P大島昌二:志賀高原 志賀山周辺の沼・池・湿原2日旅2019.8.27
前回の尾瀬高原歩きに続き、今回も「消え去るようなことはせず、限界を見つめながら後尾から後を追っている老兵の姿」が目に浮かび、「俺も頑張らねば」と励まされた。9人グループの中で筆者は高齢者の上から2番目とのことだが、写真0797の草原で楽しそうに弁当を食べている元気な方々が、この山歩会メンバーか? 夜は40/50人収容能力のありそうな山のホテルを9人グループ貸切状態で、大量の日本酒を飲み干したとか、飲むことも老人が元気を保つ秘策かな? でも僕は最近すっかり弱くなり飲める量は激減、飲みたいという欲求も毎日は生じなくなったのは残念だが、これは自分はアル中ではなかった証拠か。
筆者はこれまで志賀高原に何度か行かれているようだが、僕は学生時代に一度行ったきりである、スキーはせず、山登りの趣味もなく、また卒業後60年間のうち20年は海外で、20年は当地(岡山県の山間部)で生活しており、考えてみると僅か20年間しか東京には居なかったためでもあろう。大学へ入学した年の夏休みに、妙高高原の一橋ヘルマチ山寮の帰途に立ち寄ったのが、生涯只一回の志賀高原体験になってしまった。
今回の筆者のレポートを読み、数々の美しい風景写真を見せて頂いたが、僕は65年前に一泊2日しただけの体験だから、レポートに登場する地名や景色は殆ど記憶にない。憶えているのは、初日は国鉄長野駅から長野電鉄に乗り湯田中で降りて、そこからバスで「熊の湯」へ行き、そこの温泉に一泊、翌日はバスで高原のあちらこちらを廻って夜遅く信越線で上野に辿りついたことだけ。五色温泉以外の地名は思い出せず、今回筆者が行かれたコースとはどの程度重なっているか、或いは異なっているかは全くわからない。当時、殆ど整備されていない山岳地の危なっかしい道路を長距離・長時間、バスで動いたのはスリル満点だった。それまでバスは電車と同じように平地を移動する交通手段だと思っていたので、このバス旅は自分にとっては素晴らしい印象的な体験だった。
上記の「ヘルマチ山寮」とは、当時の法学部長 Herr Machida (町田実秀教授)が大学に寄付されたと言う大きな山小屋で、ご記憶の方も多いと思うが、そこで体育実習する(4-5泊する)と前期の体育単位の時間に数えられた。序だがヘルマチ先生は当時かなりの資産家だったようで、一度P組の仲間3-4人と先生の麻布の豪邸にお邪魔したことがあったが、学生との距離間を短くすることに努めておられた人気のある先生だったように記憶する。小平では学生全員が「法学通論」の講義を聴かされたはずで、僕は確か「良」をくらったが。
今回の筆者のレポートを読んでいて突然蘇ってきた古い記憶だが、「大学一年生の少年が大学の先生からお金を借りて志賀高原で遊んできた」として母親から酷く叱責されたことを思い出した。ヘルマチ寮での実習を終えて東京に戻る時に親しい友人の間で志賀高原に立ち寄ろうとの話が持ち上がった。しかるに当然のことではあるが、貧乏学生の僕の財布の中には充分な現金がないことに気が付いた為、友人に断わりを入れていたら、引率で付いて来られていた体育の鈴木先生が傍でそれを聞いていたようで、「お金を貸してあげるから皆と一緒に志賀高原に行ったらどうか」と言って、ご自分の財布の中から千円札を1-2枚出してくれた。千円札の価値が非常に高い当時のことだから、その親切な言葉に乗り、志賀高原で遊んで自宅に帰って、経緯を気軽に母親に話したら、明治の女の哲学で「息子はとんでもないことをしてきた、親がお詫びに行くべきだ」として、母親は翌日阿佐ヶ谷の鈴木先生の邸宅に行って借金を返してきたのである。
IT専門家である当ネットの管理人に依れば、「筆者は脳内テキストをスマホに吹き込んで、AI自動テープ起こし器でメールに出力するという芸当をされたようだ」とのことだが、今の時代こんな便利な器械が存在するとは知らなかった。それにしてもこういう新兵器を使いこなすのは簡単なことではあるまい。年寄りには難事に違いないが、筆者が旅レポートをかくも短時間で発表出来た真相を知りたいものである。
以上
******管理人2019.8.29*************************
戸松さんのご感想・回顧談さっそく有難うございました。
なお「脳内テキスト云々」は管理人の冗談です。悪しからず。