たいへんな時代に突入しましたがお元気のことと思います。
私はコロナ休暇中に大人しく日本の小説を読みました。
目に見えない敵におびえながら久し振りの経験を楽しみました。
最近は何ごとも忘れやすいので忘れないようにメモを作成しました。
後になれば記憶に残るのはここに書いたことだけという事になりそうです。
大島昌二
鴎外の子供たちから漱石の娘たちへ
森鴎外(1862~1922)には先妻との間に一人の男子(於莵)、後妻(志げ)との間に二人の娘(茉莉、杏奴)と末子に男子の類の三人がおり、ほかに夭折した男子(不律)一人がいた。このうち小説家として、娘二人はいくつかの作品を残しているが末子の類には作品はあるものの世に知られるものは少ない。
私はかなり以前に森茉莉の『恋人たちの森』を読んで欧文調の風変わりな小説だという記憶を残していた。今その梗概を読むと私の記憶は実に頼りないものに思われるのであるが、フランスに滞在する茉莉の生活日記風のもので同じ頃をパリで過ごした日本の知識人数人の言動の非紳士ぶりを批判的に描くものであった。日本の代表的なフランス文学者である辰野隆も実名で登場して槍玉に挙げられていた。私が風変わりと感じたのは当時の日本女性として「男を男と思わない」醒めた西洋風の視線をもっていたからである。私は小平の寮食堂で辰野隆の講演をきいたことを記憶している。
今回、私がどちらかというと敬して遠ざけていた鴎外を振り返ることになったのは、鴎外亡き後、一族から村八分にされた末子の森類が描く森家の人々を読んでのことであった。類がそのような立場に置かれたのは、彼が森家の人々、とりわけ二人の娘の知られたくもない、あるいは知られる必要もない、女性の品位に関わると受け取られることを随筆に書いたからであった。類の随筆を読むかぎりでは彼に悪意があったとはさらさら思えない。それまでの類は二人の姉、とりわけ離婚後の茉莉とは仲がよく茉莉のパリ留学にも同じ画学生として同行しているほどだった。ついでに書くとパリでの先生は藤島武二だった。
森姉妹がとりわけ憤然としたのは、茉莉が自分の鼻先の皮膚の肌理が粗いことを気にしていつも念入りに化粧していたことを暴露されたことだった。今の世であれば茉莉はすぐにも整形外科へ行って悩みを解決していただろう。類はいかに親しかったとはいえ女心を踏みにじって平然としていたのである。
問題となった随筆は昭和28年の雑誌『世界』に掲載された「森家の兄弟」である。当世風に言えば類は姉妹のプライバシイを侵害したのである。それを読んだ姉妹との間で悶着が起り、プライバシイの侵害が子供達にまで及ぶことを恐れた杏奴が類に対して、今後森家のことは書かないことという要求を出し、それを類が拒否したのであった。結局、「森家の兄弟」の続編は岩波書店の小林勇が乗り出して掲載されなかった。
杏奴は作家として売れだしていたし、ましてや鴎外の息女である。岩波は戦後まもなくして鴎外全集を出しているがその時期にも遭遇していたかもしれない。小林勇が杏奴の味方をするのはわかるが類に対するその態度の大きいことはこれが岩波の重役かと驚かされる。類は食事に呼び出されその席で原稿を突っ返されたうえで粘る類にこう言い放ったという。
「そういうことを言うならぶっ潰してやる。鴎外がえらいんで、君がえらいんじゃない。いばるな。絶対に載せない。」
執筆の機会を左右する力のあった当時の編集者が権威を持っていたことは知られているが、これはひどい。
類が相談を持ち掛けた佐藤春夫の斡旋で問題の原稿は『群像』に載り、続いて昭和31年に光文社のカッパブックスの一冊として上梓された。かつては華々しかったカッパブックスも今では忘れられたようで手に入らない。私が読んだのは三一書房から発行された『森家の人びと―鴎外の末子の眼から』に収録されている同じ題の随筆のほか「森家の兄弟」、「鴎外の子供たち」でいずれも単行本の素材になったものと思われる。
