P大島昌二:南博著『学者渡世』から学んだこと2021.2.13
👇冒頭部分省略
さて南さんのページを読んで私は忘れていた一冊の本を思い出した。それは『学者渡世——心理学とわたくし』という南さんの自伝である。「学者渡世」という剽軽で砕けた題名はいただけないと思ったせいか、あまり読まずに積んであった。ところが小駒さんの記録を読んであらためて手に取ったところそんなことはない。この題名は江戸っ子風の軽みに出たもので、これほど真摯で嘘のない本は珍しく、教えられることが多かった。そこで私の「大塚会会報」への寄稿の後半はこの本の読後感にしてしまったのでそれをほぼ原文のままここにご紹介したいと思う。
南さんの『日本人の心理』は私が大学に入って最初に読んだ本、それも珍しくすらすらと読めた本であった。南さんは国家公務員でありながら当時国交のなかった中国へビザなしで入ったと言うことで新聞を賑わせた人だった。アメリカのコーネル大学で博士号を取り、講師を務め、戦後になって帰国した学者で、どこから出たものか、アメリカではデートの相手をよく代えた艶福家であったという噂もあった。
当然、私は南さんの講義を聴くことにしたが2度ほど講義を聴いたところで2度ほど休講が続いた。あるいはかなり遅れてきたのかもしれない。休講の掲示板を見たのではなく教室で待っていたような気がする。言うなればドタキャンだから私は腹を立ててそれから出席するのをやめて試験だけを受けた。それでも先生から教わったことは幾つか記憶に残っている。「下意識」 (subconscious)について初めて知ったのは南さんの講義であった。条件反射らしい、人が驚いた時にはどんな姿勢になるかについては黒板に絵をかいて説明された。一年間出席しても後に残るのは先生のしぐさや片言隻句でしかない場合が多いことを思えば、生意気を言わないで講義の出席を続けるべきだった。
『学者渡世』を開くと当時の先生の事情が合点される。先生は戦時中アメリカに敵性外国人としてコーネル大学に留まって研鑽を積み、1947年の春にアメリカの軍用船で8年ぶりに帰国した。南さんの赤坂の家は戦後親類や知人の13家族が住んでいて家族は鎌倉にいた。47年と私が入学した54年の間に事情は変わったかもしれないが「(就職した商大の)予科は小平にあったから、鎌倉から通うと二時間以上かかる。しかしあの当時だから、二時間、三時間の通勤は当り前のことで、とにかく帰国して一年以内に就職がきまったのだから、まことに幸運であった」と書いている。しかし同書にはまた俳優座養成所で心理学の講義を続けたが、その勤続を千田是也に「僅続」とからかわれたと書いてあるから多忙もあったに違いないと思う。
中国への「密入国」についての説明は私の記憶(あるいは当時の新聞報道)とはいささか様子が違う。1952年の9月から10月にかけての北京への旅行は『中国―ヨーロッパを追い越すもの』という北京滞在記を出したがもう自分の手許にもないという。そこで後年改めて『話の特集』(1972年12月号)に書いたものによって説明してある。その題は「北京への道は遠かった」というものでそれを読むと往路ばかりでなく帰りの道も実に遠かった。簡単に説明すると、南さんはパリで2つの国際会議に出席した際にパリの新聞に「日本政府は日本からの出席を認めない」と書いてあった北京のアジア太平洋地域平和会議に出席する気になった。パリから北京へ飛ぶ唯一のルートがベルリン経由であることを知り、フランクフルト、ベルリン、モスクワを経由して北京に到着した。東ベルリンではソ連の通過ビザを容易に貰えなかったので中国の駐在事務所にソヴィエト政府あての文書を書いて貰い、ロシア語の申請書を出すのに代書人を雇うなどの苦労を重ねなければならなかった。帰途は、せっかく北京まで来ているので香港経由で帰るつもりで北京駐在のイギリス領事にかけあったがらちが明かず、帰りもまた往路と同じモスクワ、東ベルリン経由で、西ベルリンから日本へと2週間ぶりで帰った。
