秋田市探訪レポート(追記)
P大島昌二:2021.10.27 Home

「秋田市へ行って来た」を読んだ森下さんに「いい旅行でしたね」と言われてしばし旅の余韻に浸った。さて何ごとにもfollow up が必要である。そこで藤田嗣治、旧大島商会、土崎港空襲の三項目についてこの順で少し書き足してみました。


藤田嗣治のパリと壁画について

「秋田の行事」は横長の画布に八橋の油井から、秋田杉、かまくら、秋田犬、竿灯、さては日吉八幡神社の山王祭、太平山三好神社などの祭礼等々多岐にわたる画材を切れ目なく描き込んでおり、日本古来の絵巻物あるいは屏風絵の趣を持っている。画布には174時間で完成したと誇らしげに書き込んでいるが、作品の規模と言いいずれにせよ日本の画家には類例のない力業である。

藤田は在外生活が長くフランスではFoujita として知られていたから日本語でも藤田よりはフジタの方がしっくりくるように思う。1913年、27歳で単身フランスに渡り、1929年に17年ぶりで帰国、翌年パリに戻るが1932年に南米を旅行したのちアメリカ経由で2度目の帰国をした。「秋田の行事」はこの時期(1937年)の作品である。同じ年にフジタは海軍省の嘱託として藤島武二らと漢口攻略戦に従軍している。1939年には3度目の渡仏をするが翌1940年にドイツ軍の侵攻を受けて陥落直前のパリを脱出し帰国した。「ハルハ河畔之戦闘」に始まる戦争画を量産したのはこの時期である。

フジタの戦中の画業は絶賛を浴び作品は全国を巡回したが戦後は一転してフジタは日本美術会によって戦争犯罪者リストの筆頭に挙げられた。代表作「アッツ島玉砕」は九段下の国立近代美術館で見ることができる。その後フジタは1949年に羽田を発ちアメリカ経由で翌50年にパリに戻った。フジタはフランス国立近代美術館に数点の絵を寄贈しているが、その中の一点「私の部屋、目覚まし時計のある静物」は出国前に帝室美術館に寄贈を申し入れて断られたものであった。晩年1966年に、ランスのノートルダム・ラ・ペの礼拝堂にフレスコ画を完成して国際的な話題を呼んだがそれが最後の仕事になった。10月除幕式、12月ガンで入院、68年1月にチューリヒ州立病院で81年の生涯を閉じた。同年3月、日本政府は勲一等瑞宝章を贈った。

画家としてフランスで名声を博し、エコル・ド・パリを代表する画家として名声をはせたフジタも長い海外生活と戦争協力のためにその画業のわりには日本で知られることは多くない。フジタ自身は『巴里の横顔』、『腕(ブラ)一本』などの随筆集を出しているが「壁画について」と題する一編でロートレックが女郎屋の壁に一か月もの間居座ってひたすら興に乗じて出入りする女たちを描きなぐっていたことを紹介している。その同じ随筆

でフジタは銀座ブラジル珈琲店の壁画(「大地」)、大阪十合の壁画(「春」)、またその後には銀座コロンバンの天井画を描いたことを述べている。コロンバンのものは「五尺に七尺のもの六枚で、りんご林、オリーブ、カシ、ポプラ、葡萄、柳で、四季や、地方色や都会や農村等も織りだしておいた」という。「秋田の行事」制作に先行する作品群である。

フジタは生涯に5度結婚をしているが3度目の夫人ユキ・デスノスは「エコル・ド・パリへの招待と」という副題を持つ『ユキの回想』(河盛好蔵訳)を書いている。その前半はフジタとの生活、後半は前衛詩人ロベール・デスノスとの生活を綴ったものである。雪をイメージしたユキ(Youki)はフジタの命名である。ある日フジタはユキに別れの手紙を残して赤い髪の女と出て行く。ユキはデスノスと暮らすがデスノスはナチスの強制収容所で命を落とす。フジタの17年ぶりの帰国に日本へ同行したユキはその回想記の中で驚きに満ちた日本を懐かしく回想している。

