33年net諸兄姉どの(2022.09.18)
「佐渡島の金山」の世界遺産登録-日本政府は江戸時代の話だと云っているが、再び、徴用工問題で日韓関係が不穏な状態であるが、保守派の新大統領尹錫悦(ユン・ソクヨル)に期待したい。20年前に墓参に訪れたときには、カードが全く使えず、すべて買い物も、ホテルも、タクシーもすべてキャッシュであった。1970年代のロンドン時代、スペインを旅をして、すべてカードで済んだのに、これで観光地と云えるのかと嘆いた。
大島兄が佐渡島の旅をご披露頂いた。わたしは、戦後住んでいた横須賀で弟が脊髄カリエスにかかり、栄養を取らせないと死んでしまうと云うことで、父の里である相川に疎開、いわば戦後疎開をして4年間、相川小学校6年生、新制相川中学校3年6月まで通った。本籍も勿論佐渡相川にあった。大学に入ったときに戸籍謄本を出せというので、相川町役場に電話をしたら海が荒れていて一ヶ月ぐらいかかるという。この後も戸籍謄本が必要になるたびに同じことが起こり、面倒だと東京に移してしまった。我が家の寺は相川の一つ手前の沢根にある永松寺である。沢根は鶴子銀山のふもとの町で最初に佐渡奉行所がおかれた町である。言い伝えによれば、わが祖先は鶴子銀山の衰退、相川金銀山の興隆に連れて、江戸中期には田畑を寺に寄付し、相川に出て酒屋を営んできたそうである。父の遺言で遺骨は分骨して、この寺に葬った。昭和22年に上野駅からループのある上越線に乗り新潟まで7時間ぐらいかかった。当時の上野駅は浮浪児が大勢いて「くれよう、くれよう」と叫んでいた。
新潟から両津まで、まだ専用の客船はなくポンポンと音をあげる焼玉漁船で確か第八佐渡丸といったか、約2時間半かかった。両津から木材バス(のちに木炭、島を離れるころには天然ガスになていた)で力がなく、沢根から相川まで峠を越えるのは四苦八苦の有様であった。澤根から相川にはトンネルができていた。トンネルを越えて相川に降りる道には正中の乱(鎌倉時代後期の元亨4年9月19日(1324年10月7日)に、後醍醐天皇とその腹心の日野資朝・日野俊基が、鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件)で流され、元弘の乱(鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱)で切られた「権中納言日野資朝卿~」の白い大きな柱が立っていた。終焉の場所だったかもしれないが、今はないようだ。
相川には相川八景があった。やはり、イカををとる漁火が素晴らしい。当時はアセチレンガスを使っていた。春、黒潮に乗って北上する春イカ、秋、黒潮に乗って南下する秋イカ、春イカは柔らかい、秋イカは太って厚い。たまに大漁で取れることがある。町中イカだらけになる。とれたばかりの一夜干しのイカは素晴らしい食感だ。
ついでだが、伊藤伸夫君は、旧制相川中学なので、一緒になったことはなかった。彼は相川郵便局の長男で、大変な秀才であった。しかし、大学受験にかんしては、毎年、商学部、経済学部、法学部をうけ失敗、社会学部に受かった。4学部を受けたのは俺だけだ日頃から云っていた。話も面白かった。旧制中学では軍事教練の延長で学生を第一軍団、第二軍団とかに分けて行進をするとか競技をするとかしていた、俺は第一軍の団長だったが、三菱鉱山の所長が変わり、同級生に所長の息子が入ってきたら、そいつが第一軍の團長になって、俺が第二軍の団長に回された。不愉快だったなと云っていた。僕は中学1年の時に所長の娘がクラスメイトになった。無論、同級生には鉱山職員の娘たちも多い、まるで女王様扱いであったからよくわかる。昭和22年というと、すでに相川金山は堀つくし殆ど終わっていた。相川町は、人口8000人ぐらいになっていた。最盛期には5万人といっていたから、すさまじい衰退である。住まいの近くに「相川水金町」という名の場所があったが、まったくの草ぼうぼうの土地であった。かっての遊郭のあとらしい。相川湾の海岸に長いコンクリートの護岸を建設して内側に江戸時代に掘った金の採掘済みの廃鉱を掘りなおして近代的な精錬にかけて再度金をとるというなことまでも終わっていた。岸壁に囲まれた大きな長い安全な淡水池になっており、よく泳いだだものである。相川の海岸は金光をしている黄銅鉱が含まれ石灰石だけだった。最後にはガラスの原料として石灰石を砕いて船積していた。
行ってしばらくして、盆踊りで有名な「春日崎」に突然対ソ・レーダーを建設することになった。あっという間に工事業者がふえ、ジープが走り回り、米兵相手のバーができた。女性軍も押し寄せた。基地建設で町の景気は一変した。日本女性をwifeしたGIたちもやってきて借家にすんだ。こどもたがパンパンだとはやし立てた。小学校で校長が全校生徒を集めチャンとと結婚しているのだからパンパンなど云ってははいけないと訓示をした。その後墓参で行った時にはレーダーは、まったくなくなっていた。
閑話休題
相川に住んで以来、金に関する記事には目を光らすようになった。
例えば吉田孝の「日本の誕生」(p144 岩波新書 1997.5)では古代の日本列島では、古くは金・銀が産出しなかった。鉄も弥生時代にはほとんど産出できなかったが、古墳時代の中期ごろ、すなわち倭の五王のころから、朝鮮半島からの渡来人によって列島内でも大量に生産できるようになった、しかし金・銀は産出できなかった。 金・銀は人類の歴史にとって人きな役割を果たしてきた。とくに王の威信を高めるめる上で、金・銀のもつ機能は絶大であった。金・銀の供給を朝鮮諸国に依存していたことは、倭の王権の歴史に大きな影響を及ぼしたのである。聖武天皇は、完成まじかの大仏の前での宣明のなかで、この大倭国は、この天地開闢より以来、黄金は、異国から献上はすることはあってもこのくにには無いものとお思っていたのに、749年(天平2年)自分が治めるくにのなかの東の方、陸奥国の守、百済王敬福が部内の小田郡に黄金が出たと奏して献上してきた.これは「廬舎那仏の慈しみ福を賜う物にあり」と込べている。次いで、黄金の産出を人びととともに喜び、年号を「天平感宝」とする長文の宣明をを読み上げげさせたと云う。
なお、大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。
当時、日本にある金は殆ど大仏金箔のために使われた。
相川小学校の修学旅行は相川から徒歩で小佐渡迄歩き、両津の加茂湖を見学して帰ってくる、一泊二日の旅であった。その中で記憶にあるのは佐渡国分寺である。佐渡国分寺は741年の聖武天皇の詔によって743年-775年の間に建てられたと考えられている。天平宝字8年(764年)、『最勝王経』、『法華経』が施納。正安3年(1301年)、雷火で七重塔が焼失。享禄2年(1529年)にも伽藍を焼失したが、享禄4年(1531年)には再建された。現在のものは元の伽藍の東に1674年までに再建されたもの(websiteより)。佐渡最古の寺院である。順徳天皇も承久の乱(1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱)によって佐渡へ流刑とされ、佐渡で崩御した。真野院(火葬場、墓は京都にある)が残されている。行ってるはずだが全然記憶にない。没年:仁和3.9.12(1242.10.7)。更に、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。その関係で各地に能舞台がある。近くは北一輝の生誕地でもある。
しっかりと歩いてみたい無理かな。
イチハタ