33ネット諸兄姉どの(2023.12.29)
かって、「北一輝」をお送りしたが、最近、wowowで映画「スパイ・ゾルゲ」を見た。主人公の一人、「尾崎秀実(おざき ほつみ)」を少し読んでみた。
映画は、2003年篠田正浩(1931.3.9~、現在92才,岩下志麻の夫)が引退時につくった「スパイ・ゾルゲ」、ついでだが、書家、篠田桃紅は従妹。この作品は、同時進行を詳細に描いているが、加えて1,2回しか登場しない人物も多く、また、関係する女性を多くの場面で登場させ、コンテキストも複雑で、特にゾルゲをテーマに置きながら尾崎秀実(おざき ほつみ)をも描こうと二兎を追い、観客にとって分かりづらくなっている。失敗作であろう。遠い昔の話ですが、尾崎の獄中書簡「愛情はふる星のごとく」がベスト・セラー(23.9月)になった。読んだか、否かはっきりしないが、銀座のラインハルト、ローマイヤを訪れたような気がする。ここでは尾崎秀実について映画と彼への解説書から略、眺めてみたい。
尾崎の思想;尾崎の思想的な変化の契機となったのは,関東大震災(12.9.1)で多数の朝鮮人がゆえなく虐殺されたことである(作家高見順によれば被害者は関東一帯で6千数百人に登るという(S38現代のエスプリ至文堂p186 )。尾崎はは台湾で育ったので日本人の台湾人への乱暴なな振舞いを子供心にも苦々しく感じていた。これか朝鮮人虐殺への怒りとなり、人道主義となり、植民地民族への深い同情と関心になった。東大を卒業後、尾崎は朝日新聞社に入社したが、一高、東大時代から親交があった松本慎一は、朝日にはいって、三年もたったころには「もはや確固たる共産主義者になった」と書いている。(尾崎秀実著作集第四巻、図書 勁草書房、1978.8、p392青地辰著)
・松本慎一(まつもと しんいち、1901年11月8日 - 1947年11月26日)は、東京帝大卒、三省堂にはいり、1932年共産党にはいり、1934年検挙、戦後、全日本印刷出版労働組合書記長。尾崎秀実と親交があったという。
昭和20年11月7日、目黒祐天寺の尾崎の家で一周忌がおこなわれた。たくさんの人ぴとがつめかけ、ふすまを取払った座敷にはいりきれず、廊下にまで人があふれ、初冬の薄ら寒い日だったようにおぼえているが、むんむんする熱気が部屋中にたちこめていた。その席で松本が立ち上がって、尾崎の獄中書翰の何通かを読みみあげた。これらの手紙が人々とにどのような感銘をあたえたかは書くまでもない。(尾崎秀実著作集 第四巻p399柘植秀臣)
映画は、特高が三人(尾崎、ゾルゲ、宮城)を逮捕するとことから始まる。さかのぼって日中が戦争へと動きつつあった1930年代。昭和6年(1931年)5月に、尾崎秀実(第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業)(本来雅弘)は朝日新聞社に入り、上海支局に勤務していた、「女人一人大地を行く(A Daughter of Earth)」を書いたアグネス・スメドレーに会う。彼女はアメリカ・インデアンの血をひき、白人でもないので差別されながら生きてきている。アメリカ共産党員。上海でアグネス・スメドレーは、尾崎の帰国に際して、尾崎が「女一人大地を行く」を邦訳すると云った。アグネスは「もう一冊がいるわね」と、自らサインして渡す。
映画;日劇の隣にあった朝日新聞東京本社が映し出され、突然、アグネスが訪ねてくる(1934.4頃)。魯迅に会いに上海に渡航途中、横浜で途中下船した来たのだという。客船の船室ではなす。「女一人大地を行く」(白川次郎」(尾崎の文筆名)訳、中央評論)の和訳本を渡す。これが、アグネスに会った最後になった。
映画;1936(昭和11).2.26 いわゆる二・二六事件発生、ゾルゲはドイツ国旗(ハーケン・クロイツ)を掲げた大使館車で状況を見て回る。戦車も航空機も飛ばないクーデターは、すぐに正規軍に鎮圧されるだろうという。
映画;尾崎、ゾルゲ、クラウゼンの三人の会話、尾崎;兵士の90%はが貧しい地方出身者、将校団の半数が地方の中流地主の次男、三男。今回のクーデターの背後にある思想は共産主義に類似している。生糸の暴落と東北の大飢饉でどん底に迄追われた農民を政府が見殺しにしたため、大蔵大臣高橋是清が標的になった。(現在の政治と全く異なる)
