自由を得た先生の復学が多くの復員兵を含む学生たちによって歓呼の声をもって迎えられたことはむろんですが、先生の定年退職(1956年3月)を目前に控えた1954年の小平での「社会思想」の講義にあっても大教室が満員になる盛況でした。先生は偉大な学者、教育者であると同時に、多くの愛好者を持つすぐれた歌人でもあり、アララギ派歌人として登壇したのち、無産者短歌運動、さらには無韻律自由詩へと進まれました。
大塚会としては、字数を整えた以上の趣旨の文章を『如水会々報』の「ゼミナールだより」欄に掲載することを希望しました。それによって、おそらく現存する如水会最古のゼミナール会である大塚会の解散を周知し、あわせて会にゆかりのある者だけでなく、若い如水会員にも大塚先生がどのような存在であったかを知って頂くことを意図した次第です。このように考えるのは大塚会会員の独りよがりでないことは大学の第18代学長をつとめられた山中篤太郎教授の次のような言葉からも知ることができます。「大塚さんが一橋という小ぢんまりした集団では最初に生まれた社会学者であり、而も一橋の枠をこえた今後も容易に期待しがたい底の深い社会科学者であったことは私がここで改めてとりあげるまでもないでしょう」。
しかし同会報の印刷会社の社員を通じて、内容が同欄の趣旨にそぐわないという会報編集員の意向を伝えられ、一度は内容の修正に応じましたが結局、記事の掲載を断念せざるをえませんでした。しかし他方において、かねて新三木会の会報編集者から大塚先生についての寄稿を求められていたので、ここに上記の「ゼミナール便り」の草稿(初稿)を掲げ、それに『大塚会会報』の最終号に掲載した「大塚先生の第三の道」と題した拙文を要約加筆したものをご覧いただくことにしました。
大塚先生の第三の道
大塚先生にとって生涯最大の事件は1933年の受難、治安維持法による逮捕、投獄であったことは疑いない。そしてこの問題をぎりぎりのところまで論じているのは門下生である都築忠七先生が「一橋の学問を考える会」で行った講演記録「大塚金之助教授と解放思想史」に残されていると思う。その中で都築先生は著作集第二巻の解説にある川崎巳三郎氏の、「実践活動はしない」という大塚の誓言は「理論と実践の分離であって先生があくまでそれに忠実であろうとした原則の否定であった。鋭い先生の良心はこのことを思うだけでもきりきりと傷んだに違いない」という大塚先生の煩悶に触れています。
検事控訴後の第二審で結局先生は、恩師坂西由蔵の忠告を受けいれ「自分の正しいと確信していることをあえて間違っていると書いた上申書を提出した。大塚はこれによって第二審で身柄の自由を回復したが、このことはそれが死にいたるまで消し去ることのできぬ良心の重荷になった。」マルクスに帰ることのできなかった大塚先生には、本当の意味での解放はなかったかもしれない。
都築先生の講演は1985年1月25日に如水会館で行われた。都築先生は最初に川崎説を紹介した後で、上申書を注意深く読んだが「そこに精神の転向を読み取ることはできませんでした」、そこにあるのは「(…)逆に先生に転向を迫る日本の精神風土に対する秘められた憤り、無言の批判でした」という。上申書を提出した2日後に家族に宛てた手紙には次のような言葉があります。「私の生活は今後は以前に倍して苦しい。しかし私は石にかじりついても自分の真理の道を押し通すつもりである」。精神的な転向を遂げた人の口から出る言葉とは思えない。11月2日、自由の身になって吉祥寺の自宅に戻った先生は新聞記者にこう語っている。「私の転向は私の心境の自然的推移で節を曲げたものでは断じてありません。」
都築先生はここで大塚先生が、国体が単なる封建的な遺物ではなく「当時絶大な非合理的な力を備えた政治的強制力であることの認識を新たにされた」とする。たしかに検束後25日目、1933年2月3日に書き上げた第一審の上申書は、マルクスの理論への賛同を包み隠さずにのべた上で「所謂純粋理論経済学の生態的観察は社会的現実に無関心である」と、あたかも相手を説得することが可能であるかのように、あるいは教師が生徒に説くかのようによどみがなかった。
ここからの「心境の自然的推移」を都築先生は次のように説かれる。「大塚先生が極めてまれな第三の道、抵抗の道を選ばれたことが、私には一九三三年の特別な意味であるように思われます。先生の抵抗、レジスタンスは、釈放後、解放思想史の祖述,解放思想史と関連する人々について論文をまとめていく、という形をとります」。
都築先生の講演は一橋大学で近代経済学を講じられた山田雄三教授の次のような言葉の引用で終っている。至言というべきであろう。「大塚先生は狭く専門化された経済分析にこだわらず、むしろ社会思想史に、先生の表現によれば解放の思想史に関心を向けて行かれた。しかもそれは時代を十六、十七世紀にまで広げ、国も欧米諸国にまたがり、分野も社会科学のほか文芸、音楽にまで及んでいろいろの人物が登場する。先生は固定したイデオロギーを超えてエマンシペーションの大きな流れを追い求められたのである。」
