安田純平氏講演会
10月3日、新三木会主催の昼食付の講演会に出席しました。講師は安田純平氏で以下のような触れ込みでした。簡単なメモを纏めましたが安田氏自身にも未だに不明なことが多く、講演の趣旨を伝える拙文には意図せざる誤りが加味されていることが考えられます。そのようなリスクを承知の上で、日本では往々にして「自己責任」なる抽象論に矮小化されている問題を本来の姿に戻して検討したいと考えました。
『人質40カ月の真相と戦場取材の意義』
安田純平氏 フリージャーナリスト 一橋大学社会学部卒(1997)
中東シリアにて4度の拘束(人質)に遭いながら、なぜ戦地取材に執着したのか、その動機と拘束状況経緯を語ります。
会場は如水会館3階桜の間、定員40人である。中東地域ではよく誘拐や人質事件が発生する。日本では「君子危うきに近寄らず」という諺が愛好されて危険に近づくことは君子のなすべきことではないと思われている。いずれにせよ自ら進んで危うきに近寄った不届き者は自らその責めを負わなければならない。農村的文化では「播かぬ種は生えぬ」と言い、播いた種は自分で刈らねばならない。「自己責任」という言葉はその思想を都市文化に移植したものと言ってよいだろう。ビートルズのように青春を謳歌するわけにはいかないのである。
そんな具合だから、40人の席を満たすのは難しいだろうというのが私の予想だった。ところが桜の間は満席の盛況だった。これはスピーカーを同学のよしみで受け入れたというだけではないことが講演後の質疑応答で分かったような気がする。
講演は最初に空爆下のシリアの街並み、瓦礫の山、逃げ隠れする戦闘員、負傷者の運搬など安田氏が撮影した映像によるテレビ画面で始まった。画面の振動が伝わるような現場そのものの迫力があった。
続いてはシリアを中心に据えた中東の歴史。英仏によって国境線が引かれたが気候温暖で好条件をそろえたレバノンは分離された。シリア人は今でもレバノンを自分の国と思っている。シリアでは1960年代から非常事態法が施行されていた。秘密警察の国であるが穏やかに暮らすことはできた。それなら今よりも良かったのではないかと聞くと「確かに狼は来ないし餌はもらえるが家畜のような生活だった」という答えが返ってくる。人が集まること自体が問題となるのだ。日本にいるシリア人も日常的におびえているという。国連は機能しない。中露が拒否権をにぎっているからだ。イラク戦後、イラン、イラク、レバノン(ヒズボラ)、シリアのシーア派が地図の上でもつながった。イスラム国(IS,ISIS)はイスラムの国を作るのが目的である。
ここまでで講演のかなりの時間が使われたが注意して日々ニュースを追っている者には斬新といえるニュースは多くないかもしれない。私が最も傾聴させられたのは最後の、「自己責任」下に置かれた安田氏(以下敬称略)の周辺をめぐる政治的な動きである。一言でいえば安田が誰によって、何のために拘束されているかについての情報が不明である上に、安田がたんに「拘束」されたことを「人質」にとられたと喧伝され事態を複雑にした(注1)。
戦線に近接した地域では不審者の拘束は日常的に行われるが疑いが解ければ釈放される。安田を解放するためと称して画策する仲介者(ブローカー)、やそれらが接触する政府あるいは民間団体がこれを「人質」として複雑な反応を示し、マスコミの報道がそれに輪をかけたのである。もちろん拘束したグループ側の意思統一が万全であり得るはずもない。拘束の場所も移動を余儀なくされる。安田は今でもどのようなグループが彼を拘束したのかがわからずにいる。このような事情が重なって解放までの時期が大きく引き延ばされ40か月に及んだのであった。
安田は2004年にイランで、スパイ容疑で3日間拘束されているが人質ではなく身代金などの要求は出されていない。(安田の前の2人は人質として捉えられ身代金が要求された。)
今回の2015年6月22日の逮捕はトルコ・シリアの国境を越えたところでシリア人のガイドとはぐれてしまい、暗い夜道の方向を間違えて歩いてしまったためであった(注2)。スパイ容疑であって「人質」(”hostage”)ではなかったがそのうち「以前にも人質になっただろう」と言われた(注3)。このころから人質ブローカーが勝手に入り込んできて家族、メディア、外務省などと接触を始めた。ブローカーは日本政府と接触した上で「俺たちは政府と交渉できる」と豪語するが身代金は法外な額で相手にされなかった。イスラム国に逮捕された湯川遥菜、後藤健二の場合、イスラム国が要求した身代金は2人合わせて20億円だった。安田を拘束していたグループは、われわれは「ダイシュ」ではない(イスラム国ではない)と言っていたが安田にはイスラム国と非イスラム国の違いは最後まで分からなかった。
