秋田市探訪レポート
P大島昌二:2021.10.18 Home

諸兄姉


コロナ禍の脅威の下ですっかり引っ込み思案になっていましたが何とか腰を上げて秋

田へ一泊旅行をしてきました。本文中に説明をしてありますが旧大島商会の店舗がこ

の4月1日から「秋田市まちなか観光案内所」として再発足したのを確認するのが目的

でした。この店舗は私の祖父勘六が建てたものが人手に渡っていたものです。ただ店

の裏手にあった住居には戦後もしばらく、私が就職した後まで勘六の長男一家が住ん

でいました。

抱き合わせの観光と合わせて大いに満足すべき成果を得られたものを観光レポートと

してまとめたものに写真を添えてお送りします。


秋田へ行って来た

 コロナ脅威下でも一ヵ所だけ行きたいと思っていたのが陸奥(みちのく)の秋田であった。コロナが下火になったとは思えないが逼塞、うつ状態からの解放には新鮮な外気が最良の薬である。そう思いはしたが習い性になってなかなか腰を上げられない。そんなことでは年が変わってしまうという強迫観念に襲われて逡巡の後についに腰を上げた。一人旅のつもりであったが家内も行くという。そこで14日から一泊の遠征をした。久しぶりの遠出とあってはすべての経験が新しい。国内ではあっても外国旅行のような感覚がついて回った。その多くはトリヴィアに属することなのですべてカットして先へ進むことにする。

秋田新幹線を利用したが秋田はさすがに遠い。東京駅から4時間半の行程である。自宅のある国立から数えると5時間半になる。(成田からなら北京、香港に飛んで行ける。)となると車中の読み草を考えなければならない。重くならないように新書一冊と英字週刊誌一冊をリュックに入れて家を出た。

東京駅発9時16分、秋田駅着13時43分に乗る。駅で求めた朝昼兼用の弁当を食べ終えて窓外の景色に目をやると、高架線の窓外に広がる秋晴れの日本の景色を外国旅行者の目で見るような気になれた。ついに活字に目をやることなく黄金の稲田や丘陵、次々と現れる緑の樹林に目を楽しませて過ごした。そんなことができてしまうのも老化現象かもしれないが陶然として時を過ごすのは嫌いではない。いつも思うことだが東北の木々の緑は濃い。盛岡では右手近くの岩手山の上辺は雲に覆われていた。そこから田沢湖線に入ると旅情はいっそう深まった。

秋田駅では赤鬼、青鬼のナマハゲ(生剥げ)の大仮面に迎えられた。構内の小さな観光案内所に寄って地図をもらい好天の下を10分ほど歩いて千秋公園近くの四つ星ホテルに到着した。荷物を預かってもらうつもりだったが5分ほど待てば部屋の用意ができるという。有難い。このホテルについてはどうしても書いておきたいことがある。ネットで直接申し込むとツインルームで7,340円(素泊り)と出た。電話で問い合わせたら朝食付きで14,500円という。そこでネットの値段を言うとネットで申し込むとその値段ですという。一定数に達するまでこの値段なのかもしれないが1人分の値段で2人が泊まれる勘定である。

荷物を置いてさっそく千秋公園を歩いた。昔話になるが私はここを二度訪れており、その都度、藤田嗣治の大作「秋田の行事」を見ている。平野(政吉)美術館というのがここにあって下から遠く見上げるようにして見たのであった。徳川家の猜疑心を避けて天守閣のない平城に造った佐竹家の久保田城跡の市民公園は平らなグランドのような記憶しか残っていなかったが小高い丘の上にある起伏に富みで周囲を緑で覆われた美しい公園(162,900㎡)である。ここでもまた記憶のたよりなさを教えられる結果になった。

特筆すべきは西北隅の高台に立つ御隅櫓からの展望である。平成元年に市制百年を記念して復元された展望台は本来は二階建の上層に加えられたという。もちろん私には初見、金100円也の初登楼である。秋田市のシンボルとされる太平山(たいへいざん1,170m)が浮かび立ち西方には逆光にきらめく日本海が遠望された。

千秋公園の後は今回の訪秋の眼目である「まちなか観光案内所」を訪れた。ホテルを起点にすれば駅と反対側へ歩いて5分ほどのところにある。この建物は旧大島商会といい私の祖父勘六が建てた秋田市最古のレンガ造りの洋館で2000年に国の有形登録文化財に指定されている。すでに人手に渡っていたが道路拡幅工事の道筋にあたるために所有者から市へ寄付されて大町6丁目から1丁目へ移築されて新しい生命を得たのであった。