南さんのビザなし旅行の顛末を説明するつもりで、まずその長々しい旅程を説明しなければならなかったが、密入国の日本での結末は簡単に説明できる。羽田空港について外を見ると大勢の警官が見えた。はては自分のことかと思ったがそれは密出国して平和会議に出席したと断定された中村翫右衛門たちのことで南さんは参考人として聴取を受け、日記やノートを取り上げられただけだったという。
そのころ新中国にはハエがいないといった話が日本で真剣に議論されたが、その発信源は南さんらしい。「泥棒がいない、よっぱらいがいない、蠅がいない、麻雀をやらない、阿片を吸わないなどという事実を、どうしても受け取れない人たちがたくさんいて、いずれも、ぼくが中国の提灯持ちをしているといった。」中国が新中国になって「輝いていた」時代であっただろう。ただ南さんは序文に「中国に感心してばかりいられない」、「中国を地上天国であるかのような、べた惚れで考えるのは危険です」と書いており、その姿勢は今でも崩したくないと書いておられる。
北京入りするためのソ連の通過ビザを手にするために南さんは意地悪なソ連の役人にてこずっているがそこで私もある経験を思い出した。私は1970年に英国の会社に就職して渡航する時に、時間もあることだしシベリア鉄道でゆっくりとウラル山脈を越えてヨーロッパへ行く計画を立てた。当時の旅券には渡航を許される国名だけが列記されていてその中に共産圏は入っていなかった。そこで私はソ連入りのビザを申請しなければならないのだが、その申請書の記入が詳細を極める上に同じ書類を何通も提出しなければならない。カーボン紙を使わせればすむものをそれもダメだという。私はその先にどんな妨害が待っているかと思ってあっさりあきらめてしまった。その腹いせだったのだろうか、私の手元には提出時に必要な、受理番号のついた「共産圏渡航趣意書受理証」という紙片が保存してあるのを見つけた。
残念ではあったが私の場合は発想からしていい加減だった。しかし、南さんの場合は筋金入りと言ってよい。米国との開戦の翌年、交換船で帰国する機会を断って、敵性外国人として行動の自由を奪われた状態で(本人は軟禁と表現する)アメリカ滞在を続けた。コーネル大学の教授や友人たちは親切な心配りをしてくれた。戦争が終り帰国する時は、列車でニューヨークからシカゴ経由でサンフランシスコへ行き、そこからは横揺れのひどい軍用船でハワイを経由して横浜への長い航海をした。あてがわれた船底の大部屋は強制送還される中国人労働者と一緒で船酔いの苦しみに耐えなければならなかった。小田実にブレイクスルーをもたらした快著『何でも見てやろう』が出たのは1961年であったから南さんはその先駆者だったことになる。
私の些末な疑問は以上で解けたが、この機会に『学者渡世 心理学とわたくし』を通読できたのは大収穫だった。私が抱いていたもう一つの疑問、なぜ南さんは都留重人や鶴見和子・俊輔姉弟のように交換船で帰国しなかったのかもこの本を読んで解けた。南さんは京大時代に何人かの親友を獄中で失っており、日本では自分が要注意人物であり、帰国すれば何らかの形で戦争に協力するか、投獄されるかであり、それよりは亡命生活を望んだという。
『学者渡世』にはその副題の示すように先生の心理学とのかかわりばかりでなく、生い立ち、交友、京都大学での研究、戦後の国際場裏での活躍などがわずか230ページほどの中に網羅されていて興味が尽きない。心理学という学問体系が膨大な広がりを持っていることも教えられる。私が初めて南さんを教壇に見上げた時、先生は40歳の助教授であったが、その時、すでにコーネル大ではゴキブリを使った「記憶痕跡」の研究などで成果を上げ、シカゴ大学から招聘の声がかかるほどだった。