フジタは日本を捨てたと言われることを望まなかった。事実は日本を追い出されたのであった。2015年になってフジタが1956年6月30日にモンパルナスの自宅で親交のあった日本人(福田満)を相手に話した録音が発見された。そこでフジタは都々逸を披露したりするなどして日本への思慕を語っている。福田さんは「藤田先生は日本嫌いで縁を切ったなどと言われているが、本当は日本が大好きで、人の何倍も日本のことを考えていた」と話していた。

旧大島商会についての追記

旧大島商会については秋田観光の一部として挿入したので個人的なメモとしては書き足りないことが多々あります。旧下関英国領事館(ウイリアム・コーワン設計)について、写真を添付した上でそれとの類似性に驚いたことを書きましたがこの領事館の上棟日は明治39年で大島商会の5年後でした。これについては私のファイルにあった古い日経新聞(06年12月17日)に写真入りでこの領事館についての興味深い記事がありました。その記事には「当時の英国建築の流行の影響が興味深い」という鈴木博之という専門家(東大教授)の話が引用されています。おそらくこの領事館以外にも同じ様式の建物があったのではないかと思われますが鹿鳴館なども写真を見ると「英国建築の流行」による共通の要素が見て取れます。

以下は冗長になりますが私自身のためのメモのつもりです。日本最初の洋風建築は、明治の浮世絵などによく姿を見せる国立第一銀行で建設は明治5年ということですから大島商会の明治34年までには十分な時日が経過しております。

大島商会はそれまでに建てられた英国流の建物をモデルとして日本人の設計士によって建てられたものと見てよいでしょう。実際、当時の絵葉書や写真には大島商会類似の建物が散見されます。例えば明治44年4月の日本橋開通式の日本橋通の絵葉書には遠目ながら大島商会類似の建物が数多く見えます。これらのもののうち現存するものが皆無であれ

ば日本人の手による最初期の洋館として旧大島商会が見直され保存されることには十分な意義を認めることができると思います。石工については今回塚本氏から借りてきたファイルにある朝日新聞(1991年2月1日)の記事によれば現当主の父信一郎がその父幸三郎の備忘録をもとに、建築家は不明ながら石屋は八日町の若狭石屋であったという。またレンガ館を買い取ったのは1937年で価格は5,000円であった。

ふれあい観光案内所の入り口にある説明版の写真を見ればわかるように、移築された建物は大島商会の元々の建物といくつかの点で相違していることがわかります。しかし肝要なことはその表面ではなくその骨組み、躯体だと考えます。くらべものにならないのはもちろんですが復旧されたドレスデンのフラウエン教会の壁面は新旧のレンガの取り合わせでまだら模様になったままです。したがって移築と言うのは難しいとしても復元の名には十分に値すると言えるでしょう。出所は不明ですが市の広報と思われるパンフレットには「解体調査によりわかったこと」として「既存のレンガ約44,000個を1個ずつバラし、使用可能な約3,400個について正面と右側面の一部に再利用しています」、また「(屋根を支える)小屋組は2階天井裏に…当初の形のまま本建築に継承されています」ということです。建物の左側面にも回ってみましたがレンガは一色の新しい製品でした。

建築物としての旧大島商会については以上の通りですが、大島商会の業態については宣伝パンフレットなどに興味を引かれます。当時は輸入品に限られていた自転車の販促のために「遠乗り会」と称する現在でもハードなロードレースを主催していました。時計などの豪華賞品を出しており入賞者の所要時間などの記録も残っています。2001年には創業100年を記念して何人かの若者が旧大島商会(大町六丁目)を起点として自発的な「遠乗り会」の再現に挑んだことが新聞に報じられています。大島勘六、もって瞑すべしである。