森類が描いた森家の人々を読んで合点したことは茉莉が、いつ、どのような理由でフランスに渡って『恋人たちの森』にたどり着いたかということである。不思議なことに森家の人々の動静はまた、史伝に到達して以来私が敬して遠ざけていた森鴎外という作家を少しばかり身近なものにしてくれた。これはひとえに森類が森家を戦後のインフレーションに襲われた普通の家庭の普通の家族として描いてくれたからである。
夏目漱石(1867~1916)についても鏡子夫人の『漱石の思い出』が小宮豊隆を盟主とする漱石の取り巻きたちとの間で物議の種となっている。家庭内暴力に耐えた鏡子夫人は逆に悪妻のレッテルを張られてしまっている。これはずっと後年になって漱石の娘や孫の証言によって覆されたがどこまで周知といえるかわからない。これとは別に、遺族たちが「夏目漱石小説集」を商標登録しようとして失敗したことも知られている。遺族たちが、著作権が切れた後の印税を確保しようとしたのである。時代は違うが森家では虎の子であった戦時国債がただの紙切れになってしまうという悲劇を味わっている。
ここで漱石の孫娘である半藤未利子(まりこ)の文章(毎日新聞2012/11/17)を引用しておきたい。彼女は祖父の三作品を選ぶのであるが選んだ後でそれらが漱石の神経症につながる作品ばかりであることに気づいた。『道草』は漱石がロンドン留学から帰った後の三年間ほどのことが描かれているというがそれは未利子の母、筆子(漱石の長女)が物心ついて初めて父漱石に接して暮らした時期であった。
「この頃の漱石は強度の神経症に侵されていて妻鏡子や筆子らに狂気の沙汰を繰り返し演じていた」、「子供の頃から『その恐いといったらなかったのよ』と聞かされ続けて育った私は、この漱石の自伝的小説に接するとき、暴力をふるう時の本人は果たしてそれを承知していたのか、そしてそれが正直に書かれているかどうかに、もっぱら関心を持って読んできた。」
しかし、(それを読んで)これだけでは妻や子供たちが可哀想すぎると思い続けてきたのであったが、近ごろになって読み返すと、祖母も母も可哀想だが、祖父こそが本当に可哀想に思えて泣けてしまうという。「『道草』は作り事でなく、主人公が祖父漱石その人のように思え、祖父がどんな人であったかを知るためのこの上ない一冊になっている。」残る2冊のうち『行人』の登場人物が主人公は漱石であり、妻は鏡子に娘は筆子に置き換えられるという。また『彼岸過ぎまで』は占い好きであった鏡子を巧みに織り込んでいることにびっくりするという。
完成された小説を読む上でモデルを詮索する必要はないという考えはそれなりの妥当性を持っている。しかし、ここに略述した漱石の孫娘がついに共鳴したという漱石の心裡の深層はモデル詮索の効果を如実に示すものと見ることができる。
ついでながら、私が漱石を読んだのはかなり昔のことになってしまったが『明暗』こそは漱石の最大傑作と思い続けてきた。そしてたとえ未完の作品とは言え、この評価を裏書きしてくれる人が見つからないのが不満であった。ところが 岩波文庫の『道草』の解説で、相原和邦氏は『明暗』の根底を支えるものは『道草』の原型をなす「実質の論理」であるとして『道草』を称賛した上で、「日本近代文学の記念碑となった『明暗』は、『道草』を経てはじめて成立したのである」と書いている。これは私の上を行く賛辞ではあるがとにかく「わが意を得たり」と言うことができる。
『道草』は漱石の自伝に最も近い作品と言われている。私は『道草』は読んだことがあるので今回は未莉子氏が上げる他の二作から『行人』を選んで読んだ。当然、私は未莉子氏の観点に沿ってこれを読んだのであるがただ漫然と読むのとは違った味わいがあった。
未莉子氏は『行人』の主人公は漱石というが主人公と思って読み始めた「私」はいつまでたっても未莉子のいう主人公らしくならない。やがて私である二郎には兄の一郎がおり、一郎は行為者、二郎は観察者という形で主人公は二人に分裂していることを思わせる。漱石は自分を自分でコントロールできない性格分裂症として把握している。家庭内暴力についても言及している。
