アメリカの選挙戦も一段落したところで、
世界最初の大規模な覇権争いが始まるかも知れなかった話を送ります。
33年ネット諸兄姉殿
2020.09.26 NHKスペシャル大戦国史「激動の日本と世界」を見る(これはNHKのオンデマンドで見ることができます。)そこは我々若き日に読んだ「世界の歩み」(上下、岩波新書、林健太郎著)とは全く異なった話と景色であった。
15世紀以来、スペインやポルトガルはキリスト教(カソリック)布教と一体化した「世界征服事業」を展開。16世紀にはアジアにまで勢力を広げた。特に、1580年、スペイン王フエリペ2世がポルトガルを併合、スペイン帝国の誕生、布教&救済で進歩を齎すとコンキスト(征服)を指令、インドのゴアではいまだに3割がキリスト 400年以上もポルトガルが征服、ヒンズー教徒に改宗を迫り、拒否すると拷問にかけて改宗させた。また、征服が簡単でない国には、キリスト教徒を増やし、その末、反乱や革命を引き起こして政権を奪取、メキシコやフィリピンが典型例である。因み、フィリピンはフエリペ2世に因んでラス・イスラス・フイリピナス(フエリペの島々)と命名され、フィリピン国名の由来になったという。
長篠の戦;織田の鉄砲弾は鉛を使っていた。武田は銅銭を鋳つぶして使っていた。銅の弾は詰まりやすかったという。結果は織田の圧勝に終わった。鉛はなんと4000キロも離れたタイのカンチャナブリ県にあるカンチェブリー鉱山産のものだった。(カンチャナブリ県は第二次大戦中のマーチで有名なクワイ河がある。NHK朝ドラ「エール」のインパール戦場はこの西方、ビルマだ。しかし鉛鉱山による鉛毒被害は甚大で、日本の足尾銅山の鉱毒被害と同様な被害を齎して中止されているようだが、再開する動きがある。)
勿論、信長を助けたのは堺である。麒麟が来るでは妙な話になっているが、当時堺はパーツ毎に大勢の職人がいて鉄砲を製造、砂鉄の鍛造技術などを経て独自の進化を遂げていた。堺は軍需産業の拠点であった。当時の日本の鉄砲保有量は30万丁にも達したという。
信長とって、最大の敵は14年も戦っているのは顕如率いる大阪の石山本願寺であった。キリスト宣教師から見れば仏教は邪教とみなされていたことを利用して、キリシタン大名、摂津の城主、高山右近を味方につけ、本願寺を破った。
日本が軍事大国であることを認識した宣教師は、最大の目標は中国、明、世界一豊かな国の征服に向けて日本の軍事力を利用することにした。手始めに、日本教区の責任者であったフランシスコ・カブラルは信長をキリシタンに改宗させようとしたが信長は「われは神にならん」といい、宣教師は「信長は悪魔に取りつかれた」と戦略のたて直しを迫られたという。(人で最初に神になったのは織田信長である。信長は安土の摠見寺(そうけんじ)で自分を神としてまつっているという(梅里猛説)。なお、京都にある織田信長を祀った建勲神社は、明治天皇によって明治2年創建された。)
1582.6.14本能寺の変によりすべて変わった。宣教師は秀吉か光秀かの選択に迫られた。明智は暴君であるとして秀吉を支援した。山崎の戦は宣教師の影がうかがえる。高山右近は秀吉軍の先駆けとして戦った。
当時のアジアの海には、デマルカシオン(世界領分割)を国是として世界支配 を ねらうポルトガルとスペインが姿を現していた。秀吉は、両国 野望を知っていた。 秀吉は生前、信長に、ポルトガルとイエズス会は日本 征服しようとしていると話をしていたという(平川新著、 戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略 、中公新書 Kindle 版)
秀吉は、明はおろか天竺(インド)までも占領、後陽成天皇 を北京に移し、自身は日本船の船付場、浙江省の寧波(ニンポー)に居所を定めると云っている(同書)。秀吉は、 狂気かと思われる野望を持って、明への侵攻のために朝鮮出兵を命ずる。宣教師は明を征服するならば「我々の軍船を貸す、キリシタン大名は意のまま動くだろう」と協力を約し、1592年キリシタン大名を主力として朝鮮に侵攻する(文禄の役)。秀吉軍の進軍は素早く、現在のソウルまで達した。然し明の援軍によって膠着状態に入り、和平交渉が行われたが秀吉は承知せず、1597年第二次朝鮮出兵がなされた(慶長の役)(同書)
1587年7月24日秀吉はバテレン追放令を出す。布教活動もダメになった。下級民の信仰は認めたが、上級民の信仰は認めなかった。キリシタン大名には苦しい状況となるが、高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせたという。秀吉は吉田神道流の考え方をバックボーンにしていた。即ち、日本が世界の中心であって、万国の根っこ、ないし大元になっているという日本中心主義や神国思想は朝鮮半島や明国への侵略指向に密接なつながりが見えるという(「神道とは何かと」2003年PHP新書 鎌田東二著)。
秀吉は朝鮮、明だけでなく南方諸島に関心を持ち、1591年にはスペイン支配下にあるマニラのフィリピン 総督に驚くような書簡を出していた。即ち「 これ旗を倒して予に服従すべき時なり。もし、服従するを遅延せば、予は速やかに征伐を加うべし。 後悔することなかれ。 すみやかに使者を派遣して服従せよ。もし、遅れば軍隊を派遣 する(平川新、同書)」。
秀吉は、フィリピンからスペインに運ばれる金に目をつけ、これを収奪して朝鮮戦争の費用に充てようとしたといわれる。
両者の緊張は高まり、最初の世界大戦が始まるかと思われた。が、1598年フイリペ2世の急死、続く1598年秀吉の死によって全ては終わり、家康の時代に移っていった。
400年前の話ですが、筋立ては大東亜戦争を連想させる。両者が生きていたら東アジアの景色は全く変わったかもしれない。
イチハタ