明治34年(1901年)の建築という古い話で設計者の名もなぜ洋館にしたのかもわからない。昔の新聞記事と大島商会の広告ぐらいしか手掛かりはない。私の父は三男で分家しており、もちろんもうこの世にはいない。建物の往時の姿は私の舎弟が提供した写真が唯一のものらしく「まちなか観光案内所」の入り口に置かれた立て看板にはその写真と移築前の旧大島商会の写真が並べて紹介してある。

市の観光課としてはもう少し詳しく知りたいという希望を持っているらしかったので名乗りを上げたところ案内所の2階を使用している「秋田観光コンベンション協会」の参事という人が現れた。手がかりがないのでどんなことでも聞きたいということであったが、私の知るところはせいぜい大島勘六の話に限られていて建物に及ぶものではなかった。ただかつて通りすがりか、絵葉書で見た下関の英国領事館が大島商会に類似しているような気がするとだけは言っておいた。建物は洋館でありながら日本人の設計士が洋館を見よう見まねで作り上げたのではないかというのが通説である。そのため男鹿半島の男鹿石が耐震用にしては必要以上に使われていると指摘されている。

その後ですぐ近くにある菓子本舗高砂堂を訪問した。秋田の名菓であった諸越(もろこし)を食べた記憶があるがそれはもう作っていなかった。旧大島商会の建物を市に寄付した所有者とはそこの当主塚本清氏である。高砂堂の和風の二階建て店舗も秋田県では旧大島商会、旧国立新屋倉庫と同時に有形登録文化財に指定されている。たいへん親切な人で旧大島商会に関する中央地方の各種新聞の大量のファイルを突然現れた他人に惜しげもなく貸してくれた。

ところで帰京してさっそくネットで英国領事館を検索して驚いた。「旧下関英国領事館」の煉瓦造りの建物の写真が大島商会に実にそっくりなのだ。早速「秋田観光コンベンション協会」の参事さんに礼状に添えてこのことを知らせてやった。熱心に調査を進めていたようだからさらに調査を進める有力な手掛かりがここにある。

これで予想以上の収穫を得て第一日が終った。夕食はホテル近くの「我楽」に飛び込んで郷土料理のきりたんぽコースを注文した。日ごろ自粛している日本酒も地元の天功と鳥海山のそれぞれ90ccを賞味した。あわせて1.1合、しゃれた江戸切子のグラスで出てきた。中天の半月と星空の澄みぐあいは東京とは別物であった。

2日目はあいにく曇り空であったが天下晴れての観光旅行である。4時間1万円という貸し切りタクシーの制度があるのでタクシーを呼んで交渉をした。朝9時半である。見るべきところはいくらでもある。4時過ぎの新幹線を予約していたので値切るつもりもなかったが4時間を過ぎて5時間になったらどう?と聞いてみたら1万円で良いですよという。“Thank God!” 昨日の高砂屋と言いここでも。東北ではよくこういうことがある。

 巡ったのはまず郊外の秋田城跡に始まり土崎港(秋田港)、いずれも立派な資料館があり、港には道の駅と地上100mからの展望塔、さらには「土崎みなと伝承館」がある。ついで市内に戻って民俗芸能伝承館(ねぶり流し館と旧金子家住宅)、秋田県立美術館である。

 秋田城は733年に北へ移設された当初は出羽柵(いではのき)と呼ばれ律令国家の城柵群の最北端に位置し東北蝦夷の支配に当たった。奈良時代の出羽国は津軽、渡島(わたりしま、北海道)、それに大陸の渤海国など北方交易の拠点であった。渤海は日本に34回使節を派遣しており、うち6回は出羽国に到着している。全国的に類例のない「古代水洗トイレ」が復元されておりそこで発見される寄生虫卵から大陸からの来訪者が使用していたと推定されている。漆壺の蓋に使われた古文書はしみ込んだ漆のお陰で残存し中央官庁との連絡文書や出挙に関する帳簿と推定されるものがある。発掘はその後も続けられており資料館も拡大新設中で多数の出土品は、時代を異にするが、青森市の三内丸山遺跡を偲ばせる。