帰国の際は理由のわからないままに、マッカーサー司令部からなかなかビザが下りず、しばらくニューヨークで待機しなければならなかった。その機会を利用してコロンビア大学の講義を聴講したりした。その短いニューヨーク滞在時に行き合った人々のスケッチも記録に値する。南さんは書いていないが1948年にアメリカで客死したイェール大学教授の朝河貫一もそのころ異国の病床にいたのかもしれない。朝河の父は戊辰の役で敗れた二本松藩士、南さんの祖父もまた二本松藩士であった。
日本文学について造詣が深く多くの日本人読者を持つドナルド・キーン氏がコロンビア大学で教えを受けた恩師、角田柳作を敬慕する気持は魯迅が仙台時代の藤野先生を回顧する心持に似ている。キーン氏の書いたものからただ幻の面影しか伝わってこなかった角田教授はコーネル大学を訪れたことがあり、その折に南さんは何日か話す機会があり、アメリカにおける日本研究の状況について教えを受けたという。角田教授はまじめな研究の話の合間に突然、下世話な話を挟まれることがあったという。その話題を読んで、それまでの幻のようだった先生が急に息を吹き込まれた生命となって眼前に現れる思いがした。
日本研究ではルース・ベネディクトの『菊と刀』がよく知られている。南さんはコーネル大学時代に、ある高名なアメリカの人類学者が政府に提出するという報告の原稿について意見を求められたことがあった。それが『菊と刀』の原資料であったことは戦後になって知った。ベネディクト教授は当時コロンビア大学で講義をしていたはずである。一度だけ大学の図書館で気品のある美しい教授が静かに歩いているのを見ただけで講義を聴く機会を失したのは残念だった。『菊と刀』は『日本人の心理』を書く一つの動機となった本であり、一度でもいいから会って話したいと思っていた人だった。
1947年2月、ようやく帰国の許可が下りたころ、まだ許可の下りない石垣綾子を通してアグネス・スメドレーから尾崎秀実(ほつみ)の家族へのプレゼントを預かった。スメドレーはゾルゲ事件で刑死した秀実の後に残された夫人への贈り物について「ミセス・オザキによろしくね。日本の冬は寒いでしょうから気をつけるように、伝えてちょうだい」といった。南さんは帰国してから一番先に訪ねて行ったのは尾崎家であった。夫人が「ありがとうございます」と言って取り出したのは暖かいオーバーでそこにスメドレーの気持ちがそのままあらわれていた。スメドレーは中国で八路軍と行を共にして辛酸を分かち合い、朱徳を主人公にした『偉大なる道』を著している。南さんはスメドレーの辛辣な口吻をおぼえていた。「あんた、蒋介石がリベラルになろうなんていうのは、ハリウッドの女優が、また処女になりますというのと同じなんだよ」。
安保闘争の折に安保反対運動の中核として脚光を浴びた「国民文化会議」が設立されたのは1955年7月であった。この会は「総評、社会党、共産党の文化運動とその他の文化団体の連絡協議機関であると同時に、文化運動を特定の政党や労働団体の枠をこえた、国民的な土台の上に進めていこうという意図で作られた」。そこでこの会議の事務的な面を担当する者として、戦前戦中の文化運動にコミットしなかった南さんがいわば中立的で世話役に向いているという理由で選ばれた。上原専禄に会議の議長をお願いしたのは南だった。「先生は世俗的なことに超然とした態度をとっておられ、政党や団体の間のイデオロギー的な文化政策の争いをこえたところに、国民のための文化を求めておられた。ぼくにとって、一橋大学の同僚であるというよりも、学問と思想と人生の師として尊敬する上原先生の下で、この会議の運営にあたることは、事務的、政治的なわずらわしさを忘れさせる魅力があった。」南さんの社会的な活動は多岐にわたっているが立ち入った記述のあるのはこの国民文化会議と、「日本文化研究の理論と実践の場になった」伝統芸術の会である。