松川事件の被告たちの無罪を勝ちとる上で世間の注視を集める働きをした作家広津和郎に『風雨強かるべし』という作品がある。その作品の主人公は伊豆の湯ヶ島をおとずれます。そこの旅館の別棟の粗末な6畳間に案内された主人公は番頭に「此処にはこなひだまで大月博士がいただよ。此処から警察に引っぱって行かれなさっただ。あんな好い人をどうして警察でつれて行くだね?」と教えられる。「それは左翼のシンパ関係で、数カ月前検挙された商大教授の大月博士のことであった」。
この作品は1933年9月から翌年3月まで「報知新聞」に連載されたもので引用文中の大月博士とはもちろん大塚博士のことである。当時の事件への言及があるのは新聞小説の特徴の一つかもしれない。(漱石の『それから』は当時世間の話題を呼んでいた商大の学校騒動を批判している。)この作品の末尾には風雨の募る上野駅のプラットフォームで「風雨強かるべし」のあの赤い警戒版が物々しくぶら下っていた」という言葉がある。まさに風雨はやがて暴風雨となって日本全土を覆ったのであった。
パスカルの「考える葦」
少し余談めくが、フランス17世紀の哲学者パスカルは「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」という言葉をのこしている。パスカルはこのように述べた後、以下のように続ける。「だが宇宙は何も知らないが人間は考えることができる。人間の尊厳はそこにあり、人間はそこから立ち上がらなければならない。だからよく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある」。大塚先生も人類という広い観点から見れば、そのような一本の葦であったかもしれない。ただし、それは考える葦であった。
戦後間もなく、社会派と言われる作家の石川達三の長編小説『風にそよぐ葦』が評判を呼んだ。その人気のほどは毎日新聞の連載が1回では終らずに、少し時をおいて2回にわたって連載されたことに現れていた。題名はこのパスカルの言葉から取られたと思わずにいられないが、このパスカルの文章の周辺を探しても「風にそよぐ」という言葉は見つからない。「最も弱い一本の葦」を「風にそよぐ葦」と言い換えたものだろうか。私は長い間気になっていた石川のこの小説を読んで弾圧下にあった知識人や出版界の日常を思い描くことができた。戦後の自由な空気の中で、石川は太平洋戦争の戦況の推移を仔細に追いながら、雑誌『改造』と『中央公論』の廃刊、そして後編では「横浜事件」も視野に入れて言論の自由が壊滅する経過をたどっている。
治安維持法の被告人として始まる大塚先生の苦難の時期はここに描かれた太平洋戦争の時代に9年先だっているが、その苦難は敗戦の年の12月に復学が叶うまで13年間にわたって引き続いたことになる。言論の統制は中国との全面戦争の発端となった盧溝橋事件(1937年7月7日)以来一段と厳しさを増して行った。1937年9月25日には言論統制の一元化をめざす内閣報道部が設置され。11月には宮中に大本営が設置されその中に陸海軍の両報道部が設けられた。すでに逼迫していた日本人の生活がその頂点に達したのは太平洋戦争期からその終焉後の数年に及んでいることはわれわれが身にしみて体験したところであった。大塚教授はそれをはるかに上回る歳月にわたって、いかなる職務にも公然とつくことができず、5~6人の親友の救援をうけ、夫人はピアノの私教師として働いた。その苦衷の生活がなお誇りをもってきびしく,しかしひそかに謳われていたことは先生が残された数知れない歌の節ぶしに読むことができる。
このような人生の転換をもたらした大塚教授の罪科とはどのようなものであったかを知っておく必要があるだろう。昭和8(1933年)年7月18日付の東京地方裁判所第二刑事部の裁判長以下3人の「被告人を懲役弐年に処す 但参年間其の刑の執行を猶予す」とする判決に付された理由は、1931年末から32年末ごろまでの間に、日本共産党の活動資金計1,100余円を提供したということに尽きる。大塚は逮捕後、豊多摩未決監に移され、それから第1回公判が開かれるまでに6カ月余り勾留された。この間に大塚は証拠隠滅のおそれありとして約3か月間、他人との接見と書類の授受を禁止されており、保釈の請求はすべて却下されていた。
『風にそよぐ葦』を読んだ勢いで私は同じ石川達三の『生きている兵隊』を手に取った。石川はこの本によって治安維持法違反ではなく「新聞紙法違反」によって1938年9月5日に禁錮4か月、執行猶予3年の刑に処されている。この本は上海や杭州湾から南京へと続く戦闘の記録である。幻と消えかねない南京の惨状がリアリズムを身上とする作家の筆によって再現される。今これを読むと、街上に瓦礫の積み上がったパレスチナ・ガザ地区の映像と無縁ではないと思わざるを得ない。石川はこの作品によって貴重な記録を残してくれたのではないだろうか。日本は1940年の東京五輪の開催を返上した。南京事件などへの批判から東京大会開催反対の声が他国から上がっていたが、国内には知らされなかった。作者は「生きている」とは「死を目前にして生き残っている兵隊」と「真実の人間らしき兵隊」という二重の意味を持たせていたと明かしているがこれもまた優れた題名だと思う。本文に伏字の多いことはこの時期の作品として珍しいことではなかった。