劇作家の青江舜二郎(本名大島長三郎)の内藤湖南の伝記には大島商会が秋田駅構内に構えた売店で旅客に売るための観光パンフレットとして「文名噴々」というのを出したことを書いています。秋田県出身の文筆家の一人として湖南にも寄稿を求めたが意を尽くした断りの手紙が来た。編集に当たった青柳有美は許可を得た上でその断り状をそのまま載せたという。

大島商会の家産はなぜ傾いたかについて私は父に聞いたことがあった。「震災(関東大震災)だよ」という素気ない返事しか返ってこなかったが私はそればかりではなかったと思っている。

土崎港の空襲(1945年8月14日22時30分~15日未明)

土崎港の空襲については松浦総三著『天皇裕仁と地方都市空襲』にある程度の詳細が載っています(185~189頁「玉音放送後三日間も燃えた土崎港」)。松浦は花岡泰順著『土崎空襲の記録』(1983年刊行)によって次のように書いている。

「B29秋田市を襲ふ 百卅機で投弾二千発」と二面トップで九段抜きの記事が『秋田魁新聞』(1945年8月15日)にのっている。統制下の新聞として一面は他の新聞と同様に戦争終結の大詔渙発の記事であろう。第一波の空襲は8月14日午後10時34分に開始され、その40分後に第二波の本格的爆撃が行われ全町停電となり、通信は途絶し、製油所から上がる炎が空高く舞い上がり、町中を赤く照らして、その中で避難を急ぐ町民が右往左往し、まさに地獄絵巻であった。

爆撃は主として製油所と土崎港に向けられ、両地域とも壊滅的な打撃を受けた。製油所構内にあった三門の高射砲は探照灯が点灯せず第二波を迎えてようやく「めくら打ち」で応戦した。これが日本の銃後の備えの実態であった。敵機は15日午前2時36分頃秋田県中部を通過し山形、宮城を経て退去した。

死者の内訳は民間人70人、軍人100余人、民間人負傷者は80人とされる。これらの数字は「土崎みなと街づくり協議会」が作成した伝承館の数字と異なる。空襲による死者、負傷者の数は原爆の被害者数と同様に正確を求めがたい。ただ継続的な調査を進めた街づくり協議会の数値の方がより慎重な調査にもとづいている。検視によって身元確認のできない死者も多数あった。検視に当たった警察官は検視の途中で終戦の放送を聞いて皆泣いた。

なぜこの時期、トルーマン大統領が日本政府の降伏文書を発表し、レーヒ統合幕僚会議議長がすべての軍隊に「攻撃作戦の即時停止」を指令した3時間38分後にこのような激しい空襲が行われたかについての解答は米軍資料にある。それによれば「この攻撃が計画された当時、日本との和平交渉が行われていたが、この交渉は日本によって遅らされていると思われたので、八月十四、十五日の攻撃が命ぜられた。」

奥住喜重の『中小都市空襲』(1988年刊行)は米軍任務報告書によって次のように説明している。土崎港を襲った第315航空団は硫黄島ではなく、グアム島北端の飛行場を発信基地として直接に土崎港へ向かった。任に当たった爆撃機は硫黄島上空から銚子沖を経て北上し、磐城付近から奥羽地方を北西に向かい磐梯山の北をかすめて横切り日本海上の粟島上空に出てから土崎港を襲った。

空襲は8月14日の午後11時48分に始まり、翌15日未明の午前2時39分まで3時間近くに及んだと記録されている。当夜の往復の飛行時間は16時間50分(通常なら14時間前後)という異例の長時間飛行であった。

〔注〕「130機による12,000発では一機あたりの搭載量が92発となる。これでは多すぎるのではないかと思い歴史伝承館へ問い合わせたところ折り返し返事が届いた。それは「米軍記録秋田情報 付属文書E合同統計要約」によって(花岡泰順著『土崎空襲の記録』より引用)」、「B-29爆撃機132機から12,047発投下、総重量954トン」とした上で「B-29の最大爆弾搭載量は、9トンであることから130機で約12,000発の投下は可能であったと想定されます」というものでした。

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