一郎は父も母も、従順で親しいはずの二郎もすべて「偽りの器」として疑っている。妻の直への疑りはとりわけ強いことを友人Hに次のように言う。
「一度打(ぶ)っても落付いている。二度打っても落付いている。三度目には抵抗するだろうと思ったが、矢っ張り逆らわない。僕が打てば打つほど向(むこう)はレデーらしくなる。そのために僕は益(ますます)無頼漢(ごろつき)扱いにされなくては済まなくなる。僕は自分の人格の堕落を証明するために、怒りを子羊の上に洩らすと同じ事だ。夫の怒りを利用して、自分の優越を誇ろうとする相手は残酷じゃないか。君、女は腕力に訴える男より遥かに残酷なものだよ。僕は何故女が僕に打たれた時、起って抵抗して呉れなかったと思う。抵抗しないでも好いから、何故一言でも言い争って呉れなかったと思う」
引用が長くなったがこれが漱石の言い分、実は弁明である。未莉子氏が「これだけでは妻や子供たちが可哀想すぎる」と思ったのはここであろう。しかし彼女は今や「祖父(漱石)こそが本当に可哀想に思えて泣けてしまうという。私はそのように読むことができない。Hを通して一郎が語る言葉(ここの引用はその一部である)は観念的で説得力に乏しい。作品中の妻である直が鏡子だとすると、鏡子は聡明で近代的なセンスを身につけており、漱石の狂気を持て余している様子が伺われる。現実の漱石はそこで鏡子に暴力をふるうのだが『行人』に描かれる直は柔軟で物わかりのよい女性として二郎に好かれ同情されている。『行人』には一郎と直のほかにも何組かの男女関係が描かれており、そこには厳然として世間があり、不得要領な末尾(Hを通じた一郎の独白)に目をつぶって、漱石の傑作の一つとしてよいと思う。
ここで日経新聞05年2月27日の文化蘭に掲載された鴨下信一氏(演出家、TBS相談役)の貴重な見解をご紹介しておきたい。鴨下氏は、漱石は『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』を書くうえでどのように口語文をひねり出すかに苦慮を重ねなければならなかったという。なぜなら、二葉亭四迷や山田美妙の言文一致の試みは当時「ほとんど挫折しかけていた」からである。その結果として漱石は世の中全体のことを口語文にしてみようという試みに取り組む。「『吾輩は猫である』に始まり、その十年後の『明暗』の中絶で終わる、短い期間だが膨大な業績の作品群は、この新しい文体を生み出す努力の跡」を示しているという。
鴨下氏はこのような指摘をした上で、漱石は小説のヤマ場をほとんど会話で、それもきわめて巧みに処理していることを指摘している。私が『明暗』に引き付けられたのは主人公たちの真剣勝負のような思いつめた対話であったことが思い出される。『明暗』はそのような言葉の応酬がクライマックスに達した所で中絶されて読者を放り出してしまう。私はその続きを待ちながら今日に至ったような気がする。
鴨下氏はまた「どうも漱石は内容が難しくなりそうなところを、慣れない口語文で書くのを避けて、会話にしている節がある」ともいう。いくつか挙げられた例の中には『行人』からのものもあるが『道草』と『明暗』からの二例を引いておく。
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起ったことは何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解からなくなくなるだけの事さ」(『道草』)
「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そう貴女のように…」
「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当たり前になっちまうのね」(『明暗』)