 ポートタワー・セリオンの展望塔からは晴れておれば男鹿半島、鳥海山が遠望されるというがあいにくの曇り空であった。眼下の港湾と市街を見下ろした後は道の駅で昼食をとった。土崎港は臨海工業地帯の要であるが、また漁港であり客船、貨物船の寄港地である。かつては秋田米を積み出す西回り航路の主要港として栄えた。「土崎みなと歴史伝承館」には北前船の1/10サイズの模型と土崎神明社の高さ11.5mの曳山(ユネスコ無形文化遺産)の実物が展示してある。

この伝承館のもう一つのテーマは広くは知られていない「土崎空襲の記録」である。太平洋戦争は1945年8月15日に終戦となったが、土崎はその前日14日午後 10時半から翌日の未明までアメリカ軍の空襲にさらされ、B29爆撃機130機により12,000発の爆弾が投下された。死者250人以上、負傷者200人以上と推定されている。近くの八橋(やばせ)地区はかつて日本最大の石油生産基地であり、台地から一望の水田に石油やぐらが林立していた。空襲は日本石油秋田製油所を目標として行われ、火は一週間燃え続けたと言われる。この日本本土最後の空襲がどのような計画の下に行われたかは不明のまま土崎には数多くの慰霊碑が建てられている。周辺伝承館内には製油所倉庫の一部、焼けただれた石柱の骨組みが移築されている。

市の中心部に戻り今度は「秋田市民俗芸能伝承館」を見学した。ここは旧金子家住宅と「ねぶり流し館」の2つのセクションからなっている。見ものは神事に由来し、今では東北三大祭りの一つとして広く知られる竿灯(かんとう)まつり(明治14年までは「ねぶり流し」と呼ばれた)に使われる大小の竿灯である。最も小さな5㎏の竿灯は子供が使い、15㎏、30㎏、50㎏と次第に大きく重くなる。それを手、額、肩(実際は首根)、腰などで支えて練り歩く。その様は黄金の穂波と米俵が揺れ動くと形容される。展示を見ながら説明を聞いていると予想しなかった実演が始まった。その妙技に見とれた後でボランティアをつかまえてなお説明を聞いた。町名変更があっても元のままの町内会で訓練をつみ、また町内対抗のコンクールもある。現在ではほぼ40の町内会が覇を競い優勝するのは至難の業だという。私の本籍地の下肴町(現在は大町の一部)の提灯も飾ってあるので聞いてみると現在のところ2連覇中なのが下肴町だという。しかもその説明をする当人も下肴町の住人で子供の頃は大島商会の裏の広場が遊び場だったという。ほとんど一生帰ることなく過ごした故郷であっても遠きにありて思うものとは限らない。

最後は秋田県立美術館(設計安藤忠雄、2013年9月開館)である。ここではルーブル美術館の銅版画展が開催されていた。しかし私が見に来たのは藤田嗣治の「秋田の行事」である。以前、千秋公園内の平野政吉美術館で見た時は、縦3.65m横20.5mという巨大な絵画も高い天井近くに掲げられていてよく見たとは言い切れなかった。画は壁画として描かれその展示のために特設される絵画館に展示される予定だったが戦時の資材不足のために計画倒れに終り、1967年に平野美術館が建設された。現在の県立美術館はそのオリジナルのプランではないがフジタのこの大作のためにデザインされていることがよくわかる。展示には2階の壁一面を使って目近な高さで見ることができるが、3階のバルコニー風に作られた廊下からも見下ろすことができる。

フジタは何度も秋田を訪れて季節ごとの行事に通暁したというがこの大作を僅か2週間で描き上げている。しかも数数の画材を丹念に見るとフジタは注文主でありパトロンである秋田の豪商平野政吉の意を満たすことに十分に意を用いていたことがわかる。フジタ51歳、油の乗り切った時期の傑作である。

 これで予定をすべて完了した。9時半から始まった観光は5時間に達した。後は一路秋田駅へ。電車は2本早めて15時06分発、東京駅着17時04分であった。

0702 千秋公園の御隅櫓

0706 同上展望台からの秋田市。中央の山は太平山

0712 緑濃い千秋公園

0722 史跡秋田城の全容

0728 秋田土崎港(ポートタワーの展望室より)

0750 ねぶり流し館の竿灯

0714 秋田市まちなか観光案内所

0715 同上の入り口付近の説明看板

旧下関英国領事館(同館ホームページより)