12月24日(金) 20:34
1965年10月6日、私は秩父宮ラグビー場でトライを決めた。球児なら甲子園でホームランを打ったほどの快事である。
私がラグビーを始めたのは25才の時である。出光に入社し、最初の赴任地仙台から東京に戻った途端にラグビー部に引っ張り込まれた。私にはラグビー経験はなかった。ただがたいだけを見込まれたのである。
出光ラグビー部は出ると負けの弱体チームであった。出るのは石油会社同士のオイルメンリーグであった。当時日本石油、三菱石油、丸善石油、大協石油など多くの石油会社があり、リーグを結成していた。
使用グラウンドは多摩川の河川敷が多かった。勿論芝生など無く、吹きさらしで、更衣室も洗面の水道も無かった。試合が終わって新丸子の銭湯まで歩くのであった。
しかしだんだんに強くなり、1965年にはオイルメンで3連覇するまでになった。
オイルメンの他に東京海上、東京銀行などとの定期戦も組んでいた。
たまたまこの年東京海上が損保リーグで3連覇し、それを記念して特に秩父宮ラグビー場での対戦が許されたのであった。
憧れの秩父宮で、芝生の上で、しかもナイターで、夢の中であった。
私は30才、10月6日はたまたま私の娘の生まれる予定日であった。生まれようがどうしようが試合に出るぞと宣言していたが、娘は5日に生まれてくれた。いや妻は5日に産んでくれたというべきか。
この記念すべき試合で、ロートルで鈍足FWの私が長駆ボールを追って相手ゴール内に押さえたのである。
あのボールの感触は生涯忘れない。
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