小平時代の英語の時間に教科書から脱線して、映画などの面白い話題で生徒たちを陶酔させた先生が居たことを思い出した。僕は筆者とは同じ教室で勉強していたが、ここで例示されているような先生は凄く人気があり、友人に代返を頼む必要がなかったように記憶する。
列挙された39本の世界の名画のうち僕は10本ばかりの題名をよく覚えており、実際に映画館へ行って観ていた筈だが、内容とか主演俳優を今思い出せないのは、老化現象のためか。老人惚けは新しい記憶が消えるだけで古い記憶は残っている筈というから、これら10本の映画の詳しいことが思い出せないのは、当時自分自身それらの映画を本当に観たくて観に行ったのではなく、勉強以外に他にする事がないから、映画館で暇つぶしをしていた為かではなかろうか。
高校時代の友人に映画気狂いが居て、「スクリーン」などという洒落た雑誌を毎月読んで、都心の高い映画館へ行きロードショウばかりを観ていた羽振りの良い男のことを思い出したが、僕は五反田とか恵比寿辺りの場末の映画館で二本立て、三本立てを観るのが精一杯だった。
題名をよく覚えている10本は、本文に掲載された表で見る限りいずれも1940-50年代の作品である。という事は社会人になってから僕は余り映画を見ていないということだろうか。豪州とか米国に滞在していた頃は、星空のもと広い野外劇場へ車で家族で何度か行ったが、これは子供たちのお守りであり、自分自身映画を観ることが目的だったのではなかったのか。リタイア後、田舎での暇な生活が始まった頃には、世の中から映画館が消えてしまっていた為か、それとも世の文明社会から隔離された超過疎地には元々映画館はなかった為か、映画はテレビで懐かしの名画を見ているだけで、映画館には全く行っていない。
テレビと言えば、日本で放送が始まったのは確か我々が入学する前の年だった。一年生の時にP安田君の豪邸で初めてテレビを見た時、魔法のスクリーンに驚嘆したことは今でも忘れられない。テレビはその後も4-5年間は庶民の家庭には縁遠い存在で、僕が就職した初めの年の6月ボーナスを叩いて一台調達し親にプレゼントしたことを思い出す。名前に反し出来の悪い息子が親孝行したのはこれが一回限りのことだったのでは。
戸松孝夫
iPadから送信
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
森正之 2020.2.17 21:04
映画というと、小学生時代の「無法松の一生」、中学生時代「羅生門」を姉と観た記憶が鮮烈です。
「八甲田山」「剣岳・点の記」近くでは「はやぶさ 遙かなる帰還」。これらは、原作や脚本、関連書籍を読みました。
バーグマンの「誰が為に鐘は鳴る」をQ上原次男君と観た記憶も懐かしい。