読売新聞1938年3月27日の夕刊は『生きている兵隊』が「(アメリカで)英訳され出版されようとするところをわが領事館で取押え、翻訳本数千部を押収したという情報が二十五日外務省にもたらされ関係当局を驚かせた」と伝えている。また29日の都新聞には、中国の新聞に抄訳が連載されているという記事が大きく報じられた。この連載をもとに出版された『未死的兵』(上海雑誌社)は京都大学文学部が所蔵している。また6月には『活着的兵隊』と題したものが上海文摘社から出版されていることも知られている。このように石川の作品は、著者の意図にはお構いなく、国際的な反響を呼んで広く流布したことが窺える。
『生きている兵隊』についてこれらの詳細を伝えてくれるのは河原理子(みちこ)の『戦争と検閲 ―石川達三を読み直す』である。同書は石川の生涯と作品(主として『生きている兵隊』)を取り上げて「戦争と検閲」を主題として追及した労作である。石川は新聞紙法違反で有罪になったとはいえ、河原によれば、「聴取書」を見る限り陸軍刑法違反が取調べの中心であった。陸軍刑法の第99条は軍人以外の者も対象にして「造言飛語ヲ為シタル者ハ三年以下ノ禁固ニ処ス」となっていた。石川には「聖戦」批判の意図はなく、作品はまだ硝煙の消えぬ南京へ到達する部隊の多様な兵士像を描いたものであるが石川は1938年9月5日に禁錮4か月執行猶予3年の判決を受けた。判決は「皇軍兵士の非戦闘員の殺戮、掠奪、軍規弛緩の状況を記述し安寧秩序を紊乱する事項を執筆した」というものであった。石川は晩年になって、『風にそよぐ葦』を「戦時中の国家権力や軍部に対する私の小さな復讐」であるとしている。
石川はまた『風にそよぐ葦』の中で、大学に現役将校を派遣して軍事教育を行うようになってからそれまで左翼思想になびいていた若者たちが右傾化したと指摘している。「戦争は若い人々の感情を一種の片輪なものに育てていたようであった。幸福をすてることに幸福を感じ、不幸をもとめることに生存の意義を見出し、死ぬことに最高の名誉を感じ、平和な生活に恥辱を感じていた」。今読むと不思議なものに思われるがこのような感情は決して不思議なものではなかった。
大塚先生の主任弁護人を務めた鈴木義男は東北大学教授時代に「所謂軍事教育案批判」と題する論説を7回にわたって新聞に連載し(『河北新報』1924年12月8日~15日)赤化教授の烙印を押されて弁護士に転身した人であった。学問の府における軍事教育が日本の軍国主義化を推し進める上でどれだけの力を発揮したかは明らかでないが多大の影響を及ぼしたことに間違いはない。鈴木は戦後、日本社会党の重鎮の1人として片山、芦田内閣の法相を勤めた。また憲法前文を含むすべての条文が最終的に逐条審議された衆議院特別委員会(1946年7月25日~8月20日)では主導的な役割をはたした人物であった。この委員会の核心をなしたのはその中に設けられた小委員会(芦田委員会)であったがその議事録は戦後 50 年にあたる 1995 年(平成7年)まで公開されなかった。そのためにあまり広くは知られていないが、この小委員会で憲法第9条の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言が加えられた。それまでの案になかった「平和」の文字が憲法の条文に現れ「平和憲法」の名付け親になったのはこの委員会であったことは記憶に値する。
偶然なことに、この小論を書き終ろうとする瞬間に興味深い記事が東京新聞に掲載された(10月5日)。「人工知能がもっともらしい文章を書き、瞬く間に拡散する現代。情報の真偽を見抜くすべは…。」で始まるこの記事は東大名誉教授石井洋二郎のインタビューである。石井教授はインターネットが普及した社会に巣立つ若者の教養に危惧を抱いて警鐘を鳴らす。教授は情報の真偽を自分の目で確かめることの必要を説き「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」に教養の本質があるとする。一次資料に立ち返れとは大塚先生が繰り返し説き、自らもまた実践された所である。教養の本質(「教養とは何か」)については多くの人がそれぞれに論じているが私にはまだ到達点がない。石井教授は教養を「尽きることのない思考への欲望」と定義される。欲望だけでは教養とは言えないのでなお検討の必要があるだろう。
石井教授はまた「人間の尊厳は考えることのうちにある」と述べておられるがこれはこの回の冒頭に引用しておいたパスカルの言葉を敷衍し、またそれに合致するものであるが、パスカルはそこからさらに道徳の原理へと進んでいる。「だが宇宙は何も知らないが人間は考えることができる。人間の尊厳はそこにあり、人間はそこから立ち上がらなければならない。だからよく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある」。(6/10/24)
00055 2025.7.20
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