大島兄の佐渡紀行を読んで、我が佐渡行きを思い出した。
まだ独身時代だから1960年頃だったろうか。
当時私は出光興産関東支店潤滑油課で船舶用の潤滑油を担当していた。船舶は漁船も含む。ある時新潟県漁連を訪問してアポロ印の漁船用オイルの取扱い増加をお願いした。そして足を伸ばして両津漁協を訪問した。
これは本来必要のないことで、取引は県魚連てあり単協には購入権はない。しかし折角新潟に来たのだからついでに佐渡に行ってみようと思ったのである。もとより港に行く、舟に乗るのは私の固疾である。
単協は元売りの技術者がわざわざ回ってきたといえば悪い気はしない。歓迎してくれてその夜は一杯やったのであった。
これが私の佐渡の思い出である。単協の潤滑油くらいのことで、わざわざ佐渡まで行くのは全く余計なことであった。帰って課長は何も言わなかったが、同僚は笑っていた。
船舶用の潤滑油販売とは例えば石川島播磨の設計部を覗いて、ラインに乗った受注船リストを見て、その船主にオイルの採用を売り込みに行くのである。船は竣工時に入れた潤滑油をずっと使ってくれる。
郵船とか大阪商船といった大手はオイルの各メーカー毎の割り振りも大体決まっていて、若僧が営業に行ってもあまり相手にされないが、丁度この頃列島埋め立てブームで、浚渫船が続々と造られた。浚渫船会社にオイルの色は付いていないので次々に売込み成功して大いに成績を挙げたのであった。
ある造船所を訪ねた時、そこが捕鯨のキャッチャーボートの捕鯨機を作っていることを知った。これは銛を打ったあと、ロープが絡まないように素早く本体を引き上げなければならない。それを油圧でやるのが当時の新機軸であった。それまではギアだつたのだ。
その油圧にどんな油を使っているのか聞いたら冷凍機油だという。南極の気温から考えたのだろう。待ってくださいよ、南極と言っても海水はマイナス2度か3度でしょう、冷凍機油はオーバースペックですよ、と別のオイルを推薦した。テストしたら10秒以上短縮された。大成功であった。
佐渡からあちこちに思いは飛んだ。
さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉
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