日本政府はこのブローカーと接触し、交渉の気配を見せたが後は時間をもてあそんでいるだけのように見えた。(湯川の救出に向かった後藤はISILに捕らえられ15年2月に殺害されていた。)安田自身は身代金の交渉には応じるべきでないという信念を持ち、夫人との交信を許された機会に暗号に忍ばせてそのことを伝えていた。安田の監視人たちは交渉がうまくいきそうに見えると機嫌がよくなり、それが失望に変わると安田につらく当たるなどと交渉の進展に一喜一憂していた。ブローカーは、最終的に政府との交渉を断念したところで、腹いせに安田の家族に向かって「旦那さんは亡くなりました」と述べている。これらのいきさつから判断すると、確言はできないが、安田の拘禁者たちもこのブローカーの言動に振り回されていた可能性がある。そのブローカーもまた日本政府の煮え切らない態度に振り回されていたと言えそうだ。安田自身は初期の段階で交渉を止めていたらもっと早く釈放されていただろうと考えている。安田は拘禁者たちに、われわれはイスラム国ではないと聞かされており、「(安田を)帰す気があることは最初から分かっていた。」たしかに時間はかかったが事実はその通りになった。「イスラム国と非イスラム国の違いは最後までわからなかったが殺されればイスラム国である。」
(注1~3)安田氏は2018年11月02日、帰国後10日を経ずして日本記者クラブで長時間の記者会見を行っている。Youtube に見る通り2時間43分に及ぶものである。この会見で安田は一貫して「人質」という言葉を用いている。そこでは安田は6月22日にシリアに入国し、25日にはスパイ容疑は晴れたが7月下旬に日本政府に身代金が要求されその段階で人質となったことになっている。彼がどのようにしてガイドの保護を離れて敵手に落ちたかの事情は微妙としかいえない。安田は国境の手前で次のガイドに引き渡され、やがてそのガイドとはぐれてそのまま「おかしい」と思いながら歩き続けているうちに車に乗せられたという。ただし質疑の中で安田本人は、信用できる人たちを経由しており、仲介者に裏切られたとは思わないと述べている。安田は後藤健二の親しい友人であるシリア人からシリア難民の小学校を経営しているシリア人を紹介されていた。安田はこの人脈に深い信頼を寄せている。
解放まで40か月(3年4か月)に及んだ拘束下の心理的、肉体的な状況は本人の説明を聞いても想像することは難しい。想像の対象としては時間が長すぎる。何度も移動させられ住居も一軒家であったり集合住宅の一室であったりした。そこがどこであるか地名は常に伏せられたままである。最初1年間は名目的にはゲストであり、あてがわれた1台のテレビがその証という。この間、新しいといえる経験は皆無であった。昔のことばかりを考えていた。その考えも常にネガティヴな方向に向かい過去を悔やみ続けた。あの時になぜ違うことをしなかったのだろう。家族や友人たちとなぜもっと話さなかったのだろう。何とかして帰って人生をやり直したい。
処遇には変化があり、テレビのない時期もあった。理由はわからないままスパイの容疑をかけられてから、次第に監視の厳しさが増した。それは異常と言える厳しさで安田が立てる小さな物音にも過敏に反応しわずかな身動きすら許されなかった。安田は自殺を企てたことがあると日本で噂されたがそれは事実ではない。あまりの苦しさにハンストを始めたことがある。皮膚が乾燥して弾力性を失い、押した筋肉が元に戻らない状態になったりした。身体を動かせない状態が長く続くうちに廃人になるのではないかという恐怖に襲われるようになった。「帰してやるから飯を食え」と言われた後にまた元の状態に戻されたときには思わず「殺してくれ」と叫んでいた。
イスラムに入信したのは何とかして身動きをする機会を得たいためであった。周知のようにイスラムは日に5回礼拝する。礼拝によって身体を動かす機会が得られると思ったのだ。コーランを読み上げて自分に対する扱いがアッラーの教えに背くものだと教えた。日本に帰ってイスラムを伝えるのが俺のジハードだと説いたこともあった。
やがて解放の時が来た。トルコの支援団体(イー・ハー・ハー)は「無償解放の同意が欲しい」と日本政府に連絡したが政府にこれを無視された後で家族に接触してきた。安田が解放されたのはその一か月後である。3年4か月の拘束生活を解かれ、振り返って思うことは「やりたいことを、できる時にやっておきたい」ということである。
帰国してから迷惑をかけたのに謝罪の一言もないと今でも非難される。(これは2004年のイラク人質事件以来一貫している。)謝罪は最初に外交官に述べていた。心配をかけたし、現地の外交官は相手と連絡がとれないと言いながら家族には連絡を取ってくれていたことは承知していたし感謝もしている。政府が交渉をしたら身代金を払うことが前提となるので無視するのは当然だと理解している。「信頼できるルート」からとして家族に伝えられたことは間違いだらけだった。
講演の後の質疑応答からは次のようなことが浮かび上がってきた。まず政府の関与が極めて冷ややかであることは講演の中からも浮かび上がってくる。官房副長官が「あいつらをヒーローにするな」と述べたことが伝わっている。このような対応は2004年のイラク人質事件(高遠菜穂子、今井紀明)以来引き続いており、日本社会の「自己責任論」と軌を一にするものと言えるだろう。イラク人質事件当時の世論のバッシングは常軌を逸していた。高遠は犯罪者扱いでマスコミは勝手に家に上がり込んでパソコンを使ったりしたという。
マスコミのセンセーショナリズムも際立っている。安田がイラクで拘束されたとき夫人は長い面談の後で「外務省は何もしませんから」といわれて思わず「それはないでしょう!」と声を張り上げたシーンばかりが繰り返し放映されて視聴者にネガティヴな印象を刻みつけた。講演でも述べられたことだが報道は一獲千金を目指す人質ブローカーの言動に揺り動かされ続けた。これにマスコミの付和雷同性が輪をかけたことになる。安田が3回自殺を図ったなどという話には根拠がない。
「助けてください」などというポスターを掲げた写真などが流されたがすべて演出されたもので被害者の意思を伝えるものではない。安田としてはどうしようもないことだ。安田が収監された同じ建物には雑多な収監者が出入りしており時には安田を心理的に圧迫するために彼らを拷問する様子を安田に聞かせたりした。安田が韓国名を名乗らされたのはここに日本人がいることが外部に伝わらないようにするためであった。
講演の全体から伝わってくる最大の印象は「報道の事実」がいかに現実からカイリしているかということである。このことは演題の後半に掲げられながら、直接には触れられなかった『…戦場取材の意義』と深くかかわっている。これはまた自己責任論とも結びついているからこの二つは合わせて考える必要がある。「自己責任論とは自由なんてないというに等しい、それでは『やっていいよ』と言われることしかやれないではないか」というのが安田の意見である。その当人は目下パスポートをはく奪された状態にある。これでは安田はせっかく帰還した母国で拘束されたに等しいではないかと思わざるを得ない。
「後記」筆者はこの事件には人並み以上の関心を持ったことはなかった。したがって安田氏の講演の感想を纏める上で講演から得たもの以上の知識はほとんど持っていない。付録に示すように2005年に安田純平氏を囲んで話を聞いたことがあった程度である。 もちろんジャーナリズムのあり方、中東問題など付随する問題に関心は持っていた。
この感想を纏め始めるころにフィナンシャル・タイムズ10月5日号に掲載された「シリア戦争から巨富を築く男たち」”The men making millions from Syria's war”と題する長文のレポートを読む機会があった。ここで暗躍する男たちは人質ブローカーのような小物ではない。石油の密輸入や瓦礫の中の鉄材を自由に運び去る政商や投機家たちである。油田や製油所は争奪の対象である。アメリカ政府のサンクションが具体的個別的にどのように発動されるかもわかる。「腹が減っては戦はできぬ」とはどこから出た言葉だろうか、腹を金と言い換えたらどうかと思う。武器は金であがなわなければならない。戦乱で疲弊したシリア国民の生活設計は今や烏有に帰している。日本人にとっては対岸の火事だろうか。筆者の勤務していた英国の会社はかつて地中海性気候に恵まれたレバノンのベイルートに事務所を開いたことがあった。そのレバノンは一瞬のうちに戦乱の巷と化した。歩いて浜辺に降りることができると喜んでいた同僚の夢も一瞬にして消えた。今の世の中でこのようなことが瞬時にして起こりうるのだ。(10/10/19)
ご参考(04/10/19)
新三木会 則松久夫様
昨日の安田純平氏の講演は、事実を伝えるべき報道機関がそれぞれ腹に一物を持った政府や仲介者の策略に翻弄されるさまが伝わってたいへん教えられました。同時にまた考えるべき多くの種も蒔いてもらったように思います。
実は私は2005年3月13日(日)に33年卒の有志数人で彼を囲んで話を聞いたことがあり昨日の休憩時間に安田氏にそのことを伝えながら挨拶をしました。あれから長い年月を経ておりその間に多事多難に遭遇したはずの彼はそのことを2005年ごろだったろうと記憶に残してくれていました。
昨日の感想をまとめたいと考えて上記の日付を日記の中に探し出し、会合は当時市川市市会議員をしていた同級の豊田勝彦君の仲介によるもので、出席は豊田夫妻、安田悠夫妻、沼倉和雄、石原保徳(故人)、戸松孝夫、大島昌二ほかに他クラスから原治平とその友人一人の10人であったことを確かめました。場所は市川市の公民館の一室らしく、終ってからわれわれは同市の市民ネットの有志懇談会に出席しています。残念ながら座談の内容は記憶にありませんが翌日の日記には豊田、安田両君の依頼によって私が同期の「33PCネット」に報告を送ったことになっている。これまた残念ながら当時使用したPCはその後故障して放置されたままなのでどんな内容になっているか確かめることができません。
いずれにしても重要なのは昨日の話なので少し整理してみるつもりです。安田さんに連絡を取る機会があると思うのでよろしくお伝えください。
大島昌二