昭和天皇;自分の股肱の重臣、内閣総理大臣秘書官事務取扱(私設秘書)松尾伝蔵、大蔵大臣高橋是清・内大臣斎藤実、教育総監襲撃渡辺錠太郎を殺害した反乱軍として鎮圧を命じた。クーデターは失敗に終わった。
結局、現役,皇道派の陸軍将校13名が銃殺刑になった(11.7.17)。映画では「天皇陛下万歳」といって死んでいく奇妙な光景であった。(よく年、一年遅れて、12.8.19、磯部・村中の陸軍将校二人、 北一輝と連絡役を務めた元陸軍将校西田税(にしだ みつぎ)4人が処刑された。「われわれも天皇陛下万歳を三唱しましょうか」と西田が云うと、北は頭を傾げ、少し考える風であったが「いや、私はやめましょう」と答えたいう。北は、昭和7年「対外国策ニ関スル建白書」で当時の日米開戦論に警告を発している。立ち位置の違う北と尾崎の対米意見一致が興味深い。
映画;ゾルゲとオットードイツ大使とがチェスを打っているとき、秘書が一通の電報を持ってきた。それには、170の部隊が東国境に集結、ロシア侵攻のの準備、正式な戦争通告なし。ゾルゲ;ヒットラーは欧州全土を手に入れ、ユダヤ人を地上から抹殺する気だ。
映画;ただちに、モスクワに打電するも応答なし。
映画;スターリンはこの暗号電報を受け取っていたが、ゾルゲを二重スパイとしで我々を攪乱しようとしているという。情報源はドイツ大使館、ミイラ取りがミイラになったともいった。スターリン;これは騙されている。きっと売春宿でもの情報だ。おそらく電文は東京でチャーチルが仕掛けた陰謀だ。独・ソが離反すれば、イギリスはおこぼれを拾えるからなと取り上げなかった。(スターリンがゾルゲの情報を信用しなかった話は「歴史家の書見台」(山内昌之2005.3 みすず書房p140にも書かれている。)
映画;ベルリン時代での知人、ドイツ軍人ショルツ中佐、バンコックへの赴任途上で、日本に立ち寄った、日本式宴会の席上で偶然に会う。ショルツ;ドイツのロシア侵攻は、6月10日,くるっても2・3日だ。まだ大使も知らない。準備は完了している。最後通告も、宣戦布告もない、電撃作戦だ。
1941.6.22 ヒットラー、対ソ電撃作戦を開始、事実は6月22日に実行された。(ロシアは不意を突かれ、退却に次ぐ退却、スターリングラード迄攻め込まれた)
ゾルゲは、無論、情報原を明らかにしてモスクワに電報を打ったと思われる。
1940年(昭和15年)7.22;第二次近衛内閣成立(東条英機陸軍中将、陸軍大臣として初入閣) 1940.9.27日独伊三国同盟、1940.10.12大政翼賛会設立 1941.4.13日ソ中立条約
映画;尾崎と西園寺公一が会話をしている。尾崎;シナから撤収するというならルーズベルトも交渉に乗るだろう。
(ルーズベルトはこの情報に喜んだが、国務長官のハルが、袖を引っ張った。ハルは日本政府(近衛)の統治能力に疑問を持っていたからである。東条陸軍大臣が陸軍を説得できるか否かにかかっている。
1940.9.25公一は、ようやく出来あがった日米協定の近衛案(シナ撤兵)を尾崎に見せる。尾崎は何も言わなかった。(尾崎も日本政府の統治能力・戦争抑止能力に疑問を持っていたのであろう)
・西園寺 公一(さいおんじ きんかず、1906年(明治39年)11月1日 - 1993年(平成5年)4月22日)は、西園寺家の嫡男 日本の政治家、ゾルゲ事件に連座して逮捕、有罪となり、公爵家を廃嫡となった。
映画;首相官邸(旧首相官邸が映し出される):東条陸軍大臣が可及的速やか近衛首相にお目にかかりたいという。近衛がお通しくださいという(陸軍すでにシナ撤兵はおろか、南進を決定済みだった。海軍同意。)
ヒットラーのドイツ侵攻をみて、松岡の締結した日ソ中立条約を破ってもソ連侵攻を実行すべきとそれはという反対論もあったが、ソ連の戦闘力の弱体化を待つべしと海軍が主張したという。陸軍、71万の兵力をもって関東軍特別演習を実施する。しかし、ソ連はパルチザン、冬将軍の到来で粘った。シベリア出兵の機会はなくなった。
