33年net諸兄姉どの(2023.10.23)
イスラエルのガザ侵攻は目前に迫っている。今更、歴史を辿っても、何もならないかもしれないが、若き日にロレンスをしり、ロスチャイルド・エドモンドに会い、ベイルート、ダマスカスに旅した私にとってロレンスは、忘れらない人である。1973年ベイルート空港から市中に入る高速道路の両側は樹木に覆われているが、その中にパレスチナ難民が掘っ立て小屋をたててすんでいる、何キロもつづく。運転手に君らの親せきもいるだろうというといるという。しかし国籍違うからねという。
アラビアのロレンスを知ったのは、東大の中野好夫((1903-1985,東大教授では飯が食えないといって退職して世間を人騒がせた男)が書いたアラビアのロレンス(新潮社、1971年)を読んだのが初めての出会いであった。また、『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia)は、T.E.ロレンスの生涯とその著書「智恵の七柱(英語版)(1926年)」に基づいた、英国の壮大な歴史映画。1962年公開、デヴィッド・リーン監督(「戦場にかける橋」でも知られている)、主演のピーター・オトゥールは、デヴィッド・リーンに抜擢され、主役を演じる。188cmの長身と緑青色の眼が印象的なロレンスが話題を呼び、英国アカデミー賞 主演男優賞を受賞。アカデミー主演男優賞に初ノミネートされる、第35回アカデミー賞では7部門を獲得している」、DVD「Lawrence of ARABIA」を持っている。
★映像の世紀バタフライエフェクト 「砂漠の英雄と百年の悲劇」
古来パレスチナは、アラブ人とユダヤ人が共存して暮らす場所だった。そこに対立の火種を持ち込んだのは、第一次世界大戦であった。イギリスは、両民族に独立国家建設を約束したのだ。イギリスの情報将校ロレンスは、第1次世界大戦中にオスマン帝国に潜入、アラブ民族独立をあおり、オスマン帝国打倒をもちかけた。しかし一方でイギリスはユダヤ人にも同じ約束をしていた。百年前のひとりの英雄の裏切りから始まる、憎しみの連鎖の物語である。2022年6月20日放送, 2023年10月16日再放送「映像の世紀選 砂漠の英雄と百年の悲劇 ばらまかれた憎悪の種 バンクシーの描く祈り」(45分)で再放映された。NHKオンデマンドでも見ることができる。
(要 約)
20世紀初頭この地域はオスマントルコ帝国の支配下にあった。多文化,多民族を容認する国家であった。1914年第一次世界大戦が勃発した。連合国は英仏ロに対しドイツ・オーストラリア・オスマン帝国の同盟国の戦いとなった。時同じくして中東に石油が見つかった。ここに目をつけたのは、海軍大臣だったチャーチルだった。英国は、この石油の獲得を狙い、後方からオスマン帝国を揺さぶるべく一人の情報将校を派遣する。トーマス・エドワード・ロレンスである。大学で考古学を専攻、何度も現地調査に参加、アラビア語も堪能であった。ロレンスを送り出すに先立ち、上官はアラブの指導者にイギリスはアラブの独立を支援する用意があるとの書簡を送った(第一次大戦中の1915年、エジプト駐在のイギリス高等弁務官マクマホンが、アラブ人の指導者フサインに戦争協力を条件に示した(Husayn-MacMahon Agreement)のことか、オスマン帝国領内のアラブ人国家建設への支持協定。しかし、ロレンスには、戦争が終わればアラブ人に対する約束など反故同然の紙切れになってしまうことは分かっていた。
一方、第一次世界大戦中の1917年11月2日に、イギリス外相バルフォアが、ウォルター・ロスチャイルドに送った書簡でシオニズムへの支持表明
「Lord Rothschild ”His Majesty’s Goverment view with favour the establishment in Palestine of a nation home for the Jewish People.」
1917年エルサレム陥落、1918年ダマスカス陥落。フアイサルを熱狂的に迎えるアラブ人。イギリス軍司令官アレン・ビーは、フアイサルにアラブの国はつくれないことを伝える、通訳はロレンスであった。ロレンスは云う、「オスマン帝国を倒すためではなくメソポタミアの小麦と米と石油を我が国のものとするためである。」戦後、イギリスはパレスチナ一帯を統治、目論見通り石油の採掘権を取得した。ロレンスは砂漠の英雄と持ち上げられることになった。ナイトの称号を贈られることになったが、ロレンスは辞退した。アラブを裏切った罪の意識に苦しんだ。戦後、名前を変えて、何度も行方をくらました。一方でイギリスはユダヤとの約束は守り、1920年ごろから入植がはじまった。
★英国ロスチャイルドのエドモンドは、資材を投じてパレスチナの土地を購入し、ユダヤ人に農業を教えた。その一方でこの地に暮らすアラブ人との融和を何度も説いた。しかし、まもなく、この願いを打ち砕く事態が起きた。1930年のヒットラーの台頭である。ヒットラーは、「全ヨーロッパからユダヤ人を根絶やしにするのだ」と命令する。ナチスの迫害を逃れ、多くのユダヤ人がドイツを脱出し、パレスチナに上陸した。つい、この間まではサボテンとジャッカルのいる荒れ地にユダヤの難民や開拓者が住み着いた。貧しいアラブ人からさらに土地を買い上げ,街を作り上げていくユダヤ人、わがもの顔にふるまうユダヤ人に、アラブ人は憎悪を向けた。
「ロスチャイルドのエドモンドには、1973年ロンドン事務所オープン後、社長のスチャイルドの本社訪問に随行した。応接間で彼の入れる紅茶を頂き、奥の間で壁にぐるりとかけられた先祖の自画像を拝見した。カナダへの投資は100年にわたるという、お名前は出ませんがというと、すべてstreet nameですということであった」