「安保批判の会」の世話役をしていた南さんは安保反対のデモに加わり、深い挫折感を味わった。そのころの心境を短歌にしているが驚くほど若々しく、また珍しくもあるのでここに紹介しておきたい。
「けんりょくに たちむかふあさ ふゆのあさ ほりのふかさを はかるはなうた」
「きずつける わがむねにこそ いまはとふ かくめいのうた とおざかるあさ」
私が南さんのお宅を訪ねたのは安保闘争の直後ではなかったかと思う。渋谷の南平台であったと記憶している。私はコーネル大学のドクターである南さんに英文の推薦状をお願いし、先生の署名を頂戴するために参上したのであった。玄関を入ると若い笑顔の女性が現れた。その笑顔が素晴らしいので私は「きれいなお手伝いさんだなぁ」と思ったのであったが後にそれは『学者渡世』の末尾で感謝の言葉を贈られている「ライフパートナーのE・A」、つまり東恵美子さんであったと納得したのである。『学者渡世』には、あれもしたい、これもしたい、というテーマが溢れている。おそらく未完成のまま残されたものも多かったに違いない。本書の出版は1975年 先生の没年は2002年であるからこれは未完の「研究自叙伝」である。
晩年といってよいと思う、先生は講師として招聘されたクルーズ船「飛鳥」の船旅をたいへん楽しまれたという。それにE.Aさんも乗船されたかどうかはうっかりして聞き忘れた。私は本書を読了することによって少しばかり往年のご無礼の埋め合わせをしたような気持になっている。
Q森正之:南博先生『学者渡世』感想 2021.5.5
P大島昌二さんのお蔭で『学者渡世』を読む機会を与えられ、教壇上の南博先生がいかに時間をこじ開けて小平に通われたか腑に落ちました。 先生が休講の多い理由や弁解を述べられた記憶はありませんが、他の先生と段違いに休講が多く、当時私はフロイトや宮城音弥、林髞等の著作を読み漁っていたので、いつも残念な気持ちを抑えられませんでした。
前期試験でぼくは率直に「休講の心理」という題で「売れっ子心理学者」の心理分析を試み、後期は「心理学の流行」の題で「心理学は学問(科学)だからマスコミや大衆向け出版物の流行は間も無く冷めるだろう」という趣旨の常識的なレポートを出しました。
「学者渡世」を今回初めて読んでいちばん驚いたのは、京大哲学科教授「九鬼周造」を南博先生が「恩師」としていることでした。「九鬼周造教授」は全くの初耳でした。
「学者渡世」で九鬼周造にふれた箇所は下記です。(太字「」等加工)
① p.24-13行目 「・・・もっと直接的に、ぼくを動かしたのは、九鬼周造先生の『「いき」の構造』(1930、昭和5年)であった。『「いき」の構造』の場合には、著書から受けた影響だけではなく、直接、九鬼先生に会う機会があり、ぼくが京大で自然科学を土台にした「下からの哲学」をめざしたいという気持を聞いていただいた。」「それから四十年以上たった今日まで『「いき」の構造』は、ぼくにとっては、座右の書であり、最近、四十年ぶりに、『「いき」の構造』について文章を書き、また『九鬼周造全集の月報に、先生の人間像を語ることができたのは、望外のよろこびである。」
② p.29-8行目 「九鬼周造先生は、『「いき」の構造』で知られるだけでなく、当時から学生の間で、先生の生活そのものが、「いき」であるということになっていた。学生たちの噂話は、たわいないもので、南禅寺の近くにある先生のお宅に行くと、いつもきれいな女性がいて、それも時々かわるとか、先生が祇園のひとたちを大勢つれて、東山のダンスホールに行ったとか、うらやましいようなことばかりである。」
③ p.51-11行目 「それにつけても、九鬼周造先生が、あの当時、1938年2月号の『文藝』に発表された和歌、「京の冬」が胸を打つ。 教へ子の囚はれて無き家訪へば比叡の山は冬空に澄む ここに、九鬼先生の、知られざる人間的な苦悩がうかがわれるのである。」