映画;尾崎;御前会議(1941.9.6)で米国との外交交渉は10月下旬には断ち切る。対米開戦も辞さずという結論。冬になれば、シベリア出兵は、ナポレオンの二の舞だ。シベリア侵攻はないという。ゾルゲは、浅草雷門の前で、躍り上がる。「これで仕事は終わり、国へ帰れる」というと、尾崎が「ベルリンかモスクワか」という。(日本のシベリア出兵はないということで、東部兵力をスターリングラードに回すことができた)
映画;モスクワから「ドイツの対ソ戦にかんする日本の見解を報告せよ」と受信、なにをいまさらという声を後ろに、近衛が再登場した、その傍に尾崎がいる、情報はとれると、ゾルゲは飛び出していく。
映画;昭和天皇;日本のインドシナ進駐は、日米関係に悪影響を来たすし,國際信義上どうかという。フランスは、統治能力なく、このまま放置すれば、英米が占領することは間違いないと日本の進駐を促す。
映画;日本のインドシナ進駐は日米関係に緊張をもたらした。以下、宮城が聞いている米国ラジオ放送;アメリカは、日本への全面的石油輸出禁止令を発令、これは経済外交の一歩だ。近衛は石油輸出禁止令に衝撃を受ける。これは、日本経済に深刻な影響をもたらした。木炭バスが走る(戦後、木炭バスは僕の田舎でも走っていた。峠を越えるときは、まったくののろのろ走りであった)
満鉄本社「新情勢の日本政治経済に及ぼす影響調査会義」に出席、絶対によそに漏らしたらいけませんと「極秘」と押印した資料が配られる。(「ある反逆;尾崎秀実と生涯」風間道太郎著、1959年,至誠堂) 映画では、宮城が検挙されたときに「極秘文書」映像が出た。
映画;ゾルゲとオットードイツ大使がチェスをうちながら、ゾルゲ;日本における石油貯蔵率は、海軍が2年半、陸軍と民間が半年分、ゾルゲ;日本にはもう頼れない。ついに追い詰められた。米国が禁輸を続ければ戦艦はただの盆栽だ。
映画;西園寺公一;なんでシナから撤収しないんだ。日本はアメリカと戦争になる。日本は破滅だよ。きみがどんな立場の人間かは、わかっている。お互いにウソはなしだ。アメリカと戦争になったとき、日本は、ソビエットや中国(この時代支那ではなかったか)と交渉をしなければならない。その時君が必要なのだ。尾崎;日米開戦になり日本国民は塗炭の苦しみを負うことになるが、しかしこれを乗り越えなければ、日本の未来はない。
1941.015検挙、1943.9.29死刑判決(第一審)、1944.4.5大審院上告棄却、11.7処刑
享年43才。
尾崎の遺書;竹内金太郎(弁護士)宛(遺書)(前文略)
どうか先生から家内にお伝えの小生の死後にお願いいたしたく存じます。
一、小生死体引取りの際は、どうせ大往生ではありませんから、死顔など見ないでほしいということ。揚子はこの場合連れてこないこと。
一、屍体、直ちに火葬場に運ぷこと、なるべく小さな骨壷に入れ 家に持参し神棚へでもおいておくこと。
一、乏しい所持金のうちから墓地を買うことなど断じて無用たるべきこと。勿論葬式告別式等は一切不用のこと(要するに.私としては英子や楊子.並びに真に私を知ってくれる友人達の記憶の中に生き得れぱそれで満足なので、形の上で跡をとどめることは少しも望んでおりません)(後文略)(昭和19年7月28日 尾崎秀実 頓首再拝(尾崎秀実著作集第四巻、昭和59年8月20日 勁草書房)
尾崎の胎違いの弟、尾崎秀樹によれば「尾崎は学者しての道に精進しても、また評論家、ジャーナリストとして進んでも相当な業績をのこしえた人物だった。しかし彼はこのどちらの道もえらばず、私心をすてて政治の現実のなかへ、まっしぐらに飛び込んでいった。
「僕の『政治』への関心がどうにもならなかったのです。お察しください。大いなる時代かなかく思いかく行動(ウゴ)きたる我なるしかな」
日本民族を、戦争の破局から救い出す道かないかどうかを、彼は真剣に考えた。そしでそれがさけられないものと知ると、尾崎は、そこから退くのではをく、むしろ戦争を一つの契機としてとらえ、新しい社会へ道をひらくことを考えた。その意味では、彼のこころのなかには、つねに社会変革の要求がうずいでいたといえる。「大いなる時代」という表現には、民族の危機と、それを繁栄に切りかえる尾崎の夢とが、ふたつながらこもっていた。(尾崎秀樹 中公新書p81)
イチハタ