★1939年2月、イギリスは、セントジェームズ会議を開き、アラブとユダヤの代表をロンドンに集めたが,両者とも同じテーブルにつくことを拒否した。調停に失敗したイギリスのチェンバレンはユダヤ人のパレスチナ移民を5年間で7万5千人に制限した。
★1939年5月13日 セントルイス号は大半がユダヤ人900人の米国に向かうも下船を拒否され、結局、大西洋を引き返しベルギー、オランダ、英国、フランスの各国が乗客の入国を許可したが、1939年9月第二次世界大戦は起き、前記の四か国はナチスに侵攻され、ユダヤ人は収容所に集められ、アウシュビッツに送られる羽目に陥った。セントルイス号の乗客937人中、254人が犠牲になったという。
1945年、第二次世界大戦の終結は、解放されたユダヤ人に悲願の実現へと駆り立てた。しかし、統治するイギリスは依然としてユダヤ人の移民制限を続けた。
「1946年7月22日エレサレムのキング・デービットホテルが爆破された。イギリス人、ユダヤ人、アラブ人の死亡者41人、負傷者53人、不明52人という大惨事になったユダヤ人のシオニズム極右派組織の一つ、イル・グンの犯行であった。刑事フォイル(Foyle's War) 19.5.25 NHK放映より」
★ギー・ド・ロスチャイルド(フランス・ロスチャイルド家の4代目の嫡流、第二次世界大戦後ナチス侵攻により崩壊したフランス・ロスチャイルド家を再建した)登場:ギーの手記によると、戦争と破壊、600万人のジェノサイドは、シオニズムにどこか消極的であったわが一族の立場を根本的に変えた。わたしは、熱烈なシオニストになった。
★1947月11月国際連合で、イギリスはパレスチナの統治を放棄を宣言し、33対13でイスラエルの建国が決まった。建国日は1948年5月14日に決まった。国名はイスラエルと決まり、ベン・グリオンが最初の首相になった。
★アルバート・アインシュタイン;ベン・グリオンがアメリカ訪問、絶大な歓迎をうけた。ベン・グリオンはアインシュタインに協力をいらいする。かってシオニズム運動を支援していたが、その依頼を断った。彼は云う「アラブ人に対して完全な保障したいという願望をいただき、それが明確に続けることでなければなりません。アラブ人に対してどんな態度をとるか私たちの道徳水準が試される本当の試金石になります」
「イスラエルは極右シオニスト達の主導でつくられた国であることは確かである。そして、現在でも極右が主導権を握っている」(ここを言わないのがNHKの中立というものか)
★1948-1949年 第一次中東戦争、イスラエルは国外から兵器を買付け、戦いに勝利した。この戦争で追われたアラブ人は75万人、500以上の集落が無残に破壊された。9万人であったユダヤ人は258万人になった。
★1972年5月 世界を震撼させることが起こった。テル・アビブ空港(当時はロッド空港、現在はベン・グリオン空港)で日本人の赤軍と名乗る3人が、銃を乱射して24人を殺害、うち一人は自爆した。そのうちの一人、岡本幸三は「今回の作戦はアラブ世界に大きな勇気づけを行うであろう、世界中の人に警告しておく、これから同じような事件がニューヨーク、ワシントンで次々と起こるだろう。ブルジョワ側に立った人間は、すべて殺戮されるだろう」と言い放っている。
「岡本幸三(1947年 12月7日生~72才、 日本の新左翼 党派・ 共産主義者同盟赤軍派 のテロリスト)は、イスラエル からの釈放後に レバノン に亡命し、日本警察からは国際手配中 」
自爆は大量殺人を可能にした。新しい戦術として広がっていく。
★1972年8月、ミユヘン・オリンピックでは、イスラエルでは30人の選手団を派遣した。宿舎がアラブのテロに襲われ二人を殺し、9人の人質を取った。人質を載せたヘリは、自爆した。5人のテロリストは射殺された。彼らは云う;イスラエルの旗はあっても、我々の旗はないと。
★2015.11.17レバノンの連続自爆テロ、40人以上が死亡、容疑者9人を拘束。
★2001.9.11アメリカ同時多発テロ事件;日本人24人を含む2,977人が死亡、25,000人以上が負傷した。
この映像の世紀バタフライエフェクト 「砂漠の英雄と百年の悲劇」では、ロレンソの裏切り行為が、世紀バタフライエフェクトを惹起したとなっているが、ロレンソは職務として遂行したに過ぎない。しかも、彼の専門である中東考古学を失い、アラブの友人もすべて失われた。「ロレンソの裏切り行為」は誤りであろう。
「(ダマスカス占領後)1919年7月、動員を解除されロンドンに帰ってくる。疲弊した彼は傷つけられた良心の重みで見るも痛ましいほどであったという。彼はマクマホン協定から1918年11月7日の英仏共同声明に至るまでアラブ問題をめぐって連合国が与えた保証内容(1915年10月 - フサイン=マクマホン協定(中東のアラブ独立・公開)1916年5月 - サイクス・ピコ協定(英仏露による中東分割・秘密協定、ロシア革命のときロシア皇帝の金庫から見つかった。)1917年11月 - バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設・公開))をメデアに解説した。論説記者も「我々は中東情勢について何も知らなかった」と告白させた。英タイムズ紙すら削除せざるを得なかった文章もあった。
それは「私は自信をもってイギリス政府が、あくまでも誓約にあるべきと信じて、アラブを鼓舞してきたのであるが 今となっては私は両国民に告げたいと思う。すなわち国家の権威をかけてした誓約を、今やイギリス政府に履行する意志がない以上、私は私の行動に衷心より悔いるばかりである」という、激烈のものであったという」(中野好夫著、改訂版岩波新書p172)
イチハタ