④ p.149-11行目 「九鬼先生のことは、前にも書いたが、日本の生んだ最もオリジナリティのある哲学者であり、京大時代の恩師でもあった。先生の生活そのものが、いきであり、その書かれたものも、哲学が本来もっている「いき」な精神を、みごとに表現している。学生時代以来、ほぼ四十年にわたってぼくが座右の書としていたこの本の解説を書き、その上いくらかの批判を加えまた感想を記して、師恩に報いることができたのは、感無量である。」
⑤ p.203-13行目 「・・・1980年に、発表した『日本人の系譜』(講談社)で、明治以後現代に至るまでの主要な日本人論を批判的に取り上げてみた。明治期の福沢諭吉、和辻哲郎の『風土』、九鬼周造の『「いき」の構造』・・・」
南博先生は慶應幼稚舎出身で、「幼稚舎時代、子どもなりに、福沢諭吉の思想と人格から大きな影響を受けた」(p.12)と記しています。その南博先生が福沢諭吉と九鬼周造を同列(同格)視している!
森はそれで、九鬼周造の代表作『「いき」の構造』を青空文庫で探し読解に挑戦しました。そして、その論理的なこと、例証の必要かつ十分なること、また情緒的にも人間の五感もしくは第六感に直接的に響くことに驚嘆しました。更に言えば、文章は平易で、ふつうの哲学書や禅の解説書のごとき難解さが微塵もないことに敬服しました。言ってみれば、南博先生の書物と酷似しているのでした。
九鬼周造『「いき」の構造』全文 1930昭和5年☚ ☚青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000065/files/393_1765.html
九鬼周造「いき」の構造 松岡正剛千夜千冊2002年12月27日
南博先生をもっと知りたくて、ネットを探しましたら、なんと如水会12月クラブの中に、南先生の「学者渡世」講演筆記録が出てきました。「学者渡世」は出版物なので編集者(文藝春秋)の影が窺えますが、これは、目の前の聴衆との合作のごとき感があります。しかもここでは「上原専禄」にかなり割いていますが「九鬼周造」には一言も触れていないのです。
一橋の学問を考える会[橋問叢書 第四十七号]『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として 一橋大学名誉教授 南 博
https://jfn.josuikai.net/nendokai/dec-club/sinronbun/2005_Mokuji/Kyoumonsousyo/dai47gou/GakusyaTosei.htm
この講演会で南博先生が九鬼周造にまったく触れないのは、聴衆が南先生と九鬼先生の関係を知っていたからだと思います。つまり南先生は九鬼先生を常時胸に抱き、南先生の一言一句は九鬼先生のコトバと同じであることを聴衆が知っていたのではないでしょうか。この点、南ゼミの皆さまから伺いたいと思います。
反安保デモの先頭で指揮を取られた南先生の魂のマグマは、二本松にルーツをもつ父親譲りのものでしょう。一橋大学には反権力のDNAがあります。『学者渡世』を読んで南博先生こそ代表的一橋人の一人と確信しました。
森 2021.5.5
[付記] 南博先生は本書を81歳で上梓され、2001年1月87歳で大往生されました(wiki)。
『学者渡世』では一人称がすべて「ぼく」で、中学生でもわかる日本語でていねいに書かれています。Amazonの中古品が手に入りました。135円+送料です。
今回、2回読みました。2回目は付箋に書き込みながら頁を追いました。付箋は剝がさずに本棚に並べようと思っています。
以上
1957年秋 南博先生 研究室にて 昭和33年卒業記念アルバムより(森正之撮影)