このような哲学者もどきの滋味深い言葉がちりばめられているのも漱石の魅力の一つである。
奇行をもって知られ、俗世に背を向けた天才ピアニスト、グレン・グールドは偶然の機会に知った漱石の『草枕』に共鳴し、賛辞を惜しまず、事あるごとにその本を人に贈ったという。『草枕』の英訳題は”The Three-Cornered World”で、Alan Turneyの訳により1965年に出版されている。この題名は本文にある「四角な世界から常識と名の付く、一角を摩滅して、三角のうちに住む」生き方からとられている。『草枕』は原題のままの“Kusamakura”でグールドの死後2008年にも英訳が出されている。
ゴシップ的な観点からの文豪論を始めたついでに蛇足とは言い切れない蛇足を付け加えておきます。
漱石は1892年(明治25年)4月に分家して北海道後志国へ本籍を移しています。江藤淳のまとめた年譜にはこれを「徴兵の関係で」とだけ書いてあります。大岡昇平は「漱石と国家意識」と題する講演(1972年10月3日)で「とにかくこの問題が表立って取り上げられたのが、やっと四年前だった、というところに、これまでの漱石研究がどんなに漱石に保護的だったか、ということがわかります」と述べている。(私が先に述べた「取り巻き」たちの配慮の一環です。)この移籍が徴兵忌避の為だったとしたら、漱石はその「非愛国的な」行為によって社会の指弾を受け、「国民的作家」の地位は遠かった、少なくともそこに至るのに紆余曲折を経ねばならなかったと言えそうです。
1892年は漱石26歳の時で、年表を見れば明らかなように翌年には日清戦争が始まり10年後には日露戦争が始まっています。当時まだ開発中だった北海道に名目だけ、分家戸主として本籍を移せば、戸主は招集、徴兵を免れることができたのです。
大岡氏は「漱石は翌年七月東大英文を卒業して徴兵延期が切れるので、これは必要な措置で、まあ誰でもやる便法だった…」と言っています。さて、ここからが本当の蛇足です。「誰でもやる便法」の一例でもありますが、私の父の身内(従兄)には徴兵逃れで一時ニューヨークの郊外に住んでいた人がいたらしい。父は「鉄砲に当たったら、おまえ死ぬんだからなぁ」と言っていたと笑って話していました。その徴兵忌避者は漱石の作品に登場するような「高等遊民」なのはよいとして、そのひどい酒乱ぶりが家族を悩ませていました。その荒れようは家族からだけでなく戦時中に彼が疎開して世話になった本家の人からも聞かされました。(つい連想してしまったが漱石は酒を飲まなかったらしい。)彼の娘の一人はそのために、絶対結婚などはしないと決心して東京の女子大に進み、やがてNHKの第一期の女子アナウンサーになりました。職業婦人として自立することを目指したのだといいます。
ところが事志と反して職場結婚をします。相手はかつて名アナウンサーとして鳴らした和田信賢でした。皮肉なことに彼は酒豪であったと伝えられています。和田がヘルシンキ・オリンピック(1952年)からの帰途パリで客死した時、父が「実枝子もかわいそうに」と言っていたことを覚えています。
和田実枝子(旧姓大島)は職業婦人としての自立の道は全うしました。5年間の空白の後にフリーのアナウンサーとしてNHKに復帰しています。私の記憶にはラジオの長寿番組「婦人の時間」がありますが「料理メモ」などという番組もあったようです。和田が客死した時に、実枝子は和田の子を身ごもっていました。私は後年、その和田の忘れ形見をそうとは知らずにテレビの画面で見ていました。藤堂かほりと言い、一時は日曜美術館の司会をしていました。低音で、控えめ、落ち着いた語り口が記憶に残っています。実枝子は2016年に物故しました。一時、評論家として名の通っていた五代利矢子は実枝子の実妹です。 彼女も秋田の本家に疎開していたから父親の酒癖は